嬉しい孫娘の中学入学

令和6年4月25日

制服姿の孫娘を見ると、改めて一人前の女性になったことを実感する。
もう、我が女房と肩を並べる背丈になってきた。
つい先日までは小学生らしく、友達と遊びまわっていたのに、制服姿が大人びた女学生に変身するから不思議。
小学校時代では休憩時間になるとひと際活発との先生の評価だが、沢山の友達と動き回れるのが安心材料でもある。
私立中学に通える幸運は、我々貧乏であった子供時代を過ごした年代には、まるでお嬢様育ちのように感じるのだが。。。

入学式はカトリック教会のような讃美歌の合唱で進めたと聞く。
当方それほど信仰心が強くもなく、改めて、生活環境に変化など無いのだが、規律を知らず知らずのうちに身に着ける良い環境は、孫娘にも少しずつしみ込んで行くことを期待したい。
それにしても、自宅から中学までは近所の公立中学の距離とそんなに大きく違えず、歩いて20分程度で帰り着くと聞き及ぶ。
どうなるかと心配しつつ見送る日々は、そんな大騒ぎする話ではなかった。
今年も咲いた姫リンゴの花
TOPページへ

孫娘の中学受験

令和6年2月10日

ごくごく普通に近くの公立小学校から、公立中学校に行くものだと思っていたが、昨年の秋あたりから、親子連れで近隣の私立中学の見学に行き始めた。
ガチガチの受験勉強を必死で突き進むようには見えない孫娘が、馬鹿に塾での時間が多くなってきた。
1月に入ると学校を休んで、塾通いの時間が何と昼すぎから夜8時過ぎまでといよいよ集中受験対策と緊迫感が増す。
そして、この2月初めに近くの私立中学受験となったのである。
受験は通算3日間あり、第1次、第2次、第3次で、その日、その日で発表が続くという。
今風にネットでその日の夜には受験番号で合格が知らされる方式。
第1次では合格せず、二日目では面接とペーパーテストの組み合わせとなった。
そして、その日の19時にネットで発表。
その時間を過ぎても、娘は2階から降りてこず、「どうもいかんな!」と心配していたら、泣き顔で「受かった」と1階に降りてきた。
我が女房は2階の娘のパソコンに確認のため見に行くが、同じく涙目である。
そして、塾に出掛けている孫娘の先生に受かったことを報告した。
何人か受験した生徒達には第2次でも合格できない子もいて、そんなお子さんのお母さんから試験の内容を教えてほしいとLINEが入る。

受験体験は少なくとも高校からだと思っていた当方は、早々と“お受験”とは予想外の展開である。
学校が好きと語る孫娘の将来が幸多かれと望むばかりである。
ご近所の菱沼八王子神社のひな祭り展示
TOPページへ

輪をかけて起こった3ヶ日の大惨事

令和6年1月3日

震災で大騒ぎをしている中、1月2日の夕刻に羽田空港にて滑走路に止まっていた小型飛行機に着陸してきた大型ジェット機が衝突し、その大型ジェット機と小型飛行機が炎上するというとんでもない事故が発生した。
羽田の現場からは乗客を乗せた飛行機が次第に大きな炎に包まれ、ついには丸ごと炎上・大破との様子が生々しく伝えられる。
幸い、乗客全員は避難口から脱出し、けが人はないと聞かされるが、目の前で飛行機が見る見る間に炎に包まれ、原形をとどめない姿になっていくのを見ることなどめったに無い。
幸か不幸か、この日も能登半島の地震報道でTV画面は忙しく、また、余震が毎日発生し続けている中では、こんな大騒ぎもかき消されてしまうのだから不思議なものだ。

能登の悲惨な現状、そして交通網の寸断、そんなパニック状態が続く中、飛行機事故で死者が居なかったので良かったが、いやはやとんでもない大事故発生なのであった。
3ヶ日が過ぎれば会社も始まるだろうから、鉄道は不通、飛行機は飛行場が使えないでは大混乱が目に見える。
多くの人に被害を与えつつ、それでも(文句も言わずに)冷静に対応し続ける日本人のすばらしさを改めて感じたお正月であった。
壮絶な羽田の現場
TOPページへ

思わず目が覚めた元旦の日

令和6年1月1日

思わず目が覚めた元旦の日。
いつもながら穏やかな日差しがあふれる元旦の日であった。
午後、もらって年賀状の返事で、パソコンの前で印刷業務にいそしむ中、 ふと手を休めると、頭がユラユラと不思議な感覚が数十秒続く。
この日は午前中に菱沼八王子神社に参拝に行き、その際走った後遺症かと一瞬不安がよぎる。
念のため1階に下りてゆくと、TV画面では緊急地震速報が流れ、アナウンサーは津波が発生しており一刻も海岸から丘の方に避難するよう声を出し続けていた。
それは能登地方で震度7の大地震が発生したと知る。
しかも地震は収まらず、TVからも頻繁に緊急地震警報が10分おきに不気味なチャイムとともに地震発生と伝え続ける。
あのユラユラは何と地震の長周期振動なのであった。
能登地方は建物の崩壊や道路の地割れ発生ばかりでなく、あの朝市で有名な輪島の商店街は200軒近くが火災で焼失したと聞かされる。
そして地震に伴う津波発生で、長時間海岸沿いの地域に避難の放送が流れ続けた。
地震は元旦の午後4時過ぎ、そこには親の家に集まって楽しい団欒を続けた時間であろう。
遠い日本海沿岸の地震であったが、我が家の夕食もどこか落ち着かない思いであった。
すっかりアイドルになった猫のさばちゃん
TOPページへ

2023年を振り返る

令和5年12月30日

今年はウクライナの戦争でロシアの横暴が騒がれる中、冬に入りイスラエル軍のガザへの報復攻撃で、世界中からの非難が大きな話題にもなった。
TV画面では泣き叫ぶ人たちの姿を見ながら、それでもはるか遠い他人事としか感じないことは、幸運としか言えまい。
どの紛争にも長い民族間の因縁があり、我々には計り知れない怨念の結果なのでもあった。
その影響は小麦価格の上昇、船舶での運送費用の上昇、また、石油価格の沸騰など、結果的には物価が過去30年に及ぶデフレを脱却する契機となりつつある。
それにも増して、夏の酷暑は近年でも特出するもので、しかも冬になっても寒さが実感できない。
12月でも夏日寸前まで気温が上昇した。
サンマは全くの不良で、イカさえ大衆魚ではなくなってきている。
ヨーロッパのように冬と夏しかないすさまじい時代に入った感がする。。
夏の酷暑のせいで、自宅に閉じこもることも多くなり、すっかり足腰が弱くなっていくには身に染みて感じる寂しさでもある。
寄る年波には勝てないと嘆いてみても、無理がきかない年齢に入ったのだろう。

こんな調子で2023年は(何とか)無事乗り切った感はあるが、この先はおまけの人生として、楽しみつくすのが家族のためでもあろうか。
孫娘が中学受験をするそうな!
それも恵まれた環境だからできること。大きく自由に育ってほしいと切望する。
第4コーナーを回ったわが身は、それでも地域の人たちとの交流を続けながら限りある人生を享受していきたい。
山あり谷ありの人生こそ、生きがいが続く人生だからである。
美味しかった油壷京急ホテルのお刺身定食
TOPページへ

やっぱりサザンは茅ヶ崎だ

令和5年10月3日

以下の文はネットでの掲載文を転載する。
デビュー45周年を迎えたサザンオールスターズが9月27日〜10月1日の4日間、神奈川・茅ヶ崎公園野球場にて10年ぶり3度目の「茅ヶ崎ライブ」を開催した。
各日1万8,000人を動員、さらに後半の2公演においては、全国の270館を超える映画館にてライブビューイングも実施され、4日間で27万人超を動員した。
デビュー45周年、10年ぶり3度目となる「茅ヶ崎ライブ2023」でヒット曲を披露。
茅ヶ崎は、フロントマン・桑田佳祐の出身地であり、デビュー曲「勝手にシンドバッド」をはじめ様々な楽曲の歌詞にも度々登場する、サザンオールスターズにとっての“故郷”。
桑田を先頭に、それぞれの肩に手を置きサザンオールスターズの5人が縦一列になって軽快にステージに登場。
C調言葉に御用心」からライブがスタートすると、ステージ上空からは始まりの祝砲として花火が打ち上がる。
最初のMCコーナーでは「どうも、ありがとう!目立ちたがり屋の芸人、サザンオールスターズでございます!」とデビュー当時、テレビ出演の際に桑田佳祐が発した名せりふを、45年越しに繰り出した。
「里帰りでございます。すっかり高齢者になりました(笑)」と時の流れをしみじみと噛み締める一幕も。
続けて、「涙のキッス」「夏をあきらめて」「栄光の男」「そんなヒロシに騙されて」「いとしのエリー」など、時代を縦横無尽に旅するセットリストを披露。
さらに、未来への希望を表すような光の球体が夜空に浮かび上がると、観客の“烏帽子ライト”も光り、「東京VICTORY」「栞(しおり)のテーマ」「太陽は罪な奴」「真夏の果実」「LOVE AFFAIR?秘密のデート?」と、往年のヒット曲や「ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)」「盆ギリ恋歌」などを披露し本編が終了。
サザンオールスターズ、ラストまでファンを魅了
アンコールでは、「ロックンロール・スーパーマン?Rock'n Roll Superman?」「Ya Ya(あの時代を忘れない)」を続けて披露。
スクリーンには、デビュー当初のサザンの姿が映し出され、今現在の五人が重なり感動を誘う。
そして桑田が「また楽しい逢瀬が叶いますよう、サザンオールスターズ、次なる計画を練って、皆さんにご報告する事をお約束致します!」と宣言し、「希望の轍」やデビュー曲「勝手にシンドバッド」、最新曲「Relay?杜の詩」を歌い上げる。
アンコールも含む合計26曲を披露したサザンオールスターズ。
最後には、ライブ会場のファン、開催にあたり協力してくれた茅ヶ崎に向けて感謝の花火を打ち上げ、ライブは幕を閉じた。
※当方は9月27日の夕方6時半ごろ、近くを車で通りかかった。
それでも会場の音が聞こえ、桑田佳祐の声と判る。
茅ヶ崎駅近くでは記念グッツが飛ぶように売れたと聞く。
いいなあ!茅ヶ崎は。。。。
サザンオールスターズメンバー
TOPページへ

認知症の方と同席する

令和5年9月30日

誰でも歳を取ると記憶にも言動にもアレっと思うことが多くなった。
家でも固有名詞が出てこなくなったのは致し方あるまい。
そんな中、時々通っている健康マージャンのお仲間から、「絶対来てよ」とご依頼があった。
それは最近来られたマージャンのメンバーの中に軽い認知症の方が居て、仲間内にてぶつぶつつぶやくので、ほかの方がその方とはやりたくないとクレームが出たそうだ。
ついては新しく4名のメンバーを作るので、当方に参加してほしいと連絡が入った。
私はと言えばマージャンは新米で辛うじて、ミスなく付いていける程度の腕前。
サクサクとベテラン勢が手を打ち合う中で、多少もたもたする状況では相手を選んでいる場合ではない。
その認知症と言われる方は定年後そんな時期は過ぎていないと思われる普通の男性で、普通にゲームを進行している間は何も支障がない。
しかし、ちょっとした言い合いになると感情が出てしまうのだと聞かされる。
その気になって、気持ち良くゲームを進めていけば何のトラブルも起こらなかった。
お昼休みにそのお方が学生時代のスポーツ活動として野球を行っていて、チームは弱かったので、それなりに打ったがプロにはとても届かなかったのこと。
当方のお知り合いにも学生時代は野球に打ち込み、しかしプロの道まで届かなかったお方が居ることを話し、そんな簡単にプロにはなれないと談笑する。
その他、定年後の日常生活の話をしたが、こんな風に気遣いせずに話し合える環境に乏しい毎日なのではないかと推察した。
帰宅時、そのお方の奥様が見えて、何事もなく気持ちよく過ごされてことを知り、安堵されたようだ。
何時かは自分も同じような環境になるかもしれない。
ご同輩として少しでも助けられたらうれしいと思う。
日向薬師のかわいい絵馬
伊勢原・比々多神社にて
TOPページへ

デパート西武のストライキ実施に思う

令和5年9月6日

あの西武全盛期であったバブル最盛期時代から30年。
遂に池袋西武が身売りすることになった。
最近の売り上げ不振からデパートとしての形態では存続が立ちいかないとのこと。
従業員が雇用維持を求め、日本では珍しいストを行ったとニュースが放映される。
ニュースでは30年前の押すな押すなの飛ぶように売れたデパートの状況を流し、流通業界では飛ぶ鳥を落とす勢いの西武グループが映し出させる。
そうだ!その当時の“どうだどうだ”の本をありがたく買った覚えがある。
今日より明日はもっと良くなるとの信条で、新しいサービスを求め続けた時代でもあった。
そして今、もう買うものなど無くなってしまった。
要は満腹なのである。

地元の方はせめてデパートとしての形態を残してほしいと語るが、誰か見ても商売としての形態は難しいように感じる。
でもイギリスで見たリバティ百貨店は今でも憧れである。
それは夢を叶える販売店であってほしいからだ。
だから後継にヨドバシカメラとはなんとも情けない。
それでは現従業員も怒るはずである。

※そんな想いからリバティーでの商品を日本でも扱っている場所は無いだろかとネットで調べてみると、昔の日本橋東急百貨店が“コレド日本橋”とリニュアルして、その中に販売ブースを持っていたとのこと。
一度訪ねてみたいと思う。
初秋の真鶴海岸にて(いやはや猛烈な暑さでした)
TOPページへ

名画の旅を読んで

令和5年8月28日

1冊3200円という美術全集はともかく写真も美しく、それこそ美術の神髄を説き伏せる迫力がある。
レオナルドダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロと並べてみれば、痛み入りますとしか言いようがない。
しかし、これは読者の層を間違えたのではないだろうか。
見る絵がすごいのだが、それ以上に解説の文が高尚なうえに難解過ぎて、学者の先生の知力を絞り出す手法に嫌味さえ感じる。
言っていることは判るけど、そこまで(わざと)知識満載で良く知っていますと書かれると、誰のための文章なのだろうと疑問が残る。

記載された一例を書けば、ミケランジェロ作システィーナ礼拝堂の壁画“最後の審判”は宗教改革に揺れるバチカンの教皇が、自分たちの権威に溺れすぎた現在を改革するため、そのころの宗教感である最後の審判の理想をミケランジェロに委託したのである。
出来上がった絵画は、書かれた教皇、枢機卿などの宗教関係者や昔からの聖人も すべて身ぐるみはがれて全員裸で描かれ、神の前にて行われる天国と地獄に仕分けられる人間どもは一切地位には関係なく裁かれるという光景を目くるめく表現したものである。
それは当時の教皇の現体制改革を強烈に打ち出したものであり、まさにルター派が示す宗教改革へのバチカン側の強い意思表示だったのである。
これを博士論文のように十数ページにわたり記載している。

それにしても読みにくい。
発行は1992年と30年前のことで、発刊当時は大規模な広告展開があったと記憶しているが、どうだどうだの美術全集は少しずつ分かり易い記述に変更されて行ったように感じている。
奇麗だけどこの辺が潮時と読み終えた後、処分するこことした。
それにしても厚くて立派なのが寂しいとは情けない。
名画の旅(素敵な表紙です)
TOPページへ

家のかたずけ方講座に参加する

令和5年8月18日

溢れかえる家の中をどうにかしたいと思うのだが、当方の分はいかようにもなるのだが、女房殿、娘の洋服類、そして孫娘の雑貨などが思うようにはならない。
セミナーはかたずけ方アドバイザーとの若い主婦の話で、ゴミ区分の徹底や、今様にメリカリなどの利用を話してくれる。
一区切り話した後で、「皆様のお悩みは」と順番に処分の難しさを語った。
何人かの高齢者の話は、趣味のものや、洋服の処分ができないと話す。
私からは戦後世代の者が何もない時代を過ごし、高度成長期を経過しながら物を所有することが生きがいとなった世代には、物の処分は身を切られる感覚で、 私の家族でも、そのようなことを進めると家族関係がギクシャクするのが悩みと話した。
地方で親の相続をめぐり、親の家を纏めて処分する際、業者が一括で家財一式を買い取り、それをフィリピンなどの東南アジアにて高価で販売との話を聞いた。
そんな処分しかできない時代に入ったのだろう。
今の時代は何でも一応揃った家庭環境にあり、今回のような話が成立するかもしれないが、豊かになった時代だからの話かもしれないと人によっての感覚差が提起した。

講師は特にコメントはなかったが、改めて世代差を実感した。
その上で、我が家に光明は訪れることがないであろうと情けなさばかりが心に残った。
夏の箱根にて(朝の静けさが残る)
TOPページへ

2023年の前半を終わって

令和5年7月04日

静かに老いていく年ごろとなったのだが、身体能力の劣化は痛いほど感じるのに精神面での意欲低下ははかどらず、良き孝行爺さんには程遠い。
TVを見ていると、以前より倍増したコマーシャルがこれでもかと流れ、しかも商品名の連呼や、どぎついプロモーション画面が“どうだ、どうだ”と押し寄せる。
すっかりTV画面に嫌気がさし、パソコンでのNHKラジオに心を寄せるようになったのは老境の証なのであろうか。
今年前半の成果は、地元自治会活動での広報誌、まちぢからニュース55号の発行であろう。
それはA3・8ページの地元で活動する、草の根で活動する地域の皆さまを取り上げた特集号なのであった。
通学路で朝晩旗振りをされている方々、近くの公園で地道に草取り作業に励まれている方々など、組織の長の方々でない人を選び、全員で40名近くが掲載する紙面構成とした。
言うことは簡単だが、具体的に人物の表現は誰が書くのか、組織上のお偉いさんは載せるのかどうかなど、考えるほどにめんどくさい話になる。
「このようなことは初めてのことでお許しください」と一度トライすることですべてを振り切った。
出来上がってみれば、多くの皆さまからのお褒めの言葉で、何でもまずは動いてみるものだと自信にも繋がった。
良き半年であった。
まちぢからニュース55号第1面
TOPページへ

バロック絵画とは

令和5年6月23日

ヨーロッパの国々を回り多くの美術品を見ながら、どうにも納得できないのは並んでいる絵画の意味が良く判らないことだろう。
奇麗・美しいでは言い切れない女性や男性の群像がきら星のごとく並ぶ。
描かれているそれらの方々は何らかのポーズや表情をしているのだが、残念ながら当方には全く不可解で申し訳なく思う。
今回一連の美術全集を読むと、近代までの絵画は歴史絵画が一番の評価で、画面の中にどれだけ画家自身の歴史的勉強結果が反映されているかが問われるのだそうである。
だから過去の戦いやその時代の服装の反映がよりリアルに表現されなくてはならないことになる。
つまり、描かれた絵画の学術的視点が大切なのであった。
それでは当方のようなキリスト教やギリシャ神話も知らない素人には判らないはずだと納得さえする。

それとは別にローマなどで見かける教会や宮殿の極端なきらびやかさがどうにも納得できない。
今回その源泉がバロック芸術であることも改めて知った。
バロック芸術とは、“ハリウッド映画”なのである。
ともかく大衆をあっと驚かす大仕掛けをすることで、大衆に度肝を抜かすことなのであった。
その源泉はキリスト教におけるイエズス会などによる、全世界への布教活動の成功体験が反映されている。
その結果、キリスト教世界の中心であるヨーロッパの自信を知らしめる芸術活動は「どうだ、どうだ」の“これ見よがし”の表現となったのであった。
控え目が良しとする東洋の当方には、大げさすぎる絵画には「ちょっといただけませんね」となったのは致し方ありませんね。。。
ご近所のあじさい
TOPページへ

ラジオの講座を楽しむ

令和5年6月16日

ラジオの聞き逃し講座を聞き始めたのは、パソコンでラジオが聞けることが判ったのが動機でした。
それはこの湘南地域では電波状況の関係で、ラジオが受信しやすい環境ではなく、また室内内部で聞くことができないからなのです。
NHKの聞き逃し配信を日ごろから楽しんでいる中で、今放送中の「カルチャーラジオ 歴史再発見:生誕1250年空海と日本の仏教」を聞く機会を得た。
そんな信心深いわけではないが、芸術新潮2019年5月号で京都の東寺が特集され、その中に密教が紙面を割いていたが、どうもさっぱり判らず、読み飛ばしてきた。
今回の放送13回(毎回30分ずつ)を聞きながら、改めて空海のすごさや密教への理解が、ことのほか進んだことを実感した。
また、講師の奈良国立博物館名誉館員…西山厚さんの話が極めて平易で聞きやすく、仏教全般の豊富な知識を駆使しながら、空海の立ち位置を説明してくれる。
仏教とは人は苦しむために生きている。そこでその苦しみを救うために修行をし、苦しみから解放するのが目的と語る。
それに対し密教は、ひとは誰でも願いを持って居る、その願いを叶えるための修行を行い、それを成就するのが目的と説く。
また、極めて判りにくい“曼荼羅”は修行道場での飾り物であり、目で見るお経として寺院での必須な道具であるとも解説している。
改めて13回の放送を聞きながら、空海の人なりと同時代の最澄の姿の違いを知ることができた。(両人ともスーパースターなのでした)

何回か同じ講義を聞き返し、併せて芸術新潮の関連個所を見ながら、驚くほど空海や密教が身近になったと実感できた。
これで、近くのお寺「廣徳寺」の住職さんともより詳しく話せるだろう。
梅雨空の続く中、充実した日々を送れることに感謝したい。
自宅のあじさい
TOPページへ

杏(あんず)の実が取れました

令和5年6月09日

すっかり大木になった杏にオレンジ色の実が目立つようになったのはこの半月足らず。
杏に実がなって収穫できるとは思ってもいなかったのだ。
長年、数個程度のうらなりが出来ていたのに、今年は見事なオレンジ色の販売可能な大きな実となり、びっくりながら嬉しさもいっぱいです。
毎日庭を眺めて、地面に落ちたのを拾い集めているのには理由がある。
落ちた実はすぐ蟻が集まり果汁を狙うのだから、1日何回も庭を見渡せねばなりません。
集めた総数は20個程度で、期間は計10日間といったところでしょうか。
味はと言えば、まさに立派な果実で、皮をむいて食べました。
でも我が家の木々に実がなるのは何とも心躍ることなのですね。

困ったことはこの杏の木が極めて元気で、今や我が家の2階建てを大きく超えて、「あれまー」とばかりの大木になったことで、素人には剪定不能の高さとなり知り合いの植木屋さんに手入れをお願いしようと思っています。
見事な杏の実(高さ5センチ)
TOPページへ

遂に本丸に切り込む

令和5年5月31日

少しずつ本を整理してきたが、どうしても踏ん切りがつかない全集があった。
それは30年以上前に買った豪華美術全集である。
“名画への旅”として総カラー画面の全巻20冊以上。
見栄えも良く名画が並ぶのだから完全保存版なのだが、内容があまりにも立派すぎてとてもパラパラと読む雰囲気ではなく、専門家が調査・研究に読む専門書ともとれる。
1冊3200円と高価だし、外観も分厚くほんとに立派。
だから、少なくとも4半世紀は手に取ったことがない。
気を入れて1冊を読む
〇大芸術家たちの集い:ポール・ドラローシュ
〇モルトフォンテーヌの想い出:カミーユ・コロー
〇種播く人:ジャン・フランソワ・ミレー
〇画家のアトリエ::ギュスターヴ・クールベ
〇サンスーシ宮殿のフルート・コンサート:アードルフ・メンツェル
〇ミズリー河を下る毛皮商人:ジョージ・ケイレブ・ビンガム

読み終えた感想は、近代にいたるまで絵画は、単に美しいが基準ではなく、画家がどれくらい画面に関する歴史的事実や教養を持っているかを表すのが、アカデミーでの審査基準だったと知った。
だから、単純に美しいだけでは評価されなかったのである。
この本で取り上げられた名画は、我々が今思う視点ではなく、このような学術的な視点から取り上げられていて、私の愛読書である“芸術新潮”とは一線を画している。
1冊の紙面には有名な絵画が散見されるのだが、どうもそのバランスがお気に召さない。
やっとやっと少しづつ処分する決断ができた。
それにしても大変な量で、心が重い。
豪華本”名画への旅”
TOPページへ

我が家に猫ちゃん参上

令和5年5月13日

我が娘たちが密かにネコちゃんの購入を計画していたようだ。
昨年末ごろ、我々夫婦には相談することなしに、突如子猫ちゃんが家に来た。
まだ生まれて1か月しかたっていない、それはそれはかわいい子猫であった。
我が家に猫がいたのは、もう10年以上前のことである。
孫娘がずっと猫が欲しいと叫んでいたが、世話をするのはこっちだからと取り合ってこなかった。
ともかく、何でも血統書付きのお嬢様で、しかも英国産の超美形であっという間に人気者になってしまった。
不思議な癖はウンチをする際は片手を持ち上げること、そして前足2本を器用に上げて立ち姿が難なくできること。

そもそも我が家は全員猫好きだから、ともかく大事に育てられている。
孫娘ももう少額6年生で、すっかり大人びてきたので、このネコちゃんが新しく来た赤んぼのようなもんだろうか。
孫娘にとっては、自分のおもちゃのように撫でまわす。
嬉しそうな孫娘の日々は我が家の平和のシンボルなのであろう。
来たての頃の「サバちゃん」
すっかり慣れて安心して眠る
TOPページへ

ゴールデンウィークの合間を縫って

令和5年5月4日

いよいよ本格的な混雑が始まると聞かされている5月3日からの5連休をかすめる5月2日に、秦野の水無川沿いにある“秦野カルチャーパーク”に出掛けてみた。
ここを訪れる目的はバラの見事な公園があることで、県外では知られていないせいもあるが、手入れに行き届いたバラの花が見事に咲き誇っていた。
今年はどの地域でも桜もつつじも花々は温暖な気候が続いたせいで、どれも見事な花々を咲かせている。
だからこのチャンスを見逃すわけにはいかない。
秦野のこの公園も丹沢の山々を背景に緑滴る緑が公園全体を包み込む中でも、さまざまな色でグループを作るバラの大群落は、華やかさは際立つ。
この日はちょっと日影が欲しい暑さではあったが湿度が低く、東屋で休んでいると寒ささえ感じる好天気。
しかし、花の写真は難しいもの。
あの匂い立つ花々の精気を写し取る実力には至りません。

道も混んでいるのだろうと覚悟はしていたが、どこも平日の穏やかな日々となっていました。
これも今日までで、明日からはどこも大混雑なのであります。
充実感あふれる日帰りの旅は幸せな気分と、咲き誇るバラの花が心に残った楽しい時間となったのです。
秦野のバラ園
バラ一輪
バラ一輪(2)
TOPページへ

久しぶりのホームページ再開

令和5年4月26日

ちょっと不精をして、半年以上の空白期間となってしまいました。
元気に再開します。
昨日(4月25日)、最近ちょっとハマっている湯河原温泉の日帰り入浴に行ってきました。
永く、日帰りの温泉は箱根の「天山」温泉と決めていたのですが、たまには別の温泉も試してみたいと湯河原に行ってみたのです。
行先は湯河原のいつもの昼食場所である、“ウエスト駅前店”で、女主人に「良いところはどこでしょう」とお聞きすると、教えてくれたところが“ニューウェルシティ湯河原”で清潔で大きな露天風呂がある素敵な場所だったのです。
何よりもお湯の柔らかさが素晴らしく、箱根や熱海とは別格の温泉であることを実感いたしました。
肌にまとわりつく滑らかさで、しかもお湯自身はあくまで澄んでいるのですから、何とも不思議な感覚です。
同行したご同輩たちも、すっかり感嘆した様子で、箱根から湯河原に趣旨替えした模様でした。
折しも一週間前のラジオを聴いていたら、温泉の専門家が九州の武雄温泉と東日本では湯河原を挙げていたのを聞き、我々の感覚は間違っていないのだと再認識しました。

間もなくゴールデンウィークに突入となる直前で西湘バイパスはガラガラ、小田原の近辺も信じられないフリーパスとなっていました。
これも嵐の前の静けさ、車の混雑と人流の多さに観光地は大混乱になるでしょう。
万年自由な身で、好きな日の動ける特権を駆使して、温泉三昧です。
湯河原の日帰り温泉
TOPページへ

安倍元首相の国葬終わる

令和4年9月30日

9月25日に行われた安倍首相の国葬は、誰しもこの人の国葬はもっと早くやっていれば、もう少し評価が高かったと思うだろう。
それは偶然とはいえイギリス・エリザベス女王の葬儀が終わった直後となってしまったことが最大原因といえようか。。
運が悪いと言えば、そもそも銃撃事件が統一教会というアヤフヤな宗教団体への逆恨みの余波で、安倍さんが恨まれてしまったからなのである。。
日本人なら誰しも事件に同情し、盛大な葬儀を行って差し上げたいとは思うのだが、岸田さんの心情で国葬をまず決めてしまったのが、ヤブヘビを出すこととなった。。
僕が岸田さんだったら同じことをしていたと思う。。

祭壇に飾られた安倍さんは実にいい顔をなさっていた。。
世間の雑音はこの笑顔で忘れ去られるだろう。。
また、政治家としての安倍さんは敵を作ってまで、信念を通す姿が潔く映る。。
ある意味では日本人らしくない、強いマネジメントが評価を二分すると言われるが、世界の首脳者たちは、判断を先送りするスタンスは取らなかった。。
これが、世界から評価される一因ではないかと思う。。

葬儀が終わり、議員会館の事務所から出ると報道された。。
となれば、もう過去の人になってしまった。。
これこそ、諸行無常といえるのだろう。。
我が家の彼岸花が静かに幕を引きながら終わっていく。。
そしてこの9月が終わってしまった。。
安倍元首相の祭壇
自宅のヒガンバナ

エリザベス女王の国葬を見て

令和4年9月24日

王朝絵巻の英国版をこの時期に見ようとは夢にも思わなかった。
永く君臨していたエリザベス女王の体調がすぐれないと報道されてから数日で崩御の知らせとなる。
それも新首相となったトラス女性首相の承認行事に参加した3日後ことだった。
中世の大英帝国の威厳を彷彿させる葬儀はかなり以前から準備はされていたと思うが、亡くなったスコットランド・エジンバラの大聖堂での地元住民礼拝の様子や、その後にロンドンで市民の24時間近くも並んで棺にひざまずく姿を見るといかにこの女王がイギリスの象徴であったかを思い知らされる。
バッキンガム宮殿にいる彩り豊かな衛兵姿がその何百倍も沿道に登場し、中世のいでたちが夢のように再現されたのである。
これこそ、絢爛であった大英帝国の姿そのものであった。
ウエストミンスター寺院での葬儀は歴代王室の葬儀にのっとり、荘厳に執り行われたが、あの英国国家の流れる場面こそ、英国民が一体になった瞬間でもあろう。
そしてこのような全世界の王族、首脳が一度に集まる機会はこのエリザベス女王の葬儀にて終わったのかもしれない。
一つの時代が終わったと感じた以上に、20世紀が本当の意味で、終息したのだろう。
葬儀は全世界で同時配信される時代とはなったが、英国の偉業を思い知らされる1日となった。
それは2022年9月19日のことであった。
エリザベス女王のお姿
沿道の様子
ウエストミンスター寺院の内部

突然のお誘い“加山雄三ラストライブ”

令和4年8月2日

突然の電話は8月1日の朝に我が老人グループに仲間から、突然加山雄三の茅ヶ崎公演が明日(8月2日)の夕方からあるのだが、切符を購入する気はないかと連絡が入る。
なんとなく加山雄三が今年で芸能活動を中止し、残り2回の公演を最後に表舞台から姿を消すとは聞いていた。
そしてその公演を見る環境には無理だろうとハナから思っていただけに、突然の話にどう対処して良いのかもわからない。
聞けば茅ヶ崎出身の加山雄三を茅ヶ崎商工会議所がコーディネートして最後のライブを企画したと話し、その茅ヶ崎商工会議所の持ち分が若干余ったので、親しい人に声をかけたのだと話す。
そこまで判ればすぐ女房と二人で茅ヶ崎文化会館に駆け付ける。
地元の茅ヶ崎市民を対象に行った公演のため、会場近くは大騒ぎすることもなく、ファンが殺到する光景にはならなかったが、当然会場は満員の盛況。
18:30開始から徳光和夫さんが司会とはいかにも茅ヶ崎ならでは。
前座は加山さんを囲む湘南での思い出話で、そこでの演奏はワイルドワンズが “思い出の渚”をあのサウンドで演奏する。
これだ、これだと思わずうれしくなってしまう。
その他、ブレッド&バターや南佳孝さんが出たのだが、すっかり我々と同世代で 昔日の声は感じられず、「そんな人もいたよね」との感想。

そして加山雄三さんが出てくると、まずはその歌う声が全く衰えていないことに驚く。
多少体の不自由さを感じることもあり、またトークに呂律が十分に回らないと感じることもあるのだが、80を超えた加山さんの元気さには驚かざるを得ない。
そしてやっぱり、“海とその愛”の雄大さ、“君といつまでも”の照れない自然さ。
最後に歌った“旅人よ”はジンとしてしまった。
80歳を超えていたのだからステージの時間は40分程度であったが、繰り返し茅ヶ崎での少年時代は楽しかったと嬉しそうに話す。
今回の茅ヶ崎でのライブが、加山さんにとってもよほど嬉しかったのであろう。 いいものを見たと妻と話し合う。
一人1万円は十分得をした楽しい時間を過ごした。
加山雄三コンサート・パンフレット

コロナ第7波到来に思う

令和4年7月31日

7月下旬でコロナ感染が再到来し、世界で現時点の感染者数が第1位になったと報じられた。
それにしても、世界の中で日本人がマスクをすることさえちょっと異常反応ではないかと言われ、国民の防御態勢が万全と思えるこの日本が世界一の感染とはどういうことなのだろう。
そしてアメリカのバイデン大統領は4回のワクチン接種を行いながら、それでも感染したと報じられた。
「今までのワクチン接種のせいで軽度な発症だった」と声明する姿を見ると、どこかはぐらかされているように思う。

ここにきてこのコロナ感染は自然感染によって、住民の抗体獲得が一番の対策のように思えてきた。
TVではコメンテーターの方からは、最近のコロナ菌では接種株の変種になって効果をすり抜けると説明するが、言い換えれば効かないと言っているのだ。
昔から3年近くの報道はいったい何だったのだろうか。
微妙に言い方を変えて、コロナ菌などそんな怖いものではありませんと親切げに話すのだが、誰かに言わされているとしか思えない変容にどこか後ろめたい心情を隠し切れない。

初めてのコロナ感染なのだから誰も判らない対応なのだが、泥沼の大騒ぎであったことを素直に認めようではないか。
そして素直に謝る姿勢が待たれるように感じた。
7月20日の松林小入口で校長が朝の出迎え(いいな。。)

安倍首相狙撃余波は根深い

令和4年7月22日

衝撃的な事件は日本国中を駆け巡る。
それは政治闘争から発するイデオロギーの衝突とは全く別な、ある意味で日本の暗黒部分を炙り出すことになった。
安倍首相などもある意味では深く関与する右翼的思考の宗教団体との付き合いがとんでもないことになったのである。
事件の容疑者は、一家が統一教会という怪しげな宗教法人に全財産を寄付という名で巻き上げられ、家族・親族が悲惨な目にあっている現実に、ある意味象徴として使われてきた安倍首相を恨みの根源に見出し、狙撃という手段を使って報復したのであった。

この統一教会だけではないが、選挙の一手段として宗教法人を利用するのは特に珍しいことではない。
統一教会という団体が霊感商法を繰り返し行ってきて、また多額の寄付を強要するのが、ちょっと異常だったとしても、大同小異どこの宗教団体でも行ってきた普通の宗教活動なのであろう。
創価学会も程度の差はあるにしろ、後ろめたさをかなり深刻に感じているはずだ。
となれば、ダンマリを決め込まざるを得ないのは致し方ない。
出来れば統一教会というところで、トカゲのしっぽ切りをして幕を閉じたいという政治家とマスコミの願いは十分理解できる。
“藪をつついて蛇を出す”を何とか止めたいという政治家の意向はどのように収斂していくのであろうか。
ふと、大昔の事件となったケネディー大統領の狙撃事件を思い出す。
これこそ闇の世界を垣間見た、知ってはならない世界だったのである。
真夏のタチアオイ

安倍元首相狙撃される

令和4年7月11日

その日は箱根で日帰り湯に浸かって贅沢な気分を満たそうと箱根湯本の天山にて浴場に入ろうとしていた11:30その時間に、まったく別な場所奈良にて選挙応援に駆け付けた安倍元首相が突然狙撃され、その場で即死したとTVなどで知らされる。(正式死亡発表は17:00)
当方は、何も知ることもなく贅沢な気分で緑囲まれる木々の中で、ぼんやり時間が経つのをいとしんでいたのだが、そろそろ帰宅しようと喫茶で飲み物を楽しんでいると、そこにいた従業員に安倍さんが撃たれたと教えてくれた。
それでも傷を負ったぐらいと思っていたが、帰宅してみるとTVなど大騒ぎと女房殿が知らせてくれた。
選挙応援に駆け付けた安倍さんは、当然緩やかな警備状態の中で背後から近寄った男性に自作拳銃にて2発の狙撃を受けて、その2発目が心臓を貫通し、ほぼ即死状態だったと語っていた。
そうなればてっきり政治テロと思っていたが、どうもそうではなく身内のトラブル(宗教団体との関与)が安倍さんに向いてしまったようだ。

この夕方からこの事件がTV画面を占拠し、事件現場や政府関係者の声が涙ながらに語られる。
奥様は現場に駆け付け、「晋ちゃん、晋ちゃん」と叫び続けたと語られたが、どのような経緯があろうと不憫でならない。
その二日後に行われた参議院選挙では自民大勝と予想通りの結果だったが、戦後を代表する安倍元首相の突然の死は、人間どこでどうなるのかは判らないものだとの無常感が胸に残る。
功罪半ばする権力者のあっけない突然の死は、まさに戦後の大事件であった。
自宅のインパチェンス

下部の湯に浸かる

令和4年5月20日〜23日

老齢になると腰が痛い!、足が動かない!、眠りが浅い!など体のあちこちにガタが来る。
TVを見れば様々なサプりメントが嫌というほど流れ、何かをしなければと思うのは当然。
お年寄りたちは足腰の病にはエラく効きますと評判の甲州・下部の湯に行くことと相成った。
この茅ヶ崎の地からは東海道線にて熱海乗り換えで富士まで行き、そこから身延線に乗り換え、富士川に沿って昔懐かしい光景が続く中、下部の湯にたどり着いたのです。
まさに湯治場のていをなす「源泉館」は武田信玄さんも入浴して、傷を治されたと伝えられる名湯なのであります。
薬効著しいそのお風呂はちょっと寒いぐらいの冷泉で30分程度身を浸かり、その後暖かい湯に浸かって体を温めるというサイクルを繰り返すのが作法と書かれてありました。
最近更に細身となった当方には脂肪豊かな女性とは違い、「オオ寒い」と冷泉は長く入れず、早々に暖かい湯に浸かって満足したのであります。
昔ながらの混浴の湯舟では男は腰巻き、女はアッパッパアーをつけての入浴で爺さんばあさんが和やかにワイワイ話し込んでいました。
まさに老人の集まりです。
折り悪く満室に近い状況では、4畳半の個室でトイレなしとなんともみじめな環境ではあったが、住めば都とそれなりに満足です。
でもかなりくたびれ切ったこの館で、トイレのアンモニア臭がきつい環境には侘しさが気になりました。
3泊4日で何もない温泉地で湯に浸かって満足は、極楽といってよいのでしょうね。
富士宮神社本宮
下部温泉中心部

ツツジを見に“山のホテル”に行く

令和4年5月11日

一度は行ってみたい箱根の名所・“山のホテル”につつじを見に行く。
連休も終わり、箱根の山中はひとが少なく、コロナ禍の状況を彷彿させる。
元箱根の動きからこれなら“山のホテル”は大丈夫と踏んだのだが、何と3か所ある駐車場は全部満杯と知らされる。
道沿いにつつじの咲き誇る姿が垣間見えるのだが、そうなると歩いて行ける場所には駐車場が見当たらず、見学をあきらめることにした。
それにしても残念でならない。

近くの箱根園でお馬ちゃんに乗っている親子連れを楽し気に見て、仙石原を通って帰ろうと車を進めると道路わきからつつじが咲き誇る庭園が見える。
そこがホテル花月園の大庭園でありました。
入場は有料ではなく、誰でも見ることができるとてもエライ大盤振る舞いなのであります。
同じようにドライブ途中で立ち寄った方々が、「これは見事だと」感激していました。
すり鉢状の底の部分に野外パーティーが何席かできそうな大きな平地があり、そこから周りを取り囲むようにつつじの群落が色鮮やかに取り囲んでいました。
それは“山のホテル”に劣らない大群落なのでありました。
せっかく良いものを見せてもらったのだから、せめてお昼でも食べたいとホテルの館内に入ったのですが、残念ながら開いていないとのこと。
ちょっと古びた感があるこのホテルは、過去の栄光に包まれた名旅館でもあったようですが、ネットで検索すると1万円程度で泊まれるお得なホテルと認識しました。
今度、(お礼に)一度泊ってみたいと思ったのがホテルの取っては良いことなのかもしれません。
箱根・花月園のツツジ群落(1)
箱根・花月園のツツジ群落(2)

そしてコロナは終わったか

令和4年5月3日

4月29日から始まったゴールデンウィークは前半が雨模様でうすら寒い日が続いたが、5月3日から始まった後半はコロナ前に戻ったような大賑わいが突然やってきた。
どこの行楽地も人ひと人で、3年近くのうっぷんが一度に爆発した感さえある。
こうなるとコロカ禍で外出を抑えろと散々騒いでいたTVの番組が、パタッツと態度を変えて、「これも良かった」と言うのだから戸惑うばかり。

我が爺ちゃん方もその3日にしっかり出かけました。
でも混雑は避けようとメイン通りを通らず、東海大学の学区内を通って順調に秦野の弘法山公園についてしまう。
「そして混雑するから無理ね」と話したジンギスカン料理で有名な“木里館”へ一番乗りで入場してしまった。
この日は絶好の行楽日和で道々にはハイキング姿の老若男女が行きかう、さすが有名観光地なのである。
人でごった返すとはいえないが、こんな混雑具合は本当に久しぶりだ。

どこに行っても大混雑だから、裏をかいて平塚の温浴施設に向かったのだが、この日は湘南ベルマーレの試合日とDeNA2軍の野球も重なり、運悪くこれらの近くにあった温浴施設の無料駐車場は満杯状態で、ここへも入ることさえできない。
それにしても平塚の運動場近くは、親子連れがひっきりなしに通り過ぎる。
こんな姿は久々の賑わいだ。
こうなったら茅ヶ崎の柳島運動公園でお茶を飲んで帰ろうと相成った。
それなりの大賑わいを実感し、休日の一日を楽しんだ。
平塚・妙圓寺のシャクナゲ

ゴールデンウイークの前に

令和4年4月23日

今年はコロナ禍で外出禁止の状況化とはかろうじてならず、「気を付けてお出かけください」とのなんとも中途半端なお上からのお達しとなった。
うまく休みをとれば10連休となるのだから、それでは連休前に早めに出かけようとおじさんたちが姦しい。
行先は秦野の水無川の沿った“カルチャーパーク”で言うなれば運動公園です。
お天気とお休みの日だから地元の親子連れなどで大賑わいとなり、数々のキッチンカーが立ち並んでいる。
そうか、すっかり自粛騒ぎはトーンが下がってきたようである。
お目当てのバラの花々はちょっと時期が早く、つぼみなどもできていない。
それにしても丹沢の山々は目と鼻の先にあり、我が海の傍からはうらやましく映った。
それではと山すその秦野戸川公園に行ってみると(予想通り)駐車場は満杯状況で、かすっただけで退散と相成った。
お休みの日はどこに行っても大混雑とはしばらく経験がなく、やっと平和な日々が戻ったようだ。

桜も咲き終わりつつじが満開のこの時期は、どこに行っても花々が美しい。
今、昨日より女房殿は一人で紀伊に旅に行っている。
長年憧れていた、奈良から熊野までの十津川沿いに走る長距離バスに乗ってみたいと、心を決めてツアーに参加したのだが、開催必要人員最低10名のギリギリでセーフと滑り込んだ。
「行ける時に行ってこい」と送り出したが、嬉しそうに出かけたのが良かったと思っている。
さて、どうなるかな!
カルチャーパークでの出店風景

情けなや、支払いのトラブル

令和4年3月29日

年度末の会計処理としてホームページのサーバー管理代金がS社から来年度の継続使用代金請求書として郵送で送られてきた。
通常の振込用紙だったので、わがまちぢから協議会の会計さんにその用紙を見せに行った。
その際自身の手帳に挟んだ形でその原紙を見せた足で、そこから直接コンビニに行って代金を払おうと思っていたが、どういうわけか忘れて自宅に帰ってしまった。
次の日、わが手帳を見るとその振込用紙が見当たらない。
はて、どこに落としたのだろうと自宅を探し回すが、いくら探してもどこにも見当たらない。
3月末日までの支払い期限なので、慌てて請求書を再発行してもらおうとネットでS社に問合せたが、本人確認のためIDとパスワードを入れないと次に進めないと書かれている。
滅多に請求書など届かず、そんなことを言われてもとんと見当がつかない。
いっそうのこと、来年はS社との契約をあきらめようと観念して、1週間ほど経ったころ、女房が郵便箱に請求書が投げ込まれていると知らせてくれた。
どうも誰かがわが自宅に請求書を届けてくれたらしい。

これぞ神の助けと、近くのコンビニに振り込みに向かう。
コンビニで支払いを終えて、振り込み済の伝票を大事に持ち帰ったはずであるが、今度はその伝票を帰宅途中で落としてしまったらしい。
わが右手はちょっとぎこちなさが残り、ポケットの出し入れで、入っているものを同時に出してしまうことがしばしばあって、過去にも何度かいらいらしたことがあったのである。
情けないことである。
自分のミスで2度も大事な用紙を失くしてしまい、それによってまちぢから協議会の会計処理に迷惑をかけてしまった。
支払金額は1901円と少額だったので、自己弁済としたがそれ以上に心の痛手が収まらない。
ハナニラ満開の自宅の庭

百花繚乱の自宅となった

令和4年3月22日

急に暖かくなったり、今度は雪が降りそうな日になったりで、春の天気は気まぐれだ。
自宅のあんずの花は3月17日(木)に20度近くの暖かさに誘われ、一斉の開花となった。
自宅前を通りかかる近所の方々が、みな見上げるようにあんずの花を見上げていく。
薄ピンクの梅と桜の間のような大輪の花は大きな樹形だけにことさら目立つようになる。
庭にはハナニラが同時に真っ白な花が咲き、玄海つつじも花だけが濃いピンクの花で咲き誇る。
おまけに以前より花屋のプリムラやストックを買い込んできているので、まさに庭は百花繚乱となっている。

この22日(火)にはあんずの花々も散り始め、その原因がなんとも小鳥の花の啄ばみのせいなのであった。
女房殿はそれを嘆いているが、自然の営みなので致し方ない。
トピックスとして、昨年購入したハイビスカスを自宅でしっかり管理していたら、近日黄色の鮮やかな花が2輪開花となった。
見ると次々につぼみが出てきて、10輪以上の開花が期待できると女房殿は嬉しそうに語る。
春は本当に楽しい時期である。まして花で彩られるこの時期こそ1年で一番華やぐ美しさを感じるのであろう。
あんず満開
ストック満開

やっとやっとの河津桜

令和4年3月6日

本当に長かった冬の寒さがここに来てやっと出口が見えてきた。
あちこちで桜の開花の報告が聞かれる中、ローカルには良く知られている足柄・大井町の「おおいゆめの里」に向かう。
休日で桜開花となれば、日ごろは人っ子一人いないこの場所でも、臨時の駐車場ができ、車と人の群れとなるのは致し方ないが、今までこの地では体験したことの無いような大賑わいとなっていた。
今年の河津桜は、つい先日まで最低気温が零度近くをうろうろしていただけに、ゆっくりじわじわというより突然の開花となったので、まだまだ開花仕立てのうぶな花々が清々しい。
これぞ花見の真っただ中に放り込まれたようで、ひとひとの波にびっくりするばかり。
この地は有名な松田の河津桜のすぐ傍なのだが、足柄平野を隔てて富士の雄姿が望める桜の名所として、地元の方々がこの機とばかり押しかけていた。
ほんの15分程度の滞在時間であったが、帰路には更に車列が大きく増加し、これでは駐車場入場には1時間待ちとなるとも思われ、こんな辺鄙な場所の賑わいに驚かされた。

河津桜は春の先駆けになるが、今年は梅の満開になっている中に桜が同時に咲いている風景は、まるで北国の春であろうか。
ところで気になっていた、この地の宿泊施設「いこいの村・足柄」は残念ながら閉鎖され、見る限り再開されるようには思えなかった。
ひそかに好ましい宿泊地として期待していたが、コロナ禍がまともに影響したのであろう。
おおいゆめの里にて

寒さ厳しい今年の梅園で

令和4年2月7日

もう立春を過ぎたのにいっこうに春の気配がなく、2月になったとの実感がわかない。
いつもならにぎわっているはずの熱海の梅園はどうなっているだろうとご同輩で訪れることとした。
熱海の梅園はコロナ下で心なしか元気がなかったが、梅の開花具合は5分咲きと係り員から案内される。
梅園の入口近くにあるこの時期に咲き終わっているはずの熱海桜は、満開を過ぎて全体にピンクが薄汚れたようにも感じる。
この花に開花期は普通正月過ぎからだから、この桜も遅咲きとなったのであろう。
とすれば今が梅の開花には最適な時期なのであろうが、どこか薄汚れた感がみられ、みずみずしさが足りないようにも感じるのだ。
やっぱりこの熱海でも寒さは花にとっても厳しい日の連続であった。
いつもながらのウグイス笛の販売と賑やかな猿回しの演芸は梅まつり会場を盛り立てる。
どこか寒々しい観梅は、風情があるといえばそれまでだが、にぎにぎしいお祭り会場には程遠く、静かな静かな梅の鑑賞と相成った。

帰路伊豆山温泉の土砂崩れの現場を通り過ぎたが、半年前に起こった惨事を今でも思い出す献花が道際に供えられ、痛ましい記憶が思い出される。
ある意味の理想郷であったはずの桃源郷は、自然の猛威の前にはどうにもならなかったのだった。
我々の記憶にはこの惨事が熱海を訪れるブレーキとなっているのは確実で、箱根までは頻繁に行くのだが、半年ぶりの熱海訪問であった。
でも心の中にはどこか重たい気持ちを持ち続けている自分を感じるのだった。
熱海梅園にて

なんとも優雅な油壷温泉

令和4年1月18日

厳寒の湘南の地は混雑で動きが取れない江の島近くの海岸道路もスイスイとドライブできるのがうれしい。
久しぶりの三浦方面へは逗子葉山を海岸に沿って進み、近年高級リゾートにふさわしい高級感あふれるマンションやホテル群がヨーロッパのリゾート地を思わせる。
白く輝くカクカクとした建物はもう日本家屋がすっかり古びた形式になったようで、昔のような海風に強い板壁と瓦葺きの平屋は文化財になってきているようにも感じた。
三浦の風景の特徴はこんな超高級リゾートを超えると、一面大根畑が道なりに並ぶことだろう。折しも大根の収穫にいそしむ方々もお見受けした。
三崎に近い油壷の京急ホテルで昼食をとると、天然温泉を併設していると知らされ、それならばと急遽温泉に行こうと爺ちゃんたちは喜ぶ。
ホテルは海岸からは崖の上に立っており、よって温泉はホテルの階下に海に張り出すように露天風呂が作られている。
厳冬下の温泉は温めの暖かさで、湯に沈めていれば極楽気分ではあるが、湯から飛び出している上半身はさすが風が身に染みる。
しかし目の前の小網代湾は波も穏やかで、その後ろの大楠山などが穏やかに見渡せる光景は、これぞ極楽・極楽の幸せである。
こんな時期だから相客はご同輩が数人程度で、貸切り状態が心地よい。
真昼間の温泉三昧はこの三浦の地でも大満足であった。

帰路、相模湾沿いを逗子から鎌倉に向かうと夕暮れ沿いの薄暮に富士の姿と伊豆の山々がシルエットのように浮かび上がる。
いつも見ているはずの湘南の風景が、夕焼けの空で赤く染め上げた光景を見ると、海岸線には多くの子供たちが嬉しそうに歩き回り、皆一瞬の夢の中にいるようにさえ感じられた。
やっぱり湘南は良いな!
三浦の油壷「観潮荘」にて

不気味な静けさ・2022年お正月

令和4年1月3日

いつものお正月ではあるが、またまたコロナの再感染がひしひしと迫ってきている。
今回のコロナの感染力は従来のデルタ株からオミクロン株に置き換わるに伴い、その感染力が数倍以上大きくなり沖縄地区でもあっという間に日に日に倍増していると報じられる。
東京地区でもいずれこの沖縄を追うように、爆発的な患者数になるのではとTVでも大騒ぎ。
となれば今のうちに出掛けておかなければと、この正月は静かに出かける姿が目立つ。

この3日に友人が集まり車で秦野の丹沢山腹をめぐる。
まずは蓑毛の法蓮寺大日堂に立ち寄ると、正月らしさも無い静かな佇まいのままで、登り旗さえ立ってもいない。
お正月らしい飾りも行わず人っ子一人いない境内は、むしろ騒ぎを起こさないという意志さえ感じる寂しささえ感じた。
秦野市内の有名神社である出雲大社相模分祠は、そこから見ると驚くほどの人々が参拝に集まっていた。
駐車場には係りの人が交通整理に忙しく、また境内には屋台が多数並んでいる。
ああ、やっぱりお正月の風景だとその賑わいにちょっとうれしくなる。
お社での参拝は10人ぐらいが横並びでお参りくださいと列を連ねて順序を待つ。
明治神宮には遠く及ばないが、破魔矢が並び、縁起物の販売に特設テントが大きなスペースを占める神社境内の賑やかさは、これぞお正月というものだろう。

自宅に戻ると、やはりコロナ感染の増加が報道され続けている。
嵐の前の静けさであろうか。
つかの間の平穏となった。
法蓮寺大日堂
出雲大社相模分祠にて
出雲大社相模分祠にて

ついにパソコンがお陀仏になった

令和3年12月27日

何事もアクションが遅くなり、こちらの我慢も限界に達するパソコンが、ついにご愁傷さまになった。
修理を持ち込んだ辻堂駅そばの「PCデポ・辻堂店」に神仏にお願いする気分で「助けてください」と飛び込んだ。
お相手いただいた専門のお兄さんは20代のいかにも専門家で、フムフムと事情を聴いたあと、修理ですか、それとも代替機新規購入ですかと冷静に話しをする。
それは現パソコンの保存データが無事ですと確かめた後でのことだった。
ここまでデータの保存が万全なら、躊躇せず今のパソコンを廃棄して新規購入と答えたのである。
ただし、パソコンの購入後のネット接続やホームページのデータ転送についての設定作業は皆目見当がつかず、ただただ係りのお兄さんに頼りっぱなしの状態。
また、昔に友人に頼み込んで設定した数々のパスワードもすっかり忘却状態。
でも、スイスイ購入したVAIOパソコを(悩むこともなく)設定してくれ、数日後に出来上がった状態となるので取りに来てくれと話す。
パソコンの世界では昔からのことわざである“10年ひと昔”を“1年おお昔”と言い換え、時代の変化の速さを表現している。
新規購入のVAIOはハードディスクも内蔵されておらず、びっくりするほど軽量となり、以前の機種に比べひと回り小さくなったが、何より動作速度が飛躍的に向上した。
係りのお兄さんからは、「よくこんな遅いパソコンで我慢ができましたね」とあきれたように同情してくれた。
そして昔の作業と同じ方法で保存データが引き出せた。(感激です)
特にホームページ作成に必須なFTBのデータ移行作業は、もしだめだったらとどうしようと肝を冷やした。
どんな費用が掛かっても治ってほしいと願った今回のパソコン交換作業は、とりあえず大騒ぎをすること無しに、専門家の手で無事再生することができた。
感謝・感謝である。

年末はシクラメンですね

ばあちゃんの3回忌を行う

令和3年11月19日

早いもので、女房のお母さんである「すえ子」ばあちゃんが亡くなって3回忌の法要を戸塚のお寺さんで行った。
参加者は私と女房と娘の3人だけで、折しも風邪気味の孫娘を自宅に置いての ささやかな法要でもあった。
東本願寺派の作法は1時間近くのお経を住職さんと唱和するもので、まるでどこかに引き込まれるようなお経の声は、異次元に漂う我々の魂の叫びとも取れた。
白い布で覆われたおばあちゃんのお骨は、奥に飾られている阿弥陀様のもとにきっと光に導かれて天国に向かって行ったのであろう。
信心深くもない私も読経に囲まれた世界に置かれると、良かったねとおばあちゃんに語り掛けてみたいと思うのは不思議なものだ。
3回忌というのは故人を少しずつ忘却の世界に向かわせる区切りの時期ということだろう。

90歳を超えても健康でボケも少なかったおばあちゃんの姿はそれなりに幸せだったように感じる。
茅ケ崎のわが家にきて、デイサービスに通いながらも娘とともに過ごした日々は5年近くだっただろうか、最後は自宅の玄関で転んだ結果、腰の骨を折り入院生活を送らざるを得なくなり、入院による体力低下で穏やかな最後となった。 亡くなってからも後悔ばかりをしていた我が女房も、緩やかに悲しみが落ち着いて今は思い出でしか話さない。
ふと女房もそろそろお骨を多摩墓地に収める時期ですねとつぶやく。
それが3回忌の節目であろう。
草紅葉(自宅近くの公園)

行きたかった十国峠

令和3年11月05日

箱根までは良く行くのだけれど、ちょっと伊豆側にある十国峠にはほとんど行ったことのない場所だった。
それは車以外ではわざわざ訪れる場所ではないからかもしれない。
箱根新道を登り切り、三島への分岐で伊豆方面の尾根道に沿って、笹で覆われたドライブウェイが南に続く途中に、その十国峠へのケーブルカーがこじんまりと用意されていた。
それは標高差150メートルのかわいらしいケーブルカーで、歩いてもそんな苦労はしなくても登れる距離だから、どうだどうだの存在感は薄く、遊園地の楽しい乗り物のような気軽さがうれしい。
十国峠と言えば源実朝の名歌“箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ”で知られる展望の優れた場所で期待して展望台に向かったが、到着が昼近かったせいで伊豆の海も名峰富士の姿も霞がかかり、すっきりくっきりとはいかなかったのがご愛敬というものだろう。
しかしケーブルカーの途中で車窓から見たリンドウの花や、青い野菊の花々の方に秋を感じられたのがうれしかった。
このような低山の草原には、バラのような派手さより、10センチにも満たない野草がいじらしくひっそりと咲いているのがなんとも心に残る。

麓に出ればざる菊の季節で、華やかな群落が楽しめる時期ではあるが、伊豆の峠道には、ススキの残り香が冬も近いことを感じさせつつも、枯草色の草原はこの時期の旅を感じさせるだいご味であろう。
かわいい十国峠ケーブルカー

足柄で富士を見る

令和3年10月24日

この秋は気温の上下が激しく、ついこの前まで暑い暑いと半そで姿で闊歩していたのに、ここのところ急に12月の寒さが襲ってくるという何とも不安定な天気が続く。
それでも久々の晴天に恵まれた休日は絶好の行楽日和となり、雪をかぶったであろう富士のお山を見たくて足柄に向かう。
コロナ騒ぎもすっかりおとなしくなったとはいえ、それなりの車が行きかう中、西湘バイパスを超えて国府津から松田に舵を切り、大雄山下から足柄峠まで順調に車を飛ばす。
足柄峠を越えて駿河小山側にしばらく行った先に新しくできた公園から絶景の富士山が望めた。
富士は頂上近くだけが筋状に雪を抱くだけで、白雪に覆われたとはいかなかったが、この地からは眼下に御殿場地区を従え、雄大な裾野を抱く富士の全景がパノラマとなって展開していた。
この地が錦に包まれるのはまだ1か月以上も先になるだろうが、ススキの穂が揺れ、草紅葉がかすかに始まったばかりだが訪れた多くのドライバーが静かに富士を見入っていた。(いやはや絶景です)
草地のところどころには動物のまんまるい糞が30センチぐらいに固まって落ちていて、私には夜間動き回った鹿の糞に見えたが恐怖には思えずこれも愛嬌であろう。

これだけ大騒ぎをし続けた外出禁止の時期が終わりを迎え、静かに平穏な日々が訪れつつある中、誰かが打った鐘の音をほっとした気分で聞きほれていた。
コロナもやっとやっと人々の中心から消えつつあるように思える。
このまま平時に向かっていってほしい。
絶景・足柄峠の富士

秋風吹きすさぶ

令和3年9月30日

9月30日と言えば、現役時代では半期の締め日でもあった。
世間でも菅内閣が店じまいし岸田内閣が誕生したのは明るい材料なのかもしれないが、今のところ組閣で大騒ぎの毎日である。
コロナ対応で苦労し続けた菅さんは、貧乏くじを引いたわけだが、ここにきて緊急事態宣言もこの9月末で全面解除となったのだから、最後は無事目標達成で花道を飾ったことになる。
我がまちぢから協議会もコロナ対応が一段落したのだから、少しづつではあるが平穏な日々が戻りつつある。
しかしながら旧来の活動状況にもどるのは時間がかかることなのであろう。
知らず知らずのモチベーションは下がっているはずだから、心に鞭を入れる必要を感じるのだ。

そんな時に台風16号が関東近くをかすめ、太平洋上を通過すると騒がしい。
大型の台風で10月1日は終日大雨・大風の日と見込まれるとのこと。
まあ、どうにかなるだろうと思ってはいるが、この日は特段の急用がないのがうれしい。
さてさて、コロナ騒ぎの2021年であった。
だからこれからどうすると言われても特別なことは思わない。
静かに静かに平時の心境に達するのであろうか。
旅行も美術館巡りも、そろりそろりと準備するかな!
自宅のランタナの花

コロナ第5波収束か

令和3年9月21日

あれほど大騒ぎし医療がひっ迫、患者の自宅療養増加など、世も末だと騒ぎ立てたコロナ感染がここに来て毎週の患者数が5割減の勢いで減少し、この9月末にきて収束の気配が漂い始めた。
その最大原因は対策ワクチンの接種率が国民全体の60%近く達したからなのだろう。
爺ちゃん婆さん方の接種は90%台に乗っかったのだから、歩き回っても安全と思えるが、それでもたとえ再感染したとしても重症化だけは予防できるとしっかり安心宣言が出たのではないのだ。

恐る恐る観音崎の京急ホテルに行きランチを食べようとしたが、期待したバイキング料理は緊急事態宣言下ではやっていませんと、中南米料理のワンプレートに変更を余儀なくされる。
当然ビールは駄目なのだからこれでは全くのランチだったのです。
10月になれば元通りのバイキング料理になるだろうが、長年の自粛体制が心に沁みとおった今、さあなんでも解禁とは心情的に抵抗感がある。
都心一帯の緊張感あふれる厳戒態勢地帯と、それなりにほんわかした周辺区域とは事情が違うとは言え、長かったコロナ感染対策もやっと出口が見えだしたようには思える。

この秋は暑くなったり雨の日が続いたりの不安定な9月ではあるが、自宅の彼岸花はしっかり咲く時期をお彼岸に合わせ、昨年の10月開花より10日程度は早いので、しっかり仕事をしているので誉めてあげたい。
こんな風に自然に向き合えるのも長年のコロナ騒ぎが心の大半を占めた近年の特殊事情を脱しつつある証拠なのであろうか。
早く身も心もすっきりした天高く晴れ渡る日となる日が待ち遠しい。

コロナ直撃の箱根の秋模様

令和3年9月13日

久しぶりの箱根は更に人手が減少し、あの遊覧船の発着地にあった観光施設は ほとんど人影もなく、半分以上の店舗は撤退していた。
コロナ化でもそれなりの人が訪れていた有名観光地も、コロナ収束が視野に入ったと報じられるが、逆にますます人の流れは弱くなっているようだ。
人の波でいっぱいというあの箱根の光景はいつ戻ってくるのであろうか。

この9月は相変わらずの天候不良で、晴れ間もめったに出てこない中、 ちょっと早い仙石原を見に行くこととなった。
ひそかに気に入っている花の寺“長安寺”で秋の花々を見せていただく。
今年は少し時期が早い彼岸花がチラホラ咲き、コスモスも強風がなかったせいで、ピンクや白い花で秋が来たことを強く感じさせる。
そして紫のイワシャジンは釣鐘状の可憐な花で、この寺の名物と知らされる。
また、名前も知らない花々がお彼岸を前に密やかに墓地を飾っていた。
車で横目に見た仙石原のススキの草原は盛りにはちょっと早く、ススキが出始めて状態で、数組のグループがあの原っぱを横切る直線道を闊歩していた。

最後に立ち寄った芦ノ湖湖畔では、人影もない中、水辺に小さな花を鈴なりにつけた草に引き付けられた。
これは花がなかったら迷惑極まる雑草扱いの草なのであろうが、ゴマ粒のような花々で着飾った姿には、この時期だけ輝く命のすばらしさが印象に残る。
そして見る人もない、芦ノ湖の残照でもあった。

夏バテなのでしょうか

令和3年9月8日

ここにきて急に秋めき、夜は毛布が無ければ寒くて致し方ないと、9月初めの天候不順がなんとも不気味な存在だ。
1週間前は心身活発で、ZOOMでのTV会議も夜とは言え元気に参加していた。
そんな中、ここにきて日々なんでもおっくうで、メールの送受信さえめんどくさくなった次第。
そんな時は雑草だらけの庭の草取りが気を紛らわすと、朝方は涼しさも手伝って集中することにした。
何よりも蚊の襲来が寒さのせいで激減し、かゆいかゆい状態がないのが長くできる秘訣。
夏草に覆われたわが家の庭は、そんな片手間で終える状態ではないのだが、それでもそれなりに綺麗になったと大満足である。

これも良いのではないかと自分に言い聞かせてはいるのだが、やはり宿題は気になるものです。
今日は大丈夫だとぐうたら人生を過ごすつけはどうなっていくのでしょうか。
暇だからと本を読んでも、途中から頭に入ってこない。
ふと、コンビニで衝動買いした相対性理論なるものの解説書は、もうほっぽってあるのです。
老齢で無理をしないと言っても、もう数日気ままな日々をお許しいただきたいとお祈りします。
もうすぐのシルバーウイークを今から前倒しということでしょうか。

突然の衝動買い・相対性理論

オリンピック終わる

令和3年9月1日

あれだけ数年前から大騒ぎし、そして待ちに待ったオリンピックなのに、コロナ感染の流行は、開催することさえ迷惑というのだから、世の中は判らない。
何とか開催させてあげたいと思う方々と、こんなバカ騒ぎをしてコロナ感染がさらに加速化したらどうなるかの心配がせめぎ合い、結果IOCの決断で開催と決まった。
これは下駄を他人に預けた格好だが、日本の首脳者にとっても火の粉を振り払う良き材料になったのであろう。
おかげで聖火リレーは全部中止、開会式も無観客で、試合はすべてTVにて見学せよと冷や水を浴びせられる最悪の環境と相成った。
確かに始まってしまえば、柔道の金メダルラッシュ、野球の日本全勝、ソフトボールの優勝とそれなりに楽しんだが、わき目でコロナ感染が爆発的に増加し、TV番組は話題に事欠かないとは何とも皮肉ではないか。

私個人の感想はオリンピックを文字通り無事やり終え、日本国外の方々にも一定の評価が得られたのだから、良かったのではないかと思っている。
それにしても外国の観光客は全く来ず、入場券収入もなかったのだから、大変な赤字を我が日本人はどうやって補填していくのであろうか。
また各競技会場のこれからはいかに運営していくのであろうか。
他国から見れば勝手にオリンピックに名乗りをあげたのだから、その処理も日本の方々が処理するべきとなるのであろう。
いずれにしてもとんだ貧乏くじを引いたものだ。

元気な小和田小裏の夏花壇

私の夏休み

令和3年7月20日

今年の梅雨明けは7月16日とちょっと早めの終了時期と相成った。
いやだいやだ、じめじめが続く日々は嫌だと言い続けていたのだが、昨今は真夏の強烈な日差しは勘弁となるのだから何とも自分勝手だと言わざるを得ない。
オリンピック直前でコロナ騒ぎは相変わらず大騒ぎの中、爺ちゃん婆ちゃん方で日帰り旅行に出かけることにした。
熱海伊豆山温泉の土砂崩れの余波がちょっと静まり返ったとはいえ、この近辺には出かける心情にはならないと、箱根を超えて三島方面に車を向ける。
三島に近づくと、とんと足が向かない修善寺方面に縦貫道が通っていることが気になっていたので、それでは行けるところまで行ってみようと舵をきる。
それにしても道は快適にどんどん進み、あっという間に修善寺に着いてしまう。
良く判らないのだが、それでは修善寺温泉に行ってみようと左右を見るうちに、 どうやら知らぬ間に中伊豆を南下する道に迷い込み、湯ヶ島への道に向かっていた。
人通りの少ない道を進むこと15分ぐらいであろうか湯ヶ島についても繁華街など見当たらず、昼食が取れる店などもさっぱり見ることができない。
それに平日でもあり観光客もコロナ感染の影響で休業が続いているようで、観光施設も元気がない。
道沿いに浄蓮の滝にあり、やっとここを目的地とすることとした。
天城の山々は梅雨明けの晴天に光り輝き、木々に囲まれた空間は何とも透明感が強烈で夏が来たことを感じる。
あの浄蓮の滝は何年ぶりであろうか、年寄りどもにはちょっとこたえる階段を下り、思ったより激しい水量のちょっと斜めに流れ落ちる滝の光景はやっぱり感激ものである。
石川さゆりの歌碑が立っていないとつぶやく婆ちゃんのお言葉にいたく感じ入ったこの滝は、それが最大セールスポイントなのだろう。

西湘バイパスと伊豆縦貫自動車道(一部有料)を使えば湯ヶ島から箱根を超えて茅ヶ崎まで2時間程度でたどり着くことができる。
今は静かな狩野川に沿った町々も、現在進行中の縦貫道が下田まで全面開通となれば、近代的な建物が立ち並ぶ温泉街になるのであろう。
伊豆の踊子の風情がまだまだ残る懐かしい山村の佇まいがいつまでも残ってほしいと感傷的になった小さな旅であった。

天城の浄蓮の滝は涼しげでした

お宮の松で考える(2)

令和3年6月8日

熱海に来たなら“お宮の松”を見なければなるまい、というのは爺ちゃんや婆ちゃん方の常識でしょう。
そこはジャカランタが咲き誇る美しい公園のその先に昔と変わらず鎮座していたのでありました。
改めて銅像としてお宮さんと貫一さんのお姿をしげしげ見させていただくと、 下駄を履いた貫一青年が、追いすがるお宮さんを足蹴にするその時の一瞬だったのであります。
どんな理由があろうとも現代なら一発アウトのセクハラ行為で、周りから貫一さんは袋たたきの状態に確実になろうというもの。
でもあの明治の時代は「貫一さん、どうかお許しを!」などと必死に懇願するお宮さんの姿を見て、貫一さんそれなら許してやれよ!と同調する時代なのではありませんゾ!。

これでは若い人たちは、ただただ“昔はひどかったのね”と一瞥もしないで 通り過ぎるというもの。
我が爺様連も声もなくさっさとこの場を離れたのであります。
それは見てはいけないものを見てしまった罪悪感なのかもしれません。
銅像のその先は熱海の海岸が広々と広がっていて、今日は海水客が数組パラソルを掲げていました。
しかも一組は海に入り泳いでいるご様子。
こんな光景を見て、時代は変わったなどとすがすがしい気分で熱海を退出したのです。

怒り狂う貫一さんとひたすら謝るお宮さんの姿

お宮の松で考える(1)

令和3年6月8日

熱海に行きジャカランタの花を見たいと仲間が言いだし、真夏を思わす暑さの中ご老人一行は車で現地に向かった。
実は、昔スペイン旅行の際、セビーリャで大木となったジャカランタの花を初めて見て、その薄青色の花々に印象が深かったのである。
この木は10メートル以上もあり、日本でいえば桐の花の佇まいによく似た見上げるような大木に一面に咲く花々は、異国で見る風景としていかにもスペインらしく感激もひとしおだったことを鮮明に覚えている。

それにしてもあの熱海の海岸沿いに100本近くが植わっていると話すのだが、 あの海岸の幅では、とても100本は植えられそうもないのが、いぶかし気に現地に到着する。
しかし、海岸に沿ってしっかり花が咲いていましたよ。
まだ伸びきっていないジャカランタの木は高さ3〜5メートルぐらいの成長途上の大きさがほとんどで、葉もしっかり茂っていた中にあの青い花々があふれるように咲いていた。
でも、その花に色は思い描いていた淡い空色ではなく、濃いめのブルーの花弁であり、ちょっとスペインとは違うなと首をかしげる。
それでも南国風の公園にはブーゲンビリアの花などが咲き誇り、ここ一帯が熱帯植物園のような華やかな色どりで飾られている。
いやはや、これが今の熱海かと爺ちゃん方は改めて驚いたのであった。

熱海海岸のジャカランタの花

熱海海岸のブーゲンビリアの花

ご近所の草取りボランティア作業を想う

令和3年5月13日

わが家の数軒先にあるNさん宅に地域のボランティアセンターの方が10名ほど来られ、お庭の草取り作業を1時間ほど行った。
このお宅は数年前にご主人が急死され、それまで熱心に手入れされていたご自宅の庭が奥様だけでは手が回らない事態になってしまったようで、今回の依頼をお願いしたように見受けられる。
たまたまボランティアセンターの方々は地域のつながりで見知った顔ばかりで、当方に現場の写真を撮ってくれと我が家に駆け込んできた。
こんな時でもない限り、Nさん宅には入る機会もなく、スッと入って行ったのであるが、50坪近くもあるお庭はそれなりに手入れされていて往時の姿を髣髴される。
しかし、元気な雑草類の勢いが激しく、奥様はやってもやっても一向に綺麗にはならないと嘆いてした。
10名のボランティアスタッフが一斉にハサミや鎌などを持って期の選定や草むしりに取り掛かるとあっという間に庭が整えてくる。
やはり人数がいると綺麗になるものだ。
そして1時間の作業を終えて終了となった。

ここのご主人は私が鎌倉で緑の保全活動をしている時分、同じ場所で作業をされていたのを覚えている。
また丹沢地域で緑のボランティア活動をされているとも聞いた。
そして当方が脳梗塞で倒れ、軽症で帰宅後、しばらく後に今度はNさん宅のご主人がトイレで倒れ、その後亡くなられたと知った。 恐らくわが身とそんな離れていないご年齢なのであろう。
ちょっと寂し気な奥様に挨拶をしながら、明日は我が身と心に刻んでその場を去った。
何とも複雑な心境である。

ボランティアの方々

ゴールデンウィーク終わる

令和3年5月4日

コロナ騒ぎで毎日大変大変と騒ぎ立てる。
4月29日の大雨の日から次の日は終日大風と、思わず外での行動が出来づらい環境下、5月1日は気を使いながら鎌倉でのお話会を終わり、小雨が降り始める中さっさと辻堂に戻り、雨が降りやんで良かったとチャリインコを飛ばし、自宅でほっとしていると15分も過ぎると、みるみる空が真っ暗になりカミナリゴロゴロの世界となった。
やっぱり外へ出てはいけません。
その後は反動か湿度も低く快適な日々が続き、ついにガマンができず、4日に車で足柄に向かう。
着いた先は足柄古道の足柄の関跡で、峠を越えたその先にちょっとカスミがかかっていたけど富士山を囲む御殿場のパノラマが目の前に見える。
思わぬ大展望に「エガッタ!」と感激したのであります。
この地は人影もまばらで、これならコロナも大丈夫と自分に納得とは、どこか後ろめたい心地があったのでしょうか。
それ以上にこのような緑の中では私でも心が洗われるのかも知れません。
帰路、立ち寄った中井の厳島湿性公園でアヤメの群落には、その鮮やかな青がひと際目に残り、そうだ明日は端午の節句なのでありました。
そう言えば途中立ち寄った和菓子店ではアンコの柏餅が売り切れていました。
食べたかったなあ。。。。。

見事なアヤメの群落(厳島湿性公園にて)

コロナ予防接種券がくる

令和3年4月21日

この4月20日に我が家のポストに世間で大騒ぎをしているコロナ予防接種の案内がきた。(正式名称:新型コロナウィルスワクチン接種券)
まだまだ全国的にも予防接種が始まったばかりで、医療従事者や大規模高齢者施設で始まったばかりと聞いていたので、いずれは我が家にも来るのかなと思っていたら随分早く我が家に届いたことにビックリ。
事前予約が5月20日からと1か月先からの開始時期ではあるがいよいよかとうれしい話である。
改めて後期高齢者であることを思い知らされたのであるが、大騒ぎすることもなく、淡々と従えば良いと思っている。

折しも東京、大阪、兵庫にて緊急事態宣言を出すと報道で姦しい。
我々の茅ヶ崎地域ではこのコロナ騒ぎで大騒ぎとは(幸い)なっておらず、どこか遠い国の話とも感じられるのだが、こう聞くと東京都内では全域にコロナ菌が街中を雲のように街中を漂っているようにも感じられ、都心への移動は避けなくてはならないとの脅迫観念が強まる。
また、もうすぐ訪れるゴールデンウィークには、遠出は何としても避けなければならないのであろうか。
不思議にこのところ絶好の好天が続き、春には珍しい穏やかな日々に、動けないとはよけいストレスがたまるから何とも皮肉なめぐり合わせである。

待望のコロナ予防接種券の案内

我がゴヤの印象

令和3年4月5日

それは大昔のことになったが、スペインのマドリッドでゴヤの名品を見た。
プラド美術館ではいくつかの優品を見たはずなのだが、あれっと驚いたのが田舎から出稼ぎに来ているような純朴な男女や子供たちの遊びの群像を描いた1メートル四方の絵画たちで、廊下に沿って横1列にずらっと並んでいた。
ずいぶん経ってからこれはゴヤが地元のサラゴーラからマドリッドに出て、王立のタペストリー工場で原寸大のタペストリーの原画を書くことが与えられ、63点の下絵(カルトン)を描きながら腕を上げていったときの記念碑的作品なのだそうだ。
そうかそうかとこの場を通り過ぎればゴヤの最高傑作がきら星のごとく並んでいる大広間にたどり着く。
正面には『カルロス4世の家族たち』が堂々と、ちょっと横っちょに『裸のマヤ、着衣のマヤ』が目立たぬように並んでいた。
そこから地下に降りていくと控えめな展示ではあるが、おどろおどろしい『黒い絵シリーズ』が強烈な印象を持って並んでいた。

いずれも世界的名品の数々を眺めながら、ちょっと未完成にも見えるタペストリーの原画は私が思い描いていたゴヤのイメージとはあまりにもかけ離れた素朴すぎる絵画であるため、今でも頭に思い浮かぶことが不思議でならない。
プラドと言えば、そのほかにもベラスケスやエル・グレコなど“さあ、どうだ”とばかりの名品が並ぶ中、こんな一瞬が今になって思い出させるのはどうしたことであろうか。
なお、今は芸術新潮2008年7月号“私はそれを見た!ゴヤの戦争と平和”を読み終えた(再読)ところである。

ゴヤの何ともかわいらしいカルトン

改めてビートルズの音楽に感激

令和3年3月29日

そもそもビートルズの音楽に特別な想いなど持っていなかった。
昨年の夏ごろからラジオの番組で毎週日曜の夜9時からの1時間番組でなんと1年間もビートルズの魅力を語り尽くすと知る。
寝ながら「それでは聞いてみるか」と聞き始めたのであるが、良く聞きなれた曲もあれば、何とも摩訶不思議な曲もかかる。
コーディネーターは強烈なビートルズファンだから曲にまつわるエピソードなど熱く語るのをぼんやり聞き続けるうち、知らず知らずのうちにビートルズの曲がだんだん好きになっていく。
それとともに天才演奏集団ビートルズがこの時代(1960年代)に特出したグループであったことを思い知ったのであった。
初期の元気良くめちゃめちゃな音楽(例えば“抱きしめたい、ハーズデイズナイト”)から徐々に心地よい和音に変わるのを聞きながら、コーラスの綺麗さやギターのイントロ・テクニックなどにほれ込んでいった。
この3月末で放送はファイナルとなったのであるが、改めて活動された時期の10年間で多くの名曲が紡がれたことに驚きをもつ。

何でこんなとてつもないことが出来たかと言えば、メンバーは楽譜を読むことさえできず、曲を制限する和音の基礎ベースを知らないために、心の赴くまま自由に音を作り出したからだと説明される。
毎回番組の最後に流れた“グッドナイト”は思っているビートルズとは全く異質な何とも(メロウな)素敵な曲で、これがビートルズの作品とは思いもしない。
そして聴き通した私自身のナンバー1は“サムシング”となったが、これらの名曲はいつまでもビートルズ作曲との名が消えたとしても、ミュージシャンの手で語り継がれていくのだろう。

これぞ有名なアビーロード

春は恋の季節です

令和3年3月17日

訪れたのは丹沢山麓の日向薬師で、春うららの気候はどこを回るにも快適な季節。
奥まった山懐にある雨降山・石雲寺は人っ子一人いない静かな佇まいながら、見上げるような大屋根の本堂は時代を感じさせる清楚な建築でありました。
ここの名物と言えば、本堂の片隅に吊り下げられている大きな魚を形どった「魚バン」と言う行事の時刻を知らせる木の板であろう。
木魚の原型と言われるそうだが、愛敬あるお姿は関東では珍しくユーモアが何とも微笑ましい。
これを眺めていると堅苦しい戒律の中でも心がほっこりするから不思議だ。
折しもすぐ横にある一本だけ聳える桜の大木は、周囲の木々がまだつぼみも固くこれから開花と思えるのに、ここだけ満開に近いピンクの塊となり静かな境内に花を添えていた。

ここからそれほど離れていない場所に日向薬師の本堂がどっしり佇んでいる。
ここはいつ行っても茅葺屋根が極めて流麗で、鄙びた山寺の雰囲気が味わえるのがうれしい。
いつもは静かなこの地がどこからか聞こえるカエルの鳴き音で騒がしい。
おかしいなと思いながら、境内の南側にあるコイなどがいる小さな池に近づいてみると、池の周りや池の中はガマガエルで溢れんばかりに埋め尽くされている。
その数は50匹以上いるだろうか。
そのカエルは小さなモリアオガエルならいざ知らず、10センチはあろうかと思われる大ぶりのガマガエルで、枯葉模様に彩られた雄雌がしっかり馬乗りの姿で抱き付いており、その姿のままで池の周りや石で敷き詰められた広い境内をわが物顔で歩き回っている。
春の発情期と言えば穏やかだが、中には3匹が絡み合っているものもあり残念ながら目をそむけたくなるように壮絶な光景に、「しょうがないよな」と語りながらこの場を去った。
春の光景は壮絶であった。それにしてもお元気な姿が羨ましい。

雨降山・石雲寺の何とも微笑ましい「魚バン」

家族で足柄へ温泉旅行

令和3年3月6〜7日

おそらくこれからそう何べんも家族全員で旅行に行くことなどないだろう。
自宅勤務で閉じ籠らざるを得ない娘の休養を兼ねて、足柄の“おんりーゆー”に行くこととした。
茅ヶ崎の自宅からは高速を使い、1時間ジャストで足柄・大雄山の“おんりーゆー”に到着とはいやはや早いものだ。
部屋はこのホテルではたった1室の洋室で、バリ風のゆったりした大きさがいかにもリゾートホテルでまずは孫娘がはしゃぎまわったあと、すぐ浴衣に着替え露天風呂に直行とは当然の成り行き。
ここの特徴は長年足柄の湯として、湯治客に親しまれていた処だから、温めの温度でじっくり浸かるのをお勧めと記されている。
特に屋外に38度と42度の2つの露天風呂が用意され、木立を眺めながら身を沈めていると、何時間でも湯あたりもせずぼんやり出来るのがうれしい。
杉木立に囲まれた大雄山地域の一角にあるこのホテルは、コンビニも無縁の1軒家で、食べて飲んでその後は静かに寝るしかないのだが、いかにも森の中で ゆっくり過ごすには豪華な気分になることが良かったようだ。

次の日は昼過ぎまで長湯を楽しんだのち、せっかくだからと大雄山最乗寺に寄ることにした。
娘たちは初めて見る杉の大木にビックリのようだったが、本堂(御真殿)の中で行われた特別祈祷を偶然にも見ることができ、天狗の寺として名高いこの寺のおどろおどろした神事に我々も異次元の時間を過ごした。
それはまるでTVでも見るような太鼓の乱舞と5人の僧侶による読経の重なりで、僧侶がまるで水木しげるに出てくる鼠小僧を髣髴する妖怪のように見える。
荘厳と言うより魔物を追い払うための悪霊退散の念仏が、ものすごい念力で叫び狂うのだった。
そこで見た僧侶の所作ではお経をまるでトランプ札を空中でパラパラとしてめくるように見える神事は、ただただ唖然と見入ってしまった。
おそらく15分ぐらいの祈祷なのであろうが、いただいた御札はさぞかし大事に祀られるのであろう。
我々は、ご祈祷の本人ではなく、お堂内の後ろで見ていただけの聴衆なのであったが、後で女房から「こんなまじかで見てて良いものなのか」(しかもタダで)と呟かれたのには同感でもある。
せめて1万円ぐらいはお納めするのが御礼と言うべきなのかも知れない。

”おんりーゆー”でのハンモック体験

松田の河津桜を見に行く

令和3年2月25日

ちょっと盛りを過ぎたかもしれないと思いながらも、著名な松田に出かけた。
TVによれば、こちらの桜まつりは緊急事態宣言化を受けて中止と報じられている。
それならば例年大混雑のこの地も少しは快適に花見が見れるのだろうとは世間様には顔向けできない告白。
御殿場線で松田についたのは朝10時過ぎのこと。
駅からのハーブ園への道は10名程度が思い思いに向かう程度で、人人の例年とは大違いの人波でした。
会場には物々しく検温の係の人が待機し、難しい顔をしてお帰りくださいとは言われなかったのが一安心。
この松田の特徴は、かなり急傾斜地にびっしりと河津桜が植え込まれており、まだ大木とは言えぬ大きさのため、3メートル程度の高さが丘一面を覆っているように咲いている。
その桜の間の道を縫うように通路が引かれているのだが、見上げてもびっしり桜の花々しか眺めることが出来ず、まるでピンクの花々に取り囲まれているような感となる。
本家のように川筋に咲いていれば、空を見上げ、横の河原を眺めることが出来るのだが、ここでは前後左右桜の絨毯で、ご愛敬に下草がわりに菜の花が鮮やかな黄色の花で迎えてくれる。
登り切った丘の上から酒匂川に面した松田の街並みや箱根の山々を眺めながら、ちょっと疲れた当方は女房共々“えがった”と感嘆したのはご愛敬でもありました。

ちょっと若葉も出てきた松田の河津桜

春に向けての雨が降る

令和3年2月15日

おそらく3か月近くも雨らしい雨が無かった。
そんな中、今日はアスファルトをたたきつけるような激しい雨が昼間を覆う。
それも孫娘が小学校に着いた後から、午後3時近くまで時には激しい風を呼び込みながらの悪天候。
偶然ながらも女房も在宅で 午後のTV観戦で気を紛らわす以外手もない暇な時間であっただけに、家族には大きな影響はなかったのが幸いであった。
しかし夕方には西の方から太陽がさし始め、見る見るうちに青い空に戻る。
早速外に出てみると、庭に杏の枝がほんのり赤く色づき一段とつぼみが目立つようになった。
まさにこの木にとっては恵みの雨であったに違いない。
そして庭の木々は心なしか皆元気を取り戻したように見える。
この時期はプランターのパンジーが冬の寒さから元気を取り戻し、サクラソウもピンクの花が咲き出した。
そして水仙の芽が1日ごとに大きくなってゆく。
いよいよ楽しい春の庭が近づいてきた。

そんな中、東日本大震災を10年の昔に思い出す時期となった、この13日に再び東北地方を震度6の大地震が襲った。(こちら湘南地区も震度4でした)
東北新幹線で電柱が倒れ、2週間程度の運休が発生したと報じているが、振り返って、これだけの大地震があったのだから日本全体に渡り大きく歪が顕在化していると解説されると、まだまだ終わったことと言い切るには早すぎるのであろうか。
数百年に一度の惨事は、大地震とコロナ騒ぎのダブルパンチで終わらせてほしいものだ。

咲き出したクロッカスの花

梅咲き揃う熱海の梅園

令和3年2月9日

さてさてもう梅の花が咲く時期だと思うのだが、有名な曽我の梅園でも“梅まつり”などの行事は大ぴらに宣伝など出来ないのであろう。
それではと当方も密やかに熱海の梅園に出かけてみた。
熱海のまちは驚くほど静かで、駅の近くも海岸通りも人影さえまばらな光景にコロナ緊急事態宣言の延長期間であることを痛いほど感じる。
しかし、梅園の入口にたどり着けばそれなりの入場者は訪れてもいる。
ものものしく検温・消毒の後、チケット購入で内部に入れるのであるが、入口近くをピンク色で覆い尽くす紅梅がことのほか華やかさを演出してくれていた。
緩やかに登りながらの庭園は、まさに日本庭園の極致で中心を流れる渓谷をポイントに梅の花が段々畑のように並び立つ。
回遊式庭園と言うのだろうが、白い花々も箒状にびっしり立ち並ぶものもあれば、曲がりくねったものもあり、紅梅は深紅のものから柔らかな薄桃色まで、石組みの美しさもあいまって、立体的な構成が何とも楽しい。
この時期らしくウグイス笛ばかりを並べた売店は、ここでしか見られぬ光景で別世界に連れていかれそうな楽しい演出でもあった。
一昨年のこの時期に来た際は、ちょっと早く白い花がチラホラだったが、こんな満開の花々が咲き誇る光景は最盛期なのだろう。

普通なら場内には音楽が鳴り渡り、行事案内がけたたましく流れるべき華やかな花祭りなのに、浮き立つ演出を控えるご時世には当方の心まで高揚感が出てこない。
とすれば飲めや歌えやの俗人を離れ、昔の文人の気分なのでしょうか。

満開の梅の熱海梅園

2月になって春が芽生えてきた

令和3年2月3日

今年は冬もそこそこの寒さが続き、春の足音がずいぶん遠のいていた。
女房どののご指摘では、今の時期なら近所でも梅の花がちらほら咲く時期なのに、今年はその気配さえないと鋭い観察眼をお示しになる。
しかしながら庭の日差しは日に日に力強くなり、隣家のアパートからの影が少しずつ南側に移動していく。
そんな庭の一角で、見事な八重のクリスマスローズが純白な花を開いた。
いかにも西洋育ちの花らしく気品ある大輪の花が美しい。
折しも立春の日となり、何か心が浮き立つ幸せな気分になれる。
傍の水仙も芽が緑の葉をのぞいてきたのを見ると、もうすぐ花が咲き出してくるのだろう。これからが我が家の百花繚乱の時なのである。

ここにきてコロナ感染の状況が少しずつ収束に向かう途上にあり、ここで気持ちが緩んではならじと緊急事態宣言が更にもう1か月延長と決まった。
しかしながら、東京の感染者も1日2000人を超える時期から、昨今は500名と順調に感染が落ち着きつつあるようにさえ見れる。
それに海外でのワクチン接種の好結果が報告されることから、日本でもワクチン接種の流れが動き始め、このコロナ騒ぎも少しずつではあるが、先行きに明るい見通しが出てきた。
今しばらくの辛抱であろうか、季節は明らかに冬の時代を超えつつある。
明るい春を迎えようではないか。

春一番のクリスマスローズの花

突然の“峠の釜めし”購入さわぎ

令和3年1月21日

いつもは新聞に差し込まれた折り込みチラシなど気にしたこともなくさっさと処分したものだが、偶然近くのデパートで行われる駅弁大会に目が引き込まれた。
(こんなことは数年来無かった)
だってこの状況では電車での旅行さえ、気が咎めるので、それでは行った気になって駅弁でも買いに行こうかと家族で盛り上がる。
ぎっしり誌面を埋めた駅弁の数々は108種とこれだけあれば各自の希望も迷うことしきり。
でも、今回は有名な“峠の釜めし”にまとまった。
ただし、この人気の商品だから1日80個の限定と書かれている。
デパートの開店時間が朝の10時だからと、デパートにたどり着いたのは10時半ごろと、それなりに駆け付けた感はあり、それでも配られた予約券は60番のわりあい際どい時間となりました。
11時の駅弁到着時間を待って無事家族分3個をもらったら、家族から出来たら森駅の“いかめし”もと言われたことをすっかり忘れ、そそくさと帰宅しちゃったのはご愛敬というもの。
デパートの会場はこの緊急事態宣言が出ているにも関わらず、大変な混雑状況で、おそらく午前中には人気駅弁は売り切れていたのだろうな。
また、この寒波で北国の駅弁はいつになったら届くかわからないとも聞こえる。
この時期のちょっと気が咎めるおしくらまんじゅうの中、それでも会場全体に広がる幸せ感が心温まる時間でもありました。

夕飯は食卓の真ん中にズラリ揃えられた釜めしの“どうだどうだ”感に、どこか旅行に行ったような気分になりました。

見ていても興奮する駅弁の数々

情けないが機器の操作がしっくりこない

令和3年1月18日

割合最近の事ではあるが、ウォークマンを購入した。
不思議なことだが、取扱説明書は無いに等しく、すっかり小型軽量となったせいで付属品も数少なく、まずは電源さえ入れることが出来ない。
まして録音・再生操作に至っては目に見えるボタンがあるわけでもなく、 表面のガラスフィルムを眺めながら、どうするのか考えあぐねる始末。
ともかく取っ掛かりが見いだせない。
側面にも相当するボタンが無く、しかも昔から見覚えのある入出力端子(ピンジャック)が一つしかないのだ。
まずは専用端子とUSBの接続コードを使い、パソコンからUSB経由で電源をもらう。(これはパソコンで仕入れた操作方法)
そして電源を入れるのだが、ほっておくとすぐ電源休止モードになってしまう(画面が暗くなる)のだから、ここで使う気分さえ削がれてしまうのが悲しい。

当方スマホを持ち合わせていない旧世代のじいちゃんだから、画面を触って操作をする最近の時流には疎いことが原因で、画面上で指を左右上下に動かして次画面にたどり着くやり方が、とんと気が付かないのだった。
だからガラス面を指で押すことしか思いつかず、左右上下の指移動で何か動きそうだと判るまでには精も根も尽き果てた。
そしてやっとこうすれば大丈夫と言う入り口にたどり着けば、その後はオーディオ技術者の顔に戻れる。
いずれにしても旧世代のボタンを押しながら操作する時代感覚から、画面をスライドする感覚に変遷する今の時代が、どうしても肌にすり込めないことに戸惑いを覚える。
やりたかった操作は外部入力によるマニュアル録音。
いやはや情けない。。。。

寒さも元気なストックの花(自宅にて)

76歳の誕生日を迎える

令和3年1月7日

外は久しぶりに西風が吹きすさぶ。
東京からこの茅ヶ崎に越して来た時、一番驚いたのが雨戸を揺さぶる西風の強さで、女房殿はガタガタと鳴りやまぬ騒音に寝るのに苦労したと語る。
越してきた当時は周りを田んぼや畑で取り囲まれたこの辺一帯も今やほとんどを小奇麗な住宅で囲まれ、白っぽい街に変身していくのは、時代の流れであろうか。
この地茅ヶ崎でもう50年近くの歳月が流れる。
そしてかの西風など急に少なくなったのが不気味。
今や娘や孫娘に囲まれ、平穏な日々を過ごせることに心から感謝したい。
ここに来てご同輩が少しずつ鬼籍に入る年頃になった。
さすれば心安らかにその日を迎えたい。

退社後は無為に過ごすことなどほとんどなかった。
近年は地域の活動に精一杯頑張った。
ふと、このコロナ騒ぎで様々な活動自粛を受けて、心が少し空虚な気持ちにもなる。
想いだけでは地域を動かすことはできず、多くの人たちの協力の賜物であろう。
ふと、走り続けた日々を少しゆっくり休んでみようとも思う。

ご近所の村社のお正月風景

緊張の新年が始まる

令和3年1月3日

2020年の大みそかでの東京でのコロナ患者は何と1300人台に急上昇で、年末まで1000人以下で辛うじて踏みとどまった感があった患者数に大きな衝撃を与えた。
新年は元々家で静かに過ごす時期であるが、いっそうの自宅待機がせまられた。
辛うじて開催された箱根マラソンは、沿道での見学自粛でそれなりの静かさが保たれながらTV観戦に気が入る。
往路は予想外の創価大学が他を圧勝して優勝。
これは誰もが驚く番狂わせであった。

復路の走行がなされる1月3日に友人の車で、少なくとも箱根マラソンに影響されない地区に行こうと、丹沢の宮ケ瀬湖を経由し、道志川沿いを走らす。
それなりに曲がりくねった道は山中湖に通じる“道志みち”を西に向かい、道志村の集落にある道の駅に到着。
いかにも山中の村の佇まいを残すこの一帯は信州の山奥に来た感がする。
本来は道の途中で食事でもと考えていたが、谷沿いを行き交う山道には、どこまで行ってもドライブインなどありゃしない。
そしてたどり着いたのがこの“道の駅”であった。
それなりの人々がたむろする中、あったかい昼飯がうれしい。
この地で思い出すのが、2年前になろうかキャンプ場にて起きた小学生の女の子の行方不明事件。
ほんの30分程度の空白時間に神隠しのように姿が見えなくなったようで、 その後、懸命の捜索にもかかわらず手掛かりさえないと聞く。
ドライブインには、探し求めるお母さんのチラシが置いてあったが、どうにも悲しすぎる事件である。
どえらい山中から自宅近くまでは宮ケ瀬湖経由で2時間と車の便利さを痛感する。
突如山の中から帰り着いた我々は、信号もある、コンビ二もある普通の住宅地にたどり着き、「新春だから美味しい喫茶店に入ろう」などと浮かれた気分でコーヒーなどいただく。
気になっていた箱根マラソンの結果は最後の最後で逆転した駒澤大学が優勝をさらっていた。

と言うことでなんとも取り留めもないお正月と相成った。

突如現れた(近代的な)道志村道の駅

2020年を振り返る

令和2年12月29日

12月28日に年賀状を書き終え、また市役所へホームページの今後についての打ち合わせに行ったことで、ほぼ今年のお仕事を完了した。
今年の年初めには想定できないような世界を振り回したコロナ感染症の大流行で東京オリンピックも延期し、どの国も鎖国のような状態となった。
多くの外国からの観光客を当て込んで、ホテルや様々な観光施設を増強した日本の基本姿勢が、予想もできない疫病の蔓延で大パニックとなったのは気の毒の極み。
そんな中、経済とコロナ予防策の天秤でだましだまし乗り切るように見えた日本の活動も、残念ながら窮地に立ちつつある。
それは世界中のどの国でも起こっていることなのだが、患者の増加で医療機関がパンクしかかってきたことであろうか。
この12月の末には、ついに国会議員がコロナ感染症で急死する事態となった。
いよいよ火の粉は国会にまで燃え移ってきた。
これこそお尻に火が付いてきた。
さてさてこの年末は不安ばかりが大きくなる2020年であった。

年末にTVを買い替えた。 一回り大きくなった液晶画面の美しさの改めて感激させられる。
想えば、まだデジタル化が進展途上の環境下でファインピッチのTVを選定したのは10年以上前のことであろうか。
その後4K・8Kの高画質化が進展し、昔とは別物の美しい画像が送られてくる時代になった。
高画質で見られる自然の風景がこの正月には楽しめる。
良い時代になったものだ。
もう少し早く買い替えるべきだったとは残念なコメントである。

小田原一夜城跡にある川島なお美さんの碑にて

ラジオって良いな

令和2年12月19日

最近はパソコンでのラジオ視聴がすっかり板につき、それも聞き逃し番組の再視聴ができるようになってからは、NHKでの「飛ぶ教室」をすっかり楽しむようになった。
番組は鎌倉の高橋源一郎さんが推薦する読書紹介と彼のお友だちとの対談である。
知らない本ばかりの紹介ではあるが、自分自身がいかに狭い範囲の人たちの意見しか知らないことに衝撃を覚える。
それとともに出演する対談者の方々は、普段のTV界では語られることもないだろうと思われる型破りの方々ばかりで聞いているとともかく楽しい。
このところのテーマは一貫して男性社会の不合理をついたものが多かったが、それでも声を出し続ける女性の自信を持った生き方には、暗さがあまり感じられないことに救いを感じた。
理不尽な夫であっても、じっと我慢して家庭を守るのが普通の世界だったはずが、自分の一生こそ一番と、反旗を翻す女性像は明るい未来さえ感じるのだ。

それとは別にある日の放送では、ドラえもんの“竹コプター”で空に飛ぶには漫画のような小さな羽で飛ぶことが出来るのかと質問し、空想科学者が理論的には身長と同じくらいの直径を持つ竹コプターが出来れば可能と答える。
「でも、頭の頭皮が痛いでしょうな!」とコメントする。
世の中には変なことをまじめに考える人たちがいるのだ。>

ラジオと言うのは聞く気持ちをしっかり持って聞かないと中身が判らない。
それに比べTVだと絵をぼんやり眺めるだけで、何となく内容が解ってしまう部分があり、やはりしっかり理解するにはラジオが最適と改めて思うようになった。
この歳になって知的好奇心をそそるとは、何とも不思議な感覚である。

湯河原で見た真っ黄色のイチョウの木

75歳からの手習い

令和2年12月7日

若気の至りと弁解する時期はとうに過ぎ去った。
ここに来て、市の開催する講習会に出席した。
それもIT時代の先端に立つホームページ講座なのである。
おかげさまでもう15年近くも勉強しているホームページもそれなりのレベルに達したと思うのだが、ここまでくると私がだめになったら、(あまりにも難しすぎて)これを引き継ぐことさえできない。
“1代限りか”と思えばそれだけだが、組織としてはちょっと後ろめたい。
ついては多数の方々が使っているワードプレスというソフトを使ったホームページを教えていただき、後継者の引継ぎができる環境を作っておきたい。
全6回の講習での結果は、おぼろげながら一応の結果を出すことが出来た。

それにしてもITの動きは日進月歩で、昔からホームページをどうやったら作れるのかと苦労していた時代から、どうやったら内容を告知できるのかとか、ユーザーからの反応を引き出すにはと言った、むしろマーケティングのツールとしての道具に変身していることに正直驚いた。
よって昔からの私メは、テキストを何べんも見返しながらも突然別世界に連れていかれた感がして、ただただ戸惑うことが多い。
しかし講座で先生が語っていることを昔の手法に通訳できる腕を持っていたことが、解決へのヒントになることも分かった。
そんな日々を経験しながら、昔からのパソコン仲間たちにホームページ作成に関する現在の手法を伝達する役目が出来そうだとも思えてきた。
こうしてはいられないと奮い立ったのである。

秋も深まり草木も綺麗に色ずく

M君の訃報

令和2年11月18日

箱根に仲間たちで紅葉狩りにいき、夕方5時近くに帰宅すると、年賀状の欠礼通知が届いていた。
ああ、そんな時期になったのかと思い、その内容を見て愕然とした。
会社時代からの友人で、退職後もしばらくは川崎で騒いでいたM君がこの8月に亡くなったとの知らせであった。
このような時期に来る欠礼のお知らせは、殆どが我々の親世代の訃報がほとんどで、我々の仲間自身が該当することはめったになかった。

M君は60歳の定年までしっかり在職し、その後も当方とは5年近くは何人かのグループで飲み歩いていた。
彼は現役時代からダンスを習っていて、退職後は川崎で地元のサークルを多数教えていたようで、日々忙しいといつも嬉しそうだった。
そのせいで足腰がしっかりしていて、シャンとした姿をうらやましくも思った。
「私の健康はダンスで動き回るのが良いのです。ぜひあなたもダンスをすることを薦めます」と会うたびに勧められたが、こっちは鎌倉での草刈りに精を出していた時期で、「そんな軟弱な活動はごめんだ」と断り続けた。
だから80歳近くの彼が元気に動き回る姿しか思い浮かばない。

飲み仲間もだんだん少なくなってここ6・7年はご無沙汰が続いていたが、年賀状のやり取りだけは続いていた中だったがここに来て奥様からに連絡であった。
自身初めての友人との別れである。
我々世代が80歳近くになっていくのだから、訃報もそう不思議なことでは無いのだが、何とも寂しい気持ちはどうにも収まらない。
はがきが届いた翌日、奥様にお電話をさしあげお悔やみを述べたが、涙ばかりがあふれ出し、言葉も多くは語れなかった。
仏前に電話があったと報告すると奥様は言っていらした。
M君、ありがとう。また逢おう。。。。

友に捧げる箱根のバラ(長い間ありがとう)

みどりの中でゆったり湯に浸かる

令和2年11月13〜14日

女房と久しぶりの1泊旅行。
と言っても茅ヶ崎からはほんの一足先の足柄の地で、東海道線と小田原からの大雄山線で1時間ちょっとでたどり着く大雄山駅から更に車で10分程度の「オンリーユー」と言う温泉施設。
この地の林の中で緑に囲まれた露天風呂が何とも爽快なのだ。
温度は湯治を意識してちょっと温めの39度で、何も考えずにぼぉ〜としていると時間を忘れ、のぼせることもない何とも不思議な感覚になる。
露天風呂はちょっと温めで長時間滞在用と少し熱めの二つが並び、いずれも目の前の樹林を眺めながらの贅沢な環境。
短気の当方でも1時間は浸かり続けるという優れもので、これがリピーターであり続ける理由でもある。

女房殿はその温泉ばかりでなく、食事の準備も不要で上げ膳下げ膳こそ最大のお楽しみかも知れない。
基本は日帰り温泉施設のため宿泊できる部屋数も少なく5室程度では、こじんまりとした人数がひそやかに時を過ごす場所なのである。
それにしては平屋の山小屋風で、高い天井にゆったりした空間が、リゾート気分を満足させる。
何よりもせせこましさが感じられないのがうれしい。
ゆっくりのんびりの別天地、まさに湯治なのかもしれない。
そんな中、木々に囲まれた食堂で飲む食後のコーヒーの味は日頃の雑事を忘れさせる贅沢な時間だった。
宿泊費・一人1万円の安さから、この機とばかりお土産を大量に買い込み、満足そうにこの地を後にした女房殿には、何よりの骨休みをしたとの想いを感じる小旅行となった。

朝日の中、林に囲まれた食堂にて。。。

育ちゆく子どもたちを見て

令和2年11月9日

我が孫娘はもう小学校3年生になった。
不思議なものでこの少子化時代に1学級下の女の子ばかりが近所に4人いて、 登校時は近くに集まり、我が孫娘も合わさり、5人の集団になって楽しそうに出かけていく。
ついこの春にはちょっと不安そうに集まっていたが、ここに来て見守り役の私メに頼ることなく、自分たちでドンドン学校に向かってゆく。
そんな姿を見て子どもたちの成長の早さを実感する。
もう見守りは卒業になったのかも知れない。

見守りはその5人が登校した直後に、これも我が家から割合近い場所に住む小学校1年生が(この子たちも女の子)2人後を追うように通り過ぎる。
少し時間を於いて、今度は男の子が一人だけで前を通り過ぎる。
この子は小学1年生なのだが、まだまだ子ども子どもしていて、ちょっと寂しそうな姿に思わず頑張れと声をかけてしまう。
どう見ても元気な女の子軍団の姿を見た後で、何か弱々しい男の子を見ると、この年頃は女性上位の年代なのであろうか。

翻って当方も小学生時代は背も小さくひ弱な子どもであった。
だからこの男の子を見ていると自分自身にダブって見える。
そんな男の子の後姿が角を曲がって見えなくなるまで見守ることにしているのだが、そんな日々が心和む時間でもある。

重いランドセルもリュックに変わる

三島の柿田川にて想う

令和2年10月28日

富士山麓で名水が沸き出でる地として有名な三島の柿田川は知名度でも一番だろう。
市内の断層からの突然の大量湧き水で、あっという間に豊かな清流地帯となる。
これを見ると更なる上流からの流れ込みがあってしかるべきなのだが、降ってわいた湧水が瞬く間に川と化す風景に驚きを隠せない。

何回メかの訪問ではある、目的はその湧き水で作られたお豆腐料理を楽しみたいと箱根を超えて三島を訪れた。
ド〜ンと見える富士のお山は頂上近くにわずかに雪を頂く程度で、今一歩迫力不足。
本来ならイチョウの葉も紅葉真っ盛りのはずが、これから考えますといまいち気分が乗らないようで、なんとなくぼんやりして風景でありました。
充分なる爺ちゃんの一行は、気勢をそがれる世間の風を感じて、大騒ぎして良いものかを悩みつつ、三島大社で疫病退散のお祈りをして静かに帰途に向かったのであります。
帰りに立ち寄った箱根の甘酒茶屋では、さすが土間からのしんしんとした冷気に頬張る磯辺巻きとほうじ茶に「ああ極楽!」などと口ずさむ光景は老人ツアーの極致なのかも知れません。

秋もやっと本番となり、湘南の海辺を走り、それなりの山を乗り越えてたどり着いた三島の地はちょうど良い回遊のコースとなりました。
運転手さんお疲れ様でした。後ろの席で高イビキの方々の中で目を見開き、眠ってはならじと懸命にハンドルを漕ぐ方に生命が託されているのであります。
また、よろしく。。。。

いたるところから湧き出す地下水がすごい柿田川源流

台風一過とはならず

令和2年10月15日

恒例と言えばそれまでだが、ちょうど行楽日和が続くこの時期をめがけ台風が到来した。
10月4日ごろから沖縄の南海上で発生した台風14号は、秋台風には珍しくノロノロとした締まらない台風で、おかげで雨の日が4・5日も続くこととなる。
それだけではなく11月を思わす寒さが加わり、延々と家に閉じ込められる日々は心身ともに良くない。
この11日には八丈島沖を弱まりながら南下するという、これも誠に奇妙なコースとなった。
1週間近くの空白はゴーツゥ・トラブルの良い検討期間となり、ネットで別府7日間12万円をチェックしてみると12月の初旬にてすでに満席となり、早々に退散した。
それでも何処かに行きたいとのモヤモヤは何とも収まらず、11月12日に足柄の オンリーユーに1泊することで、とりあえず手を打ったのである。

さて、いつものじいさん方は、この14日に三浦半島に魚を食いたいと集まった。
車は夏になれば大渋滞の江ノ島をスンナリと超え、夏の名残がわずかに残る逗子海岸を軽やかに通り過ぎた。
行先は三浦半島の突端・松輪の漁港で、刺身定食が目的。
いつもはほぼ火曜日に行くことが多く、それは定休日であったため、今回は無事オープン日になったのがうれしく、念願の新鮮なお刺身を充分食することができた。
それにしても天気は安定せず、この松輪の港でお日さまが姿を現したが、ここからしばらくの日々は雨模様が続くと予報が出ている。
秋の晴天はいつになったら落ち着いてくるのだろうか。

随分遠くに行った感がある松輪の港

久しぶりの箱根で温泉に浸かる

令和2年9月30日

このコロナ騒ぎで遠出さえままならず、気持ちも晴れ晴れして湯に浸かることは何と今年の1月以来のことである。
それまでは2か月に一度と言ったペースでこの箱根・天山に出向いていたのだから随分ご無沙汰したものだ。
露天風呂でももう夏の暑さは無く、心地よい風の中での湯加減はやっぱり極楽気分だった。
平日でこの自粛気分が色濃く残る中では、数えるほどの人数しか入っていないと思っていたら、いつもの8割程度は戻っていて、半分程度のスペースで開いていた食事処は満員で30分以上は並んで待つような状態。
昼食会場で見た景色は、団体などが少なく、驚いたことにおひとりさまがことのほか多数来ていたのが印象に残る。
やはりじいさま方の集団は今でもご在宅なのだろう。

ここに来て1年の4分の3は過ぎたことになる。
なんと息詰まるような日々が続いたことか。
TVでは毎日コロナの感染者の数ばかりが報道され、ついては家に静かに居続けるようにとの脅迫観念ばかりが流される。
ここに来て、どうやらオリンピックは来年夏開催されそうで、野球も無観客から観客を入れて開催されてもきた。
少しづつではあるが日々の日常が戻りつつある。
こうして何事も無かった日々に向かっていくのであろうか。。。。
外人の観光客が皆無となった観光地は、これからも苦難の日々が続く。
オリンピックに向けて設備投資を行ったその直後のことで、天国から地獄に 突き落とされたホテルや旅館がどこまで命運を保ち続けられるのかが事のほか心配でもある。
いずれにしても元に戻るには3〜5年はかかると言われてもいる。
まだまだ辛抱が要求される日々なのである。

お久しぶり、天山の湯

やはり異常な夏だった

令和2年9月16日

歳のせいとも思っていたが、この夏は家に閉じこもり冷房ガンガンで外出を出来るだけ少なくして過ごすことが多かった。
それは8月に入って毎日35度近くの猛暑日が連日続く日々だったからである。
これだけなら昨今の夏はいつもそうなのだが、鎌倉のお仲間との会話でもことのほか厳しい暑さだったと語る人ばかり。
そしてTVでも北半球の夏の平均気温が今までで最高を更新し、更に3度近く上がったと知らされる。

さすがこの二・三日は朝夕20度近くに落ち着き、すっかり秋が感じられるようになった。
折しも友人お誘いもあり、久々に丹沢の宮ケ瀬湖を訪れた。
コロナのせいもあり、まだ行楽地らしい賑わいは感じられないが、ぼちぼちの人出と言えようか。。。
湖畔の桜の木がかすかに色づきかけていて、夏が静かに終わりつつあることを実感した。
次は箱根の温泉にでも行こうかと話し合ったが、このような話が出来ることもコロナ騒ぎの落ち着きと気候が良くなってきた結果なのであろう。
夕日の落ちる時間が目に見えて早くなり、6時には薄暗くなってきた。
まだまだ手放しでは遠くに行ける環境ではなく、お年寄りは“ともかくご注意”と親切にご案内が姦しいのであるが、元気をなくしていては残り少ない日々に後悔さえ残る。
秋本番で静かな日々が少しずつ出かける所用が増えてきた。
それは私にとって良いことなのであろう。

再び咲き出したトレニアの花

秋近づく

令和2年8月31日

8月28日に長期政権を続けてきた安倍首相が突然辞意を表明した。
持病の大腸の病状が悪化したと説明があった。
それにしても2度に渡り病気で政権を投げ出すとは当人も痛恨の極みであろう。
日本の政治の世界では非難されることばかりで、マスコミもその先鋒でもあるが、大国と渡り合って日本の存在を大きくアピールできた点では素晴らしい指導力を発揮してきたと高く評価したい。
折しもアメリカでは次期大統領選が火花を散らし始めた。あまりにも灰汁の強いトランプさんだが、その頑固さが保守系の白人からは高く評価される。
失言を気にも留めぬ姿勢は日本で言えば麻生副総理の言動であるが、阿部首相の一言・一言は長く攻め続けられた末の磨かれた言葉が印象に残った。
日本では政治家が失言をせぬよう神経をすり減らすとは言え、ロシアでは政敵を毒殺されるとの報道を聞き、中国ではいよいよ香港を自国化すべく有無を言わさぬ強権発揮をし出した現実を見るにつけ、自由に意見を言うことが出来る日本の環境を何があっても守っていかなければならない。

この8月末期の時期でも外気は35度といたたまれない温度だが、ふと空を見ると秋高く透明な空気に入れ変わって来た。
夜は虫の声と輝くお月さんが気持ちを静めてくれる。
こうして時代が変わっていくのだろう。
さあ、またひと頑張りだと心に誓った。

奈良・春日大社拝殿
(この夏はここ以外外出もままなりませんでした)

お盆が終わって

令和2年8月17日

今日から孫娘が小学校に登校となった。
コロナ騒ぎで例年より2週間は早い開始となり真夏の授業となったが、それでも学校に行けば冷房が完備しているから良い時代になったものだ。
登校時間になり、近所の子どもたちを見守っていると、頭上を赤とんぼが飛び回っている。
そうか、熱いといっても秋の気配がひたひたと忍び寄ってきているのであろうか。
今年は外出自粛ばかりが報道され、お盆は例年と違う静かな夏だった。
当方は自宅のパソコンにしがみ付き、宿題のまちぢから協議会のホームページの更新に明け暮れた。
また、新たに勉強を始めたホームページのソフト・ワードプレスの読み返しも始めた。つまり結構忙しかったのである。

この夏はラジオを聴く機会が多く、“高橋源一郎と読む戦争の向こう側2020”を聴きながら、戦後引揚者の体験談を語る本の中で、
朝鮮から日本海を渡って 戻ってきた人たちはそれぞれグループ(団)を組みながら100万に及ぶ人たちが祖国・日本を目指したのであるが、
団のトップが頭の固い人(例として教師)だと生き残る割合が低かったと記されている。
そんな話を聞きながら、今も昔も変わらず、物事を進めるには起きた現実を冷静に判断できる柔軟な頭が必要との指摘を改めて心に留めた。

それが今年の夏の大きな収穫であった。

京都・北野天満宮での七夕祭り
(京都の七夕は8月15日なのでした)

思いついて京都へ(5)

令和2年8月1日

この時期は多くを歩き回ることもせず、一つだけのポイントを狙うこととした。
それが太秦・広隆寺の弥勒菩薩さまのお姿拝見である。
と言っても貧乏性の私メは、折角だから見なければ損との気持ちが絶ちがたく、まずはホテルからバスが傍まで行く北野天満宮に向かうこととした。
ここは何遍も通った豪華絢爛の国宝建築物なのである。
どうだ参ったかの声さえ聞こえる本殿は、最近更なる修復が済んだのであろうか、檜皮葺の屋根がひと際美しく思える。
残念ながら我が関東地区とは別格の品格があり、天神様総元締めの御社はただただすごいなと羨ましくも感じました。
そして、そこから10分弱の快慶の仏像で有名な千本釈迦堂へ向かったのであります。
この辺りは西陣の近くで昔からの町家が多くあり、こんな少しのぶらぶら歩きでも楽しめるのが京都の良さですね。
ここ千本釈迦堂には東京上野の国立博物館で2年前に見た快慶作の十大弟子像そして慶派の六観音像が宝物館にドンと並んでいました。
しかし、美術展では各々の仏像に最適な照明が当てられ、最大限に美しく見られるような工夫がされるに対し、人の少なさで自由気ままに見えるとはいえ、陰影の少ない展示では昔の感激度には達しなかったのは致し方ないのかもしれない。

さて、目的の太秦の広隆寺は本当に久しぶりだが、嵐電の駅から見えるこのお寺の山門はおそらく30年ぶり。
ネットで見学には600円で弥勒菩薩以外見るものがないのだから高すぎると書かれていたが、そんな戯言には耳も傾けず、なんと800円の入館料でした。
そして、期待して中に入ってみると暗いこと・暗いことかすかに居並ぶ仏像のお姿が影絵のように見える。
中央にある国宝の弥勒菩薩のお姿は、その前に祭壇が作られ昔より離れてしか見えず、それでいてかなり暗いのだから、よほど気を入れて眺めないとお顔の表情などうかがい知れない。
昔見た弥勒菩薩のお姿は天窓より自然光が入り、たまたま雲がかかり日差しが雲の形に添って光が右から左に移っていくにつれ、菩薩様のお姿が一瞬浮き上がるように見えた。
「へえ〜、自然の光の変化ってこんなに劇的に仏像を見せるのだ」と感激しきり。
そのせいでここでの(不思議な)体験が強く心に残っていたのです。

それにしても、遠目からでも独特のお姿は優雅でもあり、負け惜しみかもしれないが、こんな影絵のようなお姿も神々しいのかもしれないと自分に言い聞かし静かにこのお寺を後にした。
それにしても800円は怒っても怒り切れない。

広隆寺・弥勒菩薩像

思いついて京都へ(4)

令和2年7月31日

この暑い中、食事にも充分気を付けないとどんな事態にもなるかも知れないと気がかりである。
京都へ来たら、おばんざいのような胃にも優しい食事を食べたいものと、京都駅構内にある漬物で有名な“土井”に入り、お茶づけに鰆をつけて夕食代わりとした。
そこには数種類の漬物が付き、お茶漬けにはちょっと大きめのあられのようなものが乗っていた。
それにしても大ぶりのごはんの量で、この歳では平らげるほど食べることが出来ないが、それでも十分な京茶漬けに豪華さが感じられた。
代金は1500円程度で、これにも大満足でした。

次の朝はともかく簡単なトーストとコーヒー付きのモーニングが食べたいとホテルを出る。
すると10メートルも行かないうちにそのお店に行きあたった。
喫茶店の風情でもなく普通のパン屋さんのように店内には椅子とテーブルが並んでいるだけの観光客目当てのお店なのであろう。
そこで出てきたモーニングは我が家のパンと同じく、標準的なトースト1枚に、 我が家でも食べるハムが1枚と付け足しにこれもスーパーで売っているポテトサラダがちょっと乗っかり、アイスコーヒーが出てきた。
どう見ても喫茶店の品格など伺われず、友人のお宅の朝食に呼ばれた感覚。
そして、モーニングの代金は750円となっていた。
ご主人の話ではここでもう7〜8年この場所で商売させていただいていますと話すのだが、好調な観光事情に乗ってそれなりの商売が続けられたのが不思議で、このコロナ騒ぎで観光客などもしばらく通らないのだから少しは目が覚めのであろう。
時代の流れとは怖いものである。
ある意味でバブルの最盛期であった京都の観光業は、これを機に足元から見直されることが否応なしにやってくるのであろう。
それは悪いことでは無いように思う。

コロナさんご成仏ください

思いついて京都へ(3)

令和2年7月31日

前日の早寝の結果、次の日は早く目覚め、それならと奈良へ行くこととした。
8時半には近鉄奈良駅に付き、さて早めの興福寺参拝と考えたが、コロナ騒ぎはここでも拝観開始が1時間遅くなり10時からと案内が出ている。
報道で知ってはいたが、観光客の姿は数えるほどしか見当たらず、鹿さんの元気なお姿ばかりをお見かけする。
それでは春日大社の方に足を進めると普段足を止めることも少ない奈良国立博物館にて“なら仏像館”が9時半より開館すると知った。
吸い込まれるように館内に入っていくと、有るわ有るわ近隣の由緒正しい仏さまが100体以上は所狭しと並んでいた。
ここまで似たような仏像を比較できる環境では、やはり重要文化財に指定されているものと、そこまで行かないものとでは見た目にも差が判るように思えるのだから不思議なものだ。
一つだけ印象に残った仏像のお姿と言えば、兵庫・浄土寺の快慶さんの作られた観音様でやっぱり他から一歩抜き出ている。

この日も入場者は数人で間隔を開けてみるようにと係の方が見守っているのだが、人気の無い館内ではむなしくもありました。
今回の旅は仏像のお姿を見歩くのが目的だったから、ここだけ見るだけでも目的は達成したようなもの。
年寄りにはちょっと距離のある春日大社にたどり着き、500円を払って入った本殿はそれでも“ちょっとだけよ”のお姿拝見でありました。
お昼も過ぎ、疲れも感じたのでバスにて興福寺に戻ると、これもコロナ騒ぎで見たかった中金堂は拝観中止、南円堂も扉が閉ざされた状態で、これで気力喪失となり、折よく乗車できた京都行特急電車で奈良を後にした。
京都に向かう車内から木津川を渡る近辺で猛烈な雷雨に襲われ、電車は自動洗車の状態になったのですが、これが近畿地方の梅雨明けの印でもありました。

お腹を空かせた鹿さんでしょうか

思いついて京都へ(2)

令和2年7月30日

京都国立博物館のお隣は三十三間堂なので、2時前には美術展を終わり、これならしばし体力は持ちそうと安心して足を運ぶ。
この時期団体客は皆無で、出会った人は10名以下と閑散とした堂内を見て回る。
仏像1000体と圧倒される光景はいつになっても驚かされるのだが、改めて質の高い文化財の宝庫・京都の凄さがこのお堂に象徴されるのであろう。

ここから目と鼻の先にある養源院に行ったのは俵屋宗達の板絵に対面したかったからである。
今でこそそれなりに有名となったが、有名寺院の傍にある小さなお寺に行く人も少なかった。
もう40年近くも前であろうか、住職さんがとても律儀に説明してくれたのが印象に残っていた。
江戸時代の絵画とは思えない2匹のゾウの板絵は入り口のすぐ目の前に堂々と飾られていた。
そして堂内にはゾウに対峙するように唐獅子の板絵も懐かしく拝観できる。
受け付けの女性の方に昔伺ったときの話をしたら、それは私の父の時でしょうかとお答えされた。
雑談の中でこれからこの養源院の裏手にある智積院に行きたいのだが話すと、息子さんがわざわざ裏木戸を開けて案内までされた。

智積院は長谷川等伯一門の絢爛たる襖絵が有名で、上野の国立博物館での特別展以来の10年ぶりの対面でもあった。
その障壁画はお寺の宝物館に揃って飾られていたが、文化財保護に観点から照明が低く抑えられていて、残念ながら桃山時代の絢爛豪華さは感じられなかった。
正直美術展にて引き立つような照明がなされない昔の障壁画はただただ古びた 絵画としか思えないことに残念な気がした。 (昔はもう少し照明がきちんとされていたと思う)
このお寺の見どころは東山からの傾斜をうまく使った庭園で、ツツジなどの低い木々を並べた佇まいには昔から高い評価が与えられている。
寺院の縁側とその奥の畳敷きの広間でしばしボォ〜とその庭を眺めていた。
しばし時間がたったころ、同じように寝転んでいた二人の若者にふと声をかけ、何を想うかとはなしを切り出した。
するとその若者は大学卒業を控え、就職先も一応内定していたのだが果たしてこのまま世の中に出て行って良いものかを考え直して、今しばし目的の無い旅をしていると話すのだった。
思わず先の生き方など自分で決められるものではなく、また望みが叶えられることもある意味偶然のなせる業かも知れないと自身の経験を話した。
そして、最後にこれから多くの人の話す話を全部正しいと思いながら、聞き続けることを願うと締めてその場を後にした。
良いことをお聴きしましたと語るこの若者たちが、何らかのヒントを得られるのであればうれしい限りである。

智積院の庭園にて

思いついて京都へ(1)

令和2年7月30日

ふとネットにて京都国立博物館で開館中の“西国三十三所の信仰と至宝”を知り、 外出の自粛さえ騒がれる中、どうしても行きたくなった。
それは対象寺院の御仏を見てみたいと思ったからである。
この時期新幹線はガラガラで京都のホテルさえより取り見どりの状況だから、ネットでの予約で京都御所の近くを何と2泊で9800円と夢のような価格でゲットした。
7月30日の朝の新幹線で京都駅には10時半近く、人通りさえ少ない京都駅から三十三間堂まではバスにて11時を過ぎたころには入場した。
それなりの美術展なのだから入口にしばらく並ぶ覚悟はしていたのだが、平日とは言えポツポツと見学者が入る程度。
コロナ騒ぎの影響はここでも大きかったのです。
初めて入った新館は3階建てで、寺宝と言われるものは古文書の類が数多く出展されていた。
思ったより来歴や寺院の成り立ちを示す資料が多いせいで、3階から2階を回り切ったときにはちょっとお疲れ気味で、見たかった御仏の展示にたどり着いた時点でふぅ〜と言った案配でした。
でも普段なかなか見ることの少ない仏像類のお姿に感激したのは大満足。
展示の数々を見終わってのお休み場所に向かおうと外に出たら雨粒の見えそうな突然の雷雨で、大慌てで入口横の喫茶店に飛び込んだのです。
昼食はボリウム満点のスパゲッティーを食べながら、ガラス越しにたたきつける大雨には梅雨明けとはなっていないこの京都の状況を思い知った洗礼と言うことでしょうね。

この展覧会のキャッチコピーが西国三十三ヶ所を回り歩いたら1か月、それをこの京都では1日で見て回れると書かれていたのですが、残念ながら体力が衰えた今、そのエッセンスでも感じられる寺宝の数々はとても豊かな気分になりました。

西国三十三所の信仰と至宝展

梅雨明けが待ち遠しい

令和2年7月26日

梅雨明けが待ち遠しい。
今年の梅雨は近年まれにみる雨模様が続く。
6月の上旬以降連日の雨模様でこの7月の26日を過ぎても夏の来る気配さえない。
今年は本来ならば世紀の東京オリンピックが開催されるための4連休になったはずが、コロナ騒ぎの第2波が間違いなく押し寄せつつあり、連日外出自粛報道が心を不安に導いていく。
お天道様が顔を出さない薄暗い日が続く中、高齢者は外出をしないようにとご指導が叫ばれるのでは、気持ちもますます落ち込むばかりである。

夏の透き通った青空の下、気持ちも爽やかに自由に出かけ回ることなど、夢物語となった。
いつもならふと軽井沢に行こうとか、北海道を回ってみたいとか、うきうきした気分が心をよぎるのだが、今年はそんなことをしたらコロナ菌をばらまくことになるのだから、お願いだから観光はご遠慮いただきたいと不思議な天の声が響く。
日本全国コロナの雲が覆い尽くし、コロナで死ぬか、食べられなくなって死ぬかの選択さえ、身近に迫りつつある。
間違っても旅行カバンをぶら下げてウロウロすることは世間が許さないであろう。
そんな中、自宅前の路地で近所のおんなの子ばかりが元気に飛び回る姿を見るのがことのほか楽しい。
その中では我が家の孫娘が先頭を切って仕切っているのだ。
小3の夏はこのように過ぎ去るのであろうか。
これも我が家にとっては良き日々なのかもしれない。

我が家のぎぼしも雨模様

フランスの色使い

令和2年6月29日

2013年3月フランスの南部ボルドーを起点に、南東部の小さな村々を回るちょっとマニアックなツアーに参加した。
二日目は、定番ボルドー近郊のワイナリーを見学したあと、古い街並みが今でもそのまま残っているというサルラという小さな村に移動。
翌朝は折しも日曜で街の真ん中にある広場では朝市が始まり野菜やチーズ・ソーセージ類がテントにて埋め尽くされ、おじさんやおばさんが続々と買い出しに出かけて来る風景はヨーロッパならではの光景であろうか。
この場所は今すぐでも中世に戻って映画の撮影が出来そうな時代がかった街並みがそのまま残っているから、その時代に紛れ込んだようにも感じて思わずうれしくなってしまう。

少し離れた場所にもう一つ別の日用品類を揃えた露天が並んでいて、そのひとつには様々なテーブルクロスなどがひと際目立って見えた。
そうだ、これがフランスの色使いなんだと思わず立ち止まる。
赤・青・緑の3原色は純度を少し落とし、赤ならわずかにブドー色を追加したような微妙な色遣いとなっている。
また、緑も若葉の色を追加した淡い色彩が多く使われている。
そして何とも愛らしい淡いピンクの色使いがいかにもフランスらしい。
日本の和服にも例えば萌黄色のような中間色は使われているが、日本の色彩からもう少し渋みを抜くとフランス人の好みになるのであろうか。
色彩豊かなそんなお店を眺めながらぶらぶら歩き回っていると、今フランスに来ているという実感がじわじわと沸き上がってきたのでした。

サルラの朝市にて

サルラで買った孫娘の衣装入れ

駅・空港ピアノが最高です

令和2年6月19日

TV番組もつまらなくなった。
それは我が老人相手の番組が世の中の主流では無いからなのか。
それともなんとも軽薄さがつまらないのかは良く判らない。
そんな中、世界中の鉄道駅や空港に1台のピアノを置いて誰でも自由に弾くことが出来るようにし、通りかかった人がたまたま演奏したものを編集した番組がとても印象に残った。(NHK・BS番組)

そこではピアノに親しむ文化が定着しているヨーロッパでの演奏が数多く放映されているのだが、通行人があわただしく行き交うホームへの一角で気ままに楽しそうなピアノを弾く姿がことのほか印象深い。
どちらかと言うとストリート・ミュージシャンのような気軽で、演奏会場にて聞き入る聴衆の前でキッチリ・緊張感が漂った演奏とは別格な自由さが聞く方も楽な気持ちとなる。
それぞれの人生を髣髴とさせるおじ様、おばさま方の懐かしい曲もあるし、 地元で教えていると語る先生のクラッシックもやはりうまい。
番組では演奏された方の簡単なプロフィールと演奏して時の気持ちを紹介するのだが、千差万別のコメントにはこちらも聞いていて楽しい。
筋書きに沿った番組作りも大事なのだろうが、演奏者の個性をそのまま伝えるドキュメントこそ見る側を感銘させる力があることをこの番組は物語っているように思う。
これらの演奏を聴いていると、私も少しはピアノが弾けたらとうらやましく思う。

アムステルダム駅構内

写真っていいな!!!

令和2年6月13日

我が女房の妹が亡くなって7年も過ぎた。
長く我々夫婦で出かける海外旅行にも同行してくれた。
年1度の大きなイベントは彼女も楽しみにしていて、特にスイスへの同行は印象深い。
気ままな独り身ではあったが、自然が好きで野に咲く草花の写真を好んで撮っていた。
デジカメとはフィルムと違い、撮影枚数など気にする必要もないから気に入ったらバチバチとシャッターを押せば数打ちゃ当たるの論理で好きなだけ撮れる。
そしてその保存はしっかりCD−ROMに名前を振って保存されていた。
几帳面な彼女の性格が垣間見れる。

ここに来て当方の終活の一環かも知れないが、そのCD−ROMを更に整理することとした。
亡くなった後、アパートにあったアルバムなど共に我が家に大切に持っていたのであるが、我が家の大掃除の中で第2段階となったのであった。
と言っても処理は簡単で我が家のハードディスクにデータを転送するだけで、完全保管は変わらないのだ。

そのため、今まで一度も保管されていた画像など見たことも無い、彼女の撮影画像を初めて見ることとなった。
7年経って初めて見る彼女のその時の気持ち・息吹きが蘇ってくる。
カメラはそんな高級機種でもないから、ある意味見たまま感じたままなのであろう。
でも、やっぱりうまいと素直に感心する。
そしてそんな花への愛情が画面は物語っているようだ。
今でも彼女が傍にいて、「ねえ、綺麗でしょう」と同意を求めているようにさえ感じられるのだ。
7年の間を経て、彼女が傍に現れたようにも思う。

彼女の撮影でとてもバラが好きだった

いよいよ梅雨入りが迫る

令和2年6月10日

天気予報によれば、本日6月10日の夜から雨の続く日が予想されると伝えられる。
今は朝のすっきりした青空で気持ちが良い。そして吹き渡る風も爽やかに感じるのだが、明日からはこうはいかないと覚悟する。
我が部屋から眺める杏の木も大きく茂り軽井沢気分で、ゆったりした充実感さえ感じるのだ。
孫娘の小学校も再開し、娘も自宅での在宅勤務もすっかり慣れた。
これぞ、新たなるコロナ対応の日常の始まりであろうか。
私と言えば特に急を要することもなく、勝手気ままな日々が続く。
それぞ、爺ちゃんのごく普通の生活なのかもしれない。
好きなパン屋に出向き、あれこれ菓子パンを探し回り、ちょっと離れた生協に旨いものは無いかと出向く。
そんなことでさえ雨の日が多くなれば出かけることさえ、躊躇してしまうのだろう。
陰鬱なる梅雨の季節を迎え、さてさてどのような閉じこもり状態となるのであろうか。

孫娘が「お爺ちゃんカタツムリだよ」とそれはそれは小さい生まれたてを持ってきた。
梅雨のお知らせなのだろうか、なにかうれしい。。。

咲き出した自宅のノウゼンカズラ

コロナ騒ぎの一段落を受けて

令和2年5月28日

今まで生きてきた中での最大事件がコロナ騒ぎであろう。
ことによったら今回こそ人類全体の破滅とも思える強烈な毒性を持つ疫病が発生したからで、急激な患者発生により病院のひっ迫が騒がれ、そして突然健康な体だったと思わせる志村けんさんの死で身につまされた。
世界では死者10万人を超え、日本では感染者16700人、死者900人に迫る。
誰が、いつ病魔に襲われるか知れない恐怖は、海外で行われ続ける外出自粛との対抗手段を行わなければならないひっ迫感が日本全体を覆った。
結局、ヨーロッパで行われた罰則付きの外出制限活動には至らなかったが、人の流れを8割減少させよ!との大報道を、それなりにすんなり受け入れる国民性に世界の関心が寄せられた。
5月連休前には非常事態宣言が出され、毎日TVの前に釘付けとなり地域の患者の推移を見守り続ける。
その結果4月下旬をピークにして患者の発生は下がり続けた。
そして5月の下旬には全国でも日々数十名にまで減少することとなって、非常事態宣言へ解除された。
これはだれしも想定外の収束の速さである。(大丈夫であろうか)
これが終わりであることを祈るような気持ちで見守る我々ではあるが、日本では(今現在)パンデミックは起こらなかった。

6月からは日常の生活に徐々になってくるようだが、コロナ菌がなくなるわけではなく予防策を施しながらの日々でもある。
不要不急の活動自粛とはいかなるものを対象にすべきなのか、そもそもそんなものがあるのかと自らの活動に疑問を持ちながらの数か月であった。
おかげで我が家の庭は間違いなく綺麗にはなった。
それにしてもエンジンのかからない毎日ではある。

辻堂駅西口駅前の松葉菊

アルフィの第九を聴く

令和2年5月19日

家に閉じこもる状況が続く中、最近はパソコンで音楽を視聴する機会が増えた。
ネットサーフィンで様々な音楽を楽しむ中、改めてポップスの人気バンド・アルフィに注目。
私はと言えばこのメンバーが続けているNHKのFM番組“THE ALFEE 終わらない夢”と言う長寿番組を聞き続けている隠れ愛聴者なのであった。

メンバーは皆一流のシンガーでありながら、トークは学生時代の自由さ、日頃の奔放さを何の制約もなく、雑談として番組が進行する。
本来、ここまでの一流芸能人ならば、それなりの品位やカリスマ性を保って、ちょっと雲の上の人であるべきであるが、出てくる話は皆自由奔放な生き方が日常でも続く、通常のおじさんたちのメンバーであることが軽妙に語られる。
特に好きなのが坂崎幸之助さんで、下町の八百屋のおじさんといった軽妙さが際立つが、超一流のギター演奏の名手なのであります。
どう見てもへちゃめちゃな3人がしょうがないから音楽でもやっか!と成り行き人生をドキュメント番組形式で見せてくれた情熱大陸(1999年放映)をこれもユーチューブで見ながら、この番組の最後にベルリンで演奏したベートーベンの第九交響曲・歓喜の歌をアルフィーが演奏するシーンに言い知れぬ感慨を覚えた。

ONとOFFの使い分け、それが人生の達人なのかも知れない。
無理をしない、そして好きなことを極める。
その場その場でプレッシャーを源泉にしながら、前に進み続けるしなやかさが 彼らたちをもうすぐ50年続けられる知恵なのであろう。
ベルリンでの演奏は彼らたち自身の心の奥から湧き出た自分自身への歓喜の歌なのであった。

素敵なALFEE

アルバム整理もくたくた

令和2年5月11日

保存された写真の中で最大のボリウムは20年以上続いた海外旅行の記録。
1990年のロンドン・パリ・ローマ周遊から始まった膨大な記録はその1枚1枚に思い出深い記憶が残っている。

昔の写真アルバムは豪華本スタイルの立派なお姿で、これぞ家宝ですとばかりの分厚い用紙に、見せていただくとのいで立ちも凄まじく、これが数冊以上まとまったものなら重さと大きさに置き場がなく困り切った。
その後はA4サイズに6枚を綺麗に揃えられ、台紙も薄くなって5冊が箱に収まって随分小型になった。(2代目)
更にはクリアーファイル方式となって、写真の大きさとほぼ同じ大きさまでコンパクトの仕様に変わってきた。(3代目)
圧倒的な分量を数次に渡りチェンジしてきたが、それでも棚のスペースは満杯状態が変わらず、ついにスキャナーを使ってデジタル化を進め、限られた写真だけをアルバムに残し、その他は処分することとした。

こうなったとしても海外旅行記は20冊近くとしかならず、最後の断捨離とそれさえも破棄する決断をした。
改めて見返してみると撮影者が当方なのだから、その現場・現場が鮮やかに蘇ってくる。だからどの1枚も捨てる気持ちが萎えてしまう。
それでもと処分を続けると、アルバム1冊を廃棄するたびにぐったりと疲れてしまう日々が続く。
さてさて、全部がきれいさっぱりする日は来るのだろうか。

初めての海外ツアー

何回も行ったスイスツアー

we are the worldを聴く

令和2年5月7日

ユーチューブの画像で懐かしいwe are the worldを見た。
あれは1985年録音とあるから、今から35年も前の話である。
そこには存在感あるマイケルジャクソンも若かりし姿で参加していて、そういえばマイケルが亡くなって11年も過ぎたことになる。
アメリカの大物ミュージシャンが総動員して一つの曲を合唱するのだが、ライオネル・リッチー、スティヴィー・ワンダー、ハリー・ベラフォンテ、シンディ・ローパー、ポール・サイモンなど45名と音楽界しても画期的な録音なのであろう。
合唱と言うものは全員の声を(忠実に)揃えることが基本だとある方に聞いたことあるが、ここではそれぞれワンフレーズずつのパーツにかかわらず、各人の個性が際立ちその上で全体の曲構成に破綻が無い。
プロの歌手と言うのはこのようなことを言うのであろうか、全体の調和が言わずもがなで判り合える仲間たちの集まりであった。
7分を過ぎる長時間の演奏は皆の声がだんだん重なり合うように大きくなり、全員の息が合って来るにつけ、高揚感が更に高まっていく。
そしてそれを聞きながらみんな同じ人間なんだと感激が胸に迫る。
音楽っていいな!とひとり感動の時間を過ごす。
幸せな時とはこんなことなんだろうな。。。。

LPジャケット

スタジオ録音風景

田植え始まる

令和2年5月2日

5月のゴールデンウイークが始まる時期にこの茅ヶ崎の赤羽根地区では田植えが始まった。
いよいよ本格的な農作業がスタートとなり、この現場では田植え前に集まった親戚縁者で酒が酌み交わされていた。
そうだろうな、この時こそ心が高揚する「さあ、始まるぞ」との心境であろうか。
1週間前は見渡す限りの乾いた土色で覆われていた農地が、数日前に水が入れられ、黒々とした水田に変節していった。
折しも、近くで飼われているのであろうか、カモちゃんが元気に動き回っている。
活躍の時機到来との歓びであろう。
我が家族が茅ヶ崎に引っ越してきた頃は新興宅地のせいで、周りはまだまだ田んぼばかりで春のこの時期にはレンゲが一面に咲き誇っていた。
それから半世紀たった今、田んぼや畑が見る見る間に住宅ばかりになり、特に田んぼは壊滅的な減少で、農業用水の確保がますます難しくなった。
そんな中、見渡す田んぼが続く赤羽根の地は茅ヶ崎でも珍しい風景になった。
こんな時期だからこそ、心和ませる自然相手の農作業を見ていると、ゆったりとした気持ちになるのは何ともうれしい。
そしてしばらく経ったらカエルの鳴き声が聞こえるようにもなるのだろう。

祝い酒で作業開始、田植え始まる

原田泰治の世界へ

令和2年4月28日

毎日行き詰るようなコロナウイルスの話題で終日ひっ迫感が漂う。
そしてそれが原因の悪者探しのような非難合戦も収まらない。
日本ではこれでも世界に比べれば上々の出来なんですと、慰めにも似た解説も闊歩し、ギスギスしたマスコミからは明るい話題の素さえ出てはこない。

そんな中でも引っ張り出した本は1982年から読売新聞の日曜版にカラー全面で載った原田泰治さんの作品集で、その何とも言えないほのぼのとした画面からは、そのころに残っていた日本の田舎の光景が懐かしく思い出させる。
あの頃どこにでもあった自然の風景を絵本のような細密画で書かれたものばかりで、数年後東京のデパートで開かれた作品展に出かけた際、夢中で買った記憶がある。
その絵には対となって彼らしい感想文が書かれていて、それがまたなんとも優しい文面となっている。
諏訪の田舎で泥遊びをしながら育った環境から、地方地方のじいちゃん・ばあちゃんの温まる話が画と一体になって郷愁を呼び起こす。

1982年と言えば現役のサラリーマン時代で、イケイケドンの高度成長期真っ最中。
そんな中、京都・大原のレンゲ畑とか東北の弥次郎こけしの里など、子供の頃を思い出させる光景に心なごませる時を過ごした思い出がある。
このコロナウイルス騒ぎが収まった後には、改めて第1次産業の農業や漁業など自然の豊かさが大事と揺り戻しが来ることだろう。
そして、物を作る大事さがやっぱり生きることの基本だと思い知るようになるかもしれない。
溢れる情報、限りないサービス合戦がバブルのように消えて、食って生きられればそれで十分との昔の時代に立ち返るようにさえ思うのだが。。。。

なんとも懐かしい日本の風景

飲む、打つ、買う、の世界感

令和2年4月18日

コロナウイルス対応の外出自粛が全国規模で広がる中、そんな姿勢をあざ笑うかのように、パチンコ店に殺到する光景が世間の非難を浴びている。
首都圏の東京、埼玉、神奈川、千葉では特に夜の繁華街などやカラオケ店、スナックなどに自粛が要請され、そこでもパチンコ店の対応が話題になった。
賛否についてはマスコミも含めどこか腰が引くコメントが多く、関係する国会議員さんも知らぬ存ぜぬの回答だったとか。
それでも何とか埼玉などでは一時閉店に漕ぎつけたとのことだが、さて、態度のはっきりしない川向こうの茨城や栃木が“何か文句がありますか”と堂々と開店。
そこに車で東京から駆け付ける姿が多くなった住民から心配の声が出ていると報道される。

勝ち負けの快感は理屈ではなく、人間の根本的な欲望に根差す病魔なのであろう。心は止めても体が自然に向いて行ってしまうものかも知れない。
女房を質に入れてもバクチに駆け付けるというのは、しょせん人間の弱さなので、何物にも代えがたい蜜の味のように思える。
“止めてくれるなおっかさん”の寂しい現実の前に、情けないし良くないとは判っていても事荒立てるだけの感情が萎えてしまう。
「困った方々ですこと」と見て見ぬふりをするのが、大人の振る舞いということなのであろうか。
国会では国民一人当たり、10万円の現金支給が決まった。
いただいたあぶく銭をフトコロに入れて、即座パチンコ店に駆け付ける方々が目に浮かぶ。
本当に情けない。。。。

自宅近くの八重桜が満開

時の流れに身をまかせ

令和2年4月14日

連日コロナウイルス騒ぎで日本沈没のような形相。
外出禁止、営業自粛の連鎖が止まるようには思えず、もっと外へ出るな、買い物の人数さえ減らせと終日TVはがなり立てる。
患者の増加は日に日に増えて今や8000名、そして死者は200名にもうすぐ到達すると言われるのだが、幸い自宅近くでは都会の密集地とは違い、近くのスーパーも通常の様子と変わらないのは、こっちがピンぼけなのであろうか。
外出もままならぬ我が自宅では春になり雑草が茂り出したと、この際庭をひっくり返して天日干しが続く。おかげでしばらくは雑草さえ生えぬ美形の庭が楽しめるのであろうか。
今に見ておれ、患者急増でニューヨークのように医療崩壊が来るぞと楽観視している日本に警告を発する世界の人々が多い中、日々苦悩し続ける日本の都知事・県知事の姿を見ながら、ああしろこうしろと文句ばかりのワイドショウが人気を博す。

こうやって日々が過ぎていくのであるが、間違いなく世界の経済状況は悪化し、 失業者が爆発的に増え、中小の商店は潰れ、経営環境の悪化は目に見えている。
それでも死ぬより良いでしょうとのその場しのぎが続く先に、明るい兆しが見えない今、まあどうにかなるさとしか思わざるを得ないのが現状。
日頃の信心もさぼり勝ちな中、せめて神頼みをお願いすべきなのかも知れない。

ピンク色のつぼみが愛らしい姫リンゴの花
TOPページへ

地域の活動はまったく機能不全となってしまった

令和2年4月4日

ここに来てコロナ騒ぎは地域の再度にわたる公共施設閉鎖の影響を受け、10名以上での会合自粛の影響もあり、相談事ができる環境ではなくなった。
昨日のまちぢから協議会幹事会でも、会長は「こんな事ならそもそもまちぢから協議会そのものの存在自体が必要なのかとも問われる」と憤懣やり方なき心情を話していられた。
自治会行事の休止、イベントの自粛は死ぬより良いでしょうと問われるが、地域全体のパワーを確実に減少させることにはなるのだろう。
しかもその数か月ではコロナ騒ぎの終結が見通せない中、頑張ってきた関係者の気持ちも次第に関心が薄れていくことは否定できず、ボランティアにてすべてが進行される運営は、ことによると中身がスカスカになることが予想される。

さて、どうすべきかは答えが無いのだが、今まで駆け出してばかりで、まさに馬車馬操業を見直す良い時期ではあると思える。
でも、放心状態になる危険も十分ある。その方が楽だからだ。
先の見えない境遇での心の持ち方は本当に難しい。

我が家の名物・ハナニラの群落
TOPページへ

志村けんさんがコロナウイルスで亡くなった

令和2年3月30日

身近にヨーロッパで起こったような大量死が近づいてきた感がある。
1350年頃イタリア・フィレンツェでは街の半分の人口がペストで死亡したという。
この冬中国大陸での蔓延が話題になり、日本でのクルーズ船での発症騒ぎでその2波が終わりかけた段階で、日本の静かなる発症状況をあざ笑うかのように、アメリカやヨーロッパは都市封鎖と何ともすさまじい政治判断まで出てきた。
日本も外出自粛でも困り切った観光地や大規模イベントの開催中止でプロダクションも瀕死の状態。
でも、死ぬより良いでしょうと言われればその通りなのだが、こんな生易しい状況では済まされないのではないかとの恐怖感が日に日に強くなってきた。
もし、アメリカのようにならないかもしれないとしたら、それは日本人の日頃の “綺麗好き”の賜物ではないだろうか。フロもトイレも室内も神経質すぎるほど掃除が行き届いている。大体靴のままベッドに昇るなど正気の沙汰とは思えない。だからそんなご褒美であってほしいな。

志村けんさんというごく普通のおじさんがコロナウイルスで亡くなったというのは、日本も対岸の火事では居られないと言うことを象徴的に物語る出来事だからだろう。
また、誰でもどこででも感染は起こり得ることを如実に示してくれた。
さあ、覚悟を決めてこの難関を乗り越えなければならない。
なにがあっても、死ぬより良いのだから。。。。

天国に居る志村さんへありがとうございました
TOPページへ

フィレンツェ・ルネッサンスを想う

令和2年3月28日

世の中はコロナウイルス騒ぎで大騒ぎ、おとなしく家の中で静かにしているようにとのお達し。
それではと病院介護体制崩壊が叫ばれているイタリアの中のフィレンツェの美術を読むことにした。
華やかなりしルネッサンスの時代は1300年前後に活躍した天才・ジョットが本格スタートだと言われている。
しかしながらそれまで地方の小都市で、トスカナーナではすでに栄えていたピサ、シエナ、ルッカなどを抑え、フィレンツェが大きく伸し上がってきた原因が判らなかった。

それは1250年頃から、それなりの力を備えてきた各都市の支配をめぐって、教皇派と皇帝派が激しく対立し、シエナ、ピサ、ルッカなどが支援した皇帝派がフィレンツェの支持する教皇派に負けたことだった。
その結果、教皇の徴税人としてトスカーナ地域全体を抑え、そこから国王や領主に多額の融資を行うことなどで商業基盤を強めていった。
また時代が地中海の貿易体制拡大の時代で、イタリア以外にもイギリス、フランス、コンスタンティノープルまで商売の地域を広げながら、決済手段としての銀行の役割を強化しながらヨーロッパ全体の貿易を支配していったのである。
街では海外との取引増加に伴い商社機能の強化が望まれ、読み書きのできること、商業文書が作成できること、複式簿記の記入などが必要項目となったことから、それから個人間の文書やり取りが増え、高度な教育を受けた多数の市民で溢れるようになった。

洗練された芸術は学識豊かな市民たちによって育てられ花開くのであろう。
豊かな文化環境と豊富な資金の存在がジョットを生んだフィレンツェの力だったのである。
まさに花の都・フィレンツェは競い立つ商業活動が芸術活動を高めていったのだった。

見事に咲いた杏の花
TOPページへ

嵐の吹き荒れる中で

令和2年3月25日

予想はしていたがこの夏の東京オリンピックは時期延期でいったん決着した。
誰が見てもとても開催強行はできないだろうと思っているのだが、関係者があまりにも多くかかわるのだから、矢面に立たされる責任者は本当に大変なのであろう。
アドバルーンは国内外の責任を持つ団体の理事からぽつぽつと延期を匂わす発言が出て、そこの責任者は公式なコメントでは無いと言い訳をしながら、まずは本部では絶対開催と強弁を発するのだった。
それを受けてマスコミなどの反対論が出てくるのを待って、それではいやいやながら検討しますと姿勢の変更を匂わす。
自分たちは予定通り開催したいのだが、世間がそれを許さないとの流れを作り、 それでは開催時期延長をほんの数日で決定した。
決定は日本での聖火リレーが始まる直前の日であった。
オリンピックのアスリートでの影響は大きく、またホテルなど直接受ける被害は甚大なものになる。
マスコミや体育関係団体、東京都政などがまさに示し合わせて、それならしょうがないなとの世論形成を滞りなく作り上げた。
批難はくすぶりながら来年への延期で動き出した。

折しも読売新聞のドンである渡邊恒夫さんの戦後政治史をNHKが放映していた。それによれば政界を動かす原動力は義理人情の世界であると語る。
今回のドタバタ劇も政治の世界が仕掛けた大衆劇だったのである。

あっぱれ、桜満開
TOPページへ

突如、フィリオイグレシアスの曲が聞きたくなる

令和2年3月14日

外は小雪が舞い散る春3月、しかも観測史上最速の桜開花が東京靖国神社の標本木で咲いたと知らされる。
「何だ、この天気は」と自宅にこもりながら、ふと昔々の印象的な美声の持ち主 “フィリオイグレシアス”の曲を聞きたいと思った。
さて、それではCDでも買おうかとなるのだが、昨今はわが身にも悪知恵がついて、パソコンにて検索さえすれば映像付きのライブ画像さえ見ることが出来る。

そう、もう40年も前のことになるのだろうか?世の女性を痺れさせた「ナタリー」と歌い出すスペインの貴公子はあっという間に日本国中を席巻した。
甘いマスクに透き通った高音が胸キュンだったに違いない。
2時間近くのアルバム曲を32曲聞いてみると、マイクなど要らないのではないかと思える伸び伸びした高音が、バラードなどでは一段と魅力を増す。
「ええなあ」と素直に感激!

そして聞きながら遠い昔にウォークマン1号機のデモ音楽を聞いてみると、ビックリするような高音質でこのフィリオイグレシアスの曲が流れて来たのだ。
テープレコーダーの音とは思われない、あまりの音の良さに「嘘だろう」としばらく信じられなかったことを、昨日のように思い出す。
そしてこれが有名になったソニーウォークマンの始まりだったのである。

あの有名な青い瞳のナタリーです
TOPページへ

もう9年も経ったのか

令和2年3月8日

わざわざ映画を見に行こうなどとは考えても居なかったが、行きがかり上、鴨宮にある映画館にたどり着く。
その1週間前にTVで佐藤浩一が新作映画の撮影の際の気持ちなどを語っていた番組を見て、それならその話題に上った映画を見ようとなったのである。
映画は東日本大震災で大事故となった福島の原子力発電所の話で、津波で壊滅的な破壊に至ったドキュメント映画である。
佐藤さんが今この映画を世に出すことが、被災者たちの心情を傷つけるのではないか、またもう少し時期を後ろにずらして痛みの和らいだ時点で世に出すべきではないかと悩んでいたと語っていたのが印象に残る。
映画そのものは地震発生後、津波が襲い原子力発電所でメルトダウンを必死に守った、現場の人たちの行き詰るような奮闘がリアルに再現され、改めて3基のうちの2基までは水蒸気爆発をし、残るもう1基の爆発が起これば首都圏全体が大規模汚染に曝される危機を、偶然のなせる小爆発でメルトダウンが回避された奇跡を克明に追っていた。
改めて知る現実は、まさに日本沈没の瀬戸際まで追い込まれ、神風が吹いたとしか思われないような奇跡によって、壊滅的被害を免れたのである。
当事者や首相官邸の緊迫感に改めて当時を思い出す。

映画の最後は春爛漫に咲く桜並木が映し出され、その後2年で亡くなった吉田所長の葬儀が、暗いばかりのこの映画を少しは華やかに彩り、悲惨としか言いようのない事故を印象深くまとめていた。
[Fukushima50]との題名は仕事に立ち向かう現場の担当者・計50名の美談ではあるが、世間は新型コロナウイルス騒ぎで、それどころではない切迫した空気が流れる中、日本人も捨てたもんじゃないなと思わせる展開に、良い映画を見たとの満足感が胸をよぎった。

春を知らせるポインセチア
TOPページへ

コロナウイルスの騒ぎの中で

令和2年2月25日

毎日のようにコロナウイルスの話題でTVに釘付け。
このウイルス騒ぎがいつ収束に向かうのかが判らないだけに、どのくらい怖い病原菌なのかと大騒ぎだけが日々繰り返される。
しかし、情報統制された中国の実態を疑い深く読んでみたとしても、日本のクルーズ船、ダイヤモンド・プリンセス号船内の発病経緯を見てみると、乗客が次々に発病し、予防対策を施したと思われる医療従事者や厚生省係員が次々に発病する事態を知ると、過去経験したことが無いほどの悪性病原菌であることは明らかなのであろう。
ここに来て、本日、政府がその対策として2週間の外出の自制、屋外集会の禁止などを次々に打ち出した。

この日は穏やかな薄ぼんやりした日であるが、大山近くの宮ケ瀬湖を12時ごろ訪れた。
3連休後の平日とは言え、宮ケ瀬ダムのダムエレベーターに乗る人は我々以外の人々は数人しかいない。
どう見ても入場禁止の処置が発令されたとしか思えない異常事態である。
ダムを見上げるように中津川渓谷を歩いてみても、犬を連れたご夫婦だけが散歩しているだけで回りは閑散としていた。
ここまでくるとダムを取り巻く大空間はかえって怖い気さえする。

観光地がこのように静まり返る端緒を垣間見たのだが、これが終わりではなく、今後はますます加速される事態が続くであろう。
旅館や土産物店の先の見えない悲鳴が聞こえるこの頃である。

人けまばらの無い宮ケ瀬ダム
TOPページへ

春を迎える三浦の三崎

令和2年2月18日

それにしても春が早くやってきそうである。(いや来ているのである)
三浦海岸駅の河津桜はもう満開の時期が過ぎ、濃いピンク色もちょっと干からびて見えるから、少し来るのが遅かったのかもしれない。
昨日の湘南地域を襲った強烈な西風は、今日は少し勢いが減ったとはいえ、三浦の海岸へりはまだまだ波が高い。
車窓の富士もこの時期らしく雪を抱いたお馴染みの姿が楽しめる。これぞ海岸ドライブならではのメリット。

今日は松輪のさばで有名な東京湾の突端近くを訪れたが、なんとなんと火曜日定休とお店の前に来て初めて分かった。
昔来たときは閉店の知らせであったからやっていることが判っているだけでも良しと言うべきであろうか。
それならば三崎の街の魚市場にあるボリウム満点の食堂に行こうとなったのは必然の対応。
平日の13時近くではあったが、満席近くの人気は相変わらずでひっきりなしの注文に店員さんも大忙し。
当方エビフライ定食を頼んだが、盛り付け皿からはみ出しそうなプリプリの大振りエビ3本はこれだけでも十分なるボリウムで、マグロの中落ちが付いてこれで1600円とは全くの廉価。
都会のお店で出てくるエビとは平幕と横綱の差と思えるぐらい太さに差があり、 私メは行儀が悪いが、手づかみで口に持って行ったのだから、太目のフランクソーセージを想えばその贅沢さがお分かりになるであろうか。
隣のカウンター席には一人旅のご同輩が刺身定食にコップ酒をチビチビ楽しみながら、これぞ贅沢とばかり静かにこの場を楽しんでいた。
こんな姿を眺めながら定年後の自由を優雅に過ごすご同輩に近親感を感じたのは熟年の特権なのかもしれない。
春のうららかさは人生の春真っ盛りなのである。

立石より荒波の相模湾
TOPページへ

晴れた冬の晴天に富士を拝む

令和2年2月11日

今年の冬は雨模様も多く、まさに異常気象である。
富士の冬衣装を見たいと思っても、お昼近くになると雲に阻まれることも多く、また春霞がかかるぼんやりとした光景も多い。
この日も明日からは曇天続きになると聞き、「さあ、今日こそ絶好だ」と意気込んで出発したのであった。
建国の日で祝日の秦野・出雲大社は、ことのほか大勢の人々でにぎわっていた。
そうかやっぱり神社参りは最適の日なのであろうか。
それにしても道すがら日の丸の旗がかざされている光景がすっかり少なくなったのが寂しい。
また、昔の紀元節を思わす、古代の歴史を振り替えさせるような展示やポスターなどもなく、もうすっかり荒唐無稽な建国記念日のお祝いなど影をひそめてしまったように思える。
村の鎮守様へのお参りと言った賑わいを懐かしく感じた後は、松田の丘の上にあるチェックメイトカントリークラブを目指す。
別に突如ゴルフ通いに目覚めたのではなく、そのゴルフ場横から眺める富士の絶景が見たかったのだ。
この地からは眼下に足柄平野を見て、西側には足柄山地を従えた富士の姿がことのほか美しい絶景ポイントなのである。
そしてその先に今度こそ、雲も掛からないピッカピカの富士が絵葉書のように聳えていた。
この地は足柄平野からの上昇気流を受ける地としてハングライダーの飛び立つ地点でもあり、離れた上空に飛び回っている姿も見えた。
富士を見ながら前面には伊豆大島を望む相模の海と三浦半島の姿まで大パノラマとして楽しむことが出来るこの地で思いっきりの感動を受けた。
さあ、頑張ろうと心に新鮮な空気を補給した松田での1日となった。

松田町チェックメイトカントリークラブからの富士
TOPページへ

超やさしい日本書記を読む

令和2年1月31日

愛読している芸術新潮の最新号は「ラノベ日本書紀」と何とも突拍子もないタイトル。
普通なら取っ掛かりの気持ちさえ湧かない日本書紀と言う何とも難解な書籍を「エイヤ〜」と漫画を読むような気分で読むことができる。
文体は漫画のような若者言葉が並んでいるが、内容は論理上の視点からはあまりにもめちゃくちゃすぎる。
でも細かいことは忘れて筋書きを拾い読みしてみると、言いたいことは判ってきた。
有名な中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を惨殺したシーンなど記載がやけに生々しい。
神武天皇、神功皇后、仁徳天皇など薄ぼんやり名前だけは判ってきたが、今回全体を読んでみると、熊襲の位置づけ、大和王朝の成り立ち、激しい天皇の取り合い、そして朝鮮との関係などが時系列としてとても良く理解ができた。
それにしても覚えられない古代の個人名は記号としか頭を通過できないのは、 いたしかないと思う。
日本書記という作成物が初期日本の成立を語る公式文書であったとは驚きでもある。
それに対峙する古事記が歴史神話として作成されたと知ると、ふと古事記も同等の方法で読んでみたいとも思うから不思議。
固さを売り物にしてきた芸術新潮の想いもよらぬ変化球に驚き、パチパチと拍手をたたく私メでありました。

芸術新潮(2020年2月号)
TOPページへ

箱根への温泉三昧

令和2年1月20日

我が妻を伴って箱根湯元へ出かける。場所は天山温泉で女房殿は20年近く昔に会社の同僚と来たことがあると話す。
電車で小田原に着いたのは9時半と随分早い。 早朝でもあるこの時間の電車は箱根登山鉄道もガラガラで、外人客がチラホラと目立つが、箱根湯本駅に着くとそれなりに混雑している。(やっぱり観光地なんだ)
連絡バスを使い天山の温泉についたのは10時15分ごろだろうか。
昔の入浴料金は500円だったことを思い出す以外、すっかりリニュアルされた温泉施設からはまったく昔の片りんさえも思い出せないと女房殿はびっくり。
楽しみにしていた早めの入浴は人の数も数えるほどで、朝風呂はゆっくりのんびりの温泉気分がことのほか心地よい。
山肌にへばりつくようなこの温泉は全部露天タイプで、形や温度が違うお風呂が6種類もあり、真冬とはいえ寒さよりその開放感が気持ちを解きほぐしてくれる。
昼食の女房殿は麦とろ定食にデザートとして「まめかん」を楽しむのもくつろいだ気分のなせる業であろうか。
日帰りの温泉三昧ではあるが、せっせこましいスケジュールなど気にしないでゆったりした時間の中で浮世の雑念を忘れる時間がうれしそう。
午後は15時までリクライニングシートで自由に過ごし、私メは再度入浴しながら昼寝などで時を過ごす。
帰宅は17時前に自宅到着。 そうしていたら二人ともなにかぐったりしてしまい、小田原にて買った「こゆるぎ茶飯」「タイ飯」を夕飯にした後、さっさと早めのオネンネとなった次第。
次の朝、温泉は疲れるのよね、と改めて老齢になったことを思い知らされたのであった。

箱根湯元駅構内(電車ではこなかったので新鮮)
TOPページへ

歌声が懐かしい

令和2年1月19日

脳梗塞で病院生活を3か月過ごした結果、ベッドでの寝起き生活の影響で足腰の力が弱まり、ついでに声の音域が狭くなってしまった。
あれほどカラオケにも自信があったのに、声を出してみると出るべき高音が辛うじて絞り出すようになってきた。
よってすっかり友とのカラオケも減り、悔しい気持ちが拭いきれない。

そんな中、パソコンをいじっていて、検索で竹内マリアさんの「人生の扉」を 探り当ててみると、今では字幕入りのカラオケ動画がまるでカラオケボックスにいるように見ることが出来るではないか。
その上ヘッドホーンで聞いてみると抜群の高音質でライブ音源さえも聞くことが出来ることにビックリ。

ここに来て自由な時間はパソコンの前で、懐かしい昭和歌謡を楽しむことが多くなった。
最近のTV音楽番組はビジュアルに楽しませる傾向が多く、ジックリ歌手の歌唱力を味わう機会は多くないので、私がちょっと昔のカラオケ熱中時代に好きだった歌曲を検索しながら歌手の歌唱をじっくり楽しんでいる。
また、パソコン検索を使うとオリジナル曲でも様々な歌手が独自にアレンジしてくれるのを聞くのも楽しい。
つられて口ずさむのではあるが、昔日の声域までは無理があるのだろうか。
でもそれなりに歌の楽しみを満喫する日々なのである。
ミーハーではあるが、最近好きな歌手は絢香(あやか)さんで中島みゆきさんの 歌っている“空と君のあいだには”そしてだれが原曲だか忘れたが”三日月“である。

昨日の雪で富士山が間近に見える(茅ヶ崎赤羽根にて)
TOPページへ

恒例の箱根駅伝を見に行く

令和2年1月2日

1月2日の10時過ぎに箱根駅伝を見に、自転車にて浜須賀海岸に向かう。
いつものことながら自宅から海岸線までの2キロの間では、一本道を同じ想いをしたご同胞が右から左から続々として参入し、海岸線の会場までザワザワした雰囲気が、次第に大きな固まりとなって盛り上がっていくのは楽しい限り。
この浜須賀交差点は東京から駆け出して来た選手たちが、初めて潮の香りを感じる湘南海岸の入り口で、その中でも目の前を右斜めから扇状に見渡せ、目の前を左の茅ヶ崎海岸へ走り去る選手が長い期間見れる絶景地なのであります。
(と言うことは立っている位置が海岸側から北を向いている)
昨今の電波事情ではスマホ片手に実況中継が当たり前で、お隣のお姉さんは実のお父さんに「ピンクの旗を持って、黒いジャンパー姿が私だからね」と電話でアピールしている。これぞ、お祭り騒ぎそのものなのであります。
絶好の好位置を陣どった私メに、傍をウロウロしていたおじさんが、それでは 選手の応援に大学の旗を持って、目の前にかざしてくださいと言い渡すのであった。
どこの大学かは判りませんが、そう言われて「はい」と答えるのが礼儀と言うものであろう。
綺麗なピンク色をしたノボリは日本大学と書かれており、ここで急遽日本大学の大昔からの卒業生と衣替えしたのでした。
レースではトップを走る青山学院の声援はそれなりに抑え、ずいぶん離されてご到着した日大のランナーには盛大な声援を叫んだのであります。

自宅に帰り、女房殿に顛末を話すと、「だから上位に食い込めなかったのよ」と冷たく非難を浴びた後、「明日(3日)の復路では、選手に悪影響を与えるから絶対見に行かないでね」と貧乏神のように言われるのでした。
そんな訳で、次の日は自宅謹慎とし、TV観戦としたのですが、日大の結果は惨憺たる状況で、見ず知らずのお方のお願いを快く快諾したにもかかわらず、お力添えもできず申し訳ないとの心境です。

浜須賀交差点での激闘

見終わったら辻堂海岸にて記念撮影
TOPページへ

令和元年の時代を静かに見送る

令和元年12月31日

あの脳梗塞で倒れ、その後万全とはならないが、日常に支障をきたすまでとはならなくなって、早3年半の年月が過ぎ去った。
そしてもうすぐ75歳の誕生日さえ近づいてきた。
歳のせいとは考えたくないが、階段の上り下りに注意をせねばならない環境下であると充分認識している。
幸い頭脳の方は大きく後退しているとは感じていないだけ幸せと言うことであろうか。
世間の荒波を様々に受けながら、それでもしぶとく生き抜いている自分に、とりあえずは合格点を与えて良いとも思っている。
しかしながら人生の満期は静かに忍び寄ってきているのかもしれない。
その時期は当人にはうかがい知れない時に、ひそやかに訪れるのであろうか。

孫娘の成長を見守り、女房殿も何事もなく穏やかに年末を迎えられた。
友はソニー時代の3名が暇を慰めてくれる。
上出来の令和元年であった。
この幸せを静かに続けられれば最高なのであろう・・・

豊かに実ったユズの実(ご近所さんのお庭にて)
TOPページへ

いこいの村足柄へ骨休み

令和元年12月26〜27日

年末も押し詰まる26日、娘たちが旅行中で家には我が夫婦二人が残るだけだったので、どこに行くともなしに御殿場線の松田からほど近いいこいの里足柄に泊まりで出かけることとした。
昼前に東海道線で小田原に出て昼食を食べようとしたのだが、いつも行く駅近くのビル地下1階にある和食店が、なんとこの前日に店を閉めたと書かれていた。
長年、年数回程度で回数は多くもないが訪れていただけに残念な気がした。
女房殿は「流行らなくなったのかしら」と聞くが、それなりに繁盛していたようには思うのだが、時代の変遷がなせることなのかもしれない。
小田原から小田急線に乗っての新松田への乗車は珍しく、普段は国府津から御殿場線での移動だったので、何か新鮮で新しい場所に向かっているようにさえ感じた。
宿では二人だけにはもったいない、ベッド2床に和室6畳が付く特別室で、ここでも女房殿は、「これではもう二人入っても大丈夫ね」と貧乏たらしく感激する。
この日は天気もさえず、狭い一室に閉じこもるのは嫌だと奮発して経緯があったのだった。
3時近くに宿に到着後はまだ誰もいない大浴場で、思い切り手足を伸ばし、フカフカのベッドでゴロンとする快感はなんとも気持ちが良い。
夕食をとり、もう一回フロに入り、これで極楽とTVを見ながら寝床に入る。
これこそ正常な老人の幸せなのである。

起きてみると外は霧の世界で、富士山が目の前に見える絶景を楽しみとしたのだが、生あったかい外気のせいで残念ながら全く富士の姿が望めず、「こんな日もあるさ」と、傍にある直売の農産品売り場でミカンなどを買ったのがせめてもの慰め。
この場所は丹沢の山並みが美しく見渡せ、のどかな里山が広がる丘陵地帯で、雲を裾野に聳えたつ大山の美しさがひと際印象に残った。
再び立ち寄った小田原では、お正月の用意にちょっと高めの伊達巻などを購入し、少しは年末らしさを感じつつ帰宅となりました。
ただただ温泉に行っただけの小さな旅でしたが、思いもよらず充実感が沸いたのは、ゆったりした行程のせいでしょうか。
これも非日常の時間を過ごした功徳かも知れません。

これもレトロです。新松田駅前にて

いこいの村足柄にて・咲き出した黄水仙
TOPページへ

久しぶりの三島

令和元年12月11日

どういうわけか、急遽女房殿と三島に電車で出かける。
辻堂駅を9:15に立ち、熱海経由で三島駅のたどり着いたのが10:30と、とてつもなく早く到着は、電車ならではの便利さ。
更にタクシーで10分もあれば柿田川公園にたどり着く。
何回かの訪問ではあったが、清純な富士山の水がこの地点に突如枠上がるのだが、水の青さは光線の影響で午後になると鮮やかさが際立つのであろう。
今年の台風のせいか、周りを覆っている水草が何となくくたびれているようにも感じた。水辺と言えども自然の猛威を避けることはできないのであろう。
豊かな水量の水源地帯を散歩したあと、11:30を待ちかねるように豆腐料理のカンバンが色鮮やかに映える「かわせみ」に迷いなく入る二人でありました。
どう見ても高級料亭を思わすこのお店は1500円とのお買い得価格で、昔からの風情を残す室内から、窓越しにお庭が展望できる豪華食事会場で、 これだけで今日の旅路の充実感を味わえた、素晴らしい思い出となりました。

と言うのも側のバス亭では三島駅へ向かおうとしたが、1時間に1本のバスはほんの5分前には出てしまい、それではと歩いた三島広小路まで2キロ近くを 歩き切りだいぶんくたびれ切って、いつもの川べりに到着したのでした。
ここから1キロも歩けば、三島大社にたどり着くはずが、この歳では無理も利きません。早々に電車で三島駅に向かい、14時過ぎの東海道線で辻堂まで帰着してしまったのです。

本日の天気は晴天との予報で、洗濯物を外干しとしたが、自宅に近づくに従い空がドンヨリし、家で一休みしていたら雨さえ降りだす悪天候。
と言うことは、予想外の早めの帰宅は虫の知らせだったのかもしれません。
となれば結果オーライと言うことにしませんか。

豪華な食事何処 かわせみ

見た目も美しいとうふ御膳
TOPページへ

厳島湿性公園にて

令和元年12月3日

地図を見ていてどんなところかなと訪れた場所が二宮から秦野に向かう道にある厳島湿性公園。
中井町の井ノ口とは、その気にならないとたどり着かない。
秦野盆地の南部側の丘陵がゆっくりと二宮側に下り降りる途中、すり鉢状の傾斜地の底にぽっかりと池が佇んでいる。
近くのそこここから水が流れ込んでいて、その水をためこんだ池なので透明感は抜群、深さはせいぜい30センチにも達しないせいで、お盆の上に薄い水の層がかぶっているように見える。
とはいっても、目だった花が見られるわけでもなく、水辺の草花が絨毯のように 一面を覆う。
一言でいえば穏やかな水辺と言えようか。
池の中には厳島神社が鎮座する島があり、これらの箱庭を思わす光景がなんとも懐かしい風景なのである。
近所の子どもたちが網を抱えてトンボを取ったり、小魚を追いかけまわる姿を見ると、それだけでいいないいなと感激してしまうのだ。
人工的なものはいらない。ただその水辺をゆったり歩き回るだけで、気持ちが穏やかになってくる。これが良いのです。

清水が綺麗な厳島湿性公園
TOPページへ

鐘が鐘が鳴る鳴る妙圓寺

令和元年12月3日

今年気に入って頻繁に訪れる場所に、平塚から秦野に向かう途中の天台宗の妙圓寺というお寺がある。
場所は平塚市の市境・土屋というところで、傍に神奈川大学の学舎があるが、車でしか行けない静かな環境の古寺が気にいった。
偶然近くを通りかかったのが最初だが、江戸時代から近隣では銭洗いの井として、広く信仰されていたという。
背後には緑豊かな丘陵が迫り、平塚にあるとは思えない隠れ里で、ちょっと鎌倉の寺院の佇まいを思わせるのは、谷戸の奥地に入ったようなお寺を大木がぐるっと取り囲むように迫っているからなのだろう。
手掘りの洞窟の中にその銭洗いの泉があり、鎌倉の同名の銭洗い弁天の混雑には遠く及ばずとも、厳正な気持ちになれる清泉はすがすがしい。
普通は人の気配も少なく、人ひとりがやっと通れる洞窟を抜き足差し足で歩くにも怖ささえ感じる静けさで、信仰の世界でしか味わえない奥深さを感じるのが訪れる理由でもある。
さらに夏に咲く蓮の鉢が境内を飾り、その時期には大輪の花々で華やかさがいっそう楽しみとなる。

このお寺の名前を聞いて三波春雄の大利根無情を思い出すとは何かの因縁。
この歌詞の最後を飾るのが、鐘が鐘が鳴る鳴る妙圓寺との名セリフ。
思えばカラオケではこれが当方の代表的な“おはこ”だったのです。
病後すっかり音域が狭くなり、好きだったカラオケもめったに歌わなくなったが、その舞台は遠く利根の河原であるとしても、ここへ来ると三波春雄が頭をかすめる。
信仰の地を踏んでもいつまでも俗世から抜けきれない私メでありました。

残菊が美しい妙圓寺

鳥居の先が銭洗いの井
TOPページへ

改めて鎌倉の底力を感じる

令和元年11月21日

親しい方から鎌倉二階堂地域で行うコンサートの招待券をいただいた。
3枚の招待券は当方の地元茅ヶ崎の熟女をお誘いしたのは、きっと喜ばれるのではないかな。(名称は「Don’t worry! コンサート」と記されていた。)
16時開演ではあるが、鎌倉のちょっと知らないお寺をご案内した後、会場入りすることとした。
まずは駅前の井上蒲鉾店でおでんを食したのはこの時期ならではの配慮。
オプションで「大根を100円追加で如何ですか」と問われ、この日が誕生日のおばさまがいたので、安い対価ではあるが喜んでいただくこととした。
その後、駅から7〜8分で行くことができるのだが、めったに訪れることが少な比企ヶ谷の妙本寺に行く。
深い木立に囲まれた日蓮宗の古寺で、こんな駅の近くにこんな大きなお寺があると驚かれること必須。ひっそりした境内は比企氏の供養塔が苔むす歴史を物語っていたのでした。
バスに乗り、コンサート会場すぐ傍の杉本寺は年配層にはちょっと意欲がいる石段を登れば、茅葺の本堂にたどり着く。
こここそ、昔々のお寺そのもので薄暗い本堂内には手書きの絵馬やお札がびっしり張り付いている別世界。
上り下りの階段をどうにかこうにか終えて、今回のコンサート会場に無事たどり着いたのであります。(ちょっと疲れた)

会場の鎌倉女学院の松本尚記念ホールは、鎌倉ならでは急傾斜地を背負う音響効果が素晴らしいコンサートホールで、座っている場所からは前面を覆うガラス越しに緑の木々が屏風のような背景となる素晴らしい光景にお呼びしたおばさま方は感激しきりでした。
コンサートはクラシックの曲をバイオリンとギター&パーカッションの合奏で聞かせる何とも不思議な組み合わせだったが、クラシック音楽のメロディがより映えて楽しい演奏会でありました。
それにしても楽しそうにバイオリンを奏でる早稲田さんの所作は、堅苦しいイメージが全くなく、自由自在に弓をもてあそぶ芸人さんのように楽しんでいらっしゃいました。
演奏者はほとんどこの地域の小学校と中学校を卒業したお方と説明していましたが、それなりのプロをいとも簡単に成立させる鎌倉の底力に羨ましさを感じた。いうならば地元の商店街のイベントなのにいやはやビックリです。

茅葺屋根の杉本寺

ホールの素晴らしい背景は自然の木立
TOPページへ

行く秋を静かに見送る

令和元年11月12日

異常気象が普通になり、季節感がすっかりおかしくなってしまった。
この秋は台風の直撃を受け、海岸に近いこの湘南地域は塩害で、紅葉の色づき具合はすっかり枯葉色ばかりが目立つ残念な結果でしかない。
この日も車の中は太陽光により、まるで夏の名残りが感じられるほどの厚さとなり、11月の半ばとは思えない別世界で軽く20度は超えるこれも異常気温。
しかし昨日の夕立ちは富士山の上の方では雪になったらしく、5合目以上が真っ白に光り輝くこれは冬真っただ中のお馴染みの光景。

たどり着いた御殿場では某法人の研修施設を見に行く。
まっすぐに整えられた杉の木立を超え、薄暗い杉の森を通り越すと、まるでゴルフ場のような芝生の大空間がぽっかり現れた。
ここは研修する人たちが気持ちを静める祈りの空間であると説明された。
そして、やや遠い前方に箱庭のように整った木立が美しく紅葉をし、太陽の光に ツツジの赤、白樺の黄色、その奥の杉木立の緑と、今を盛りに輝いていた。
誰もいないこの絢爛豪華な景色に我々は圧倒され、しばし声もなく佇んでいた。

もう数日でこの地も木枯らしが吹くと知らされる。
その前兆か、富士の山頂近くは強風で発生した雲が、北から南に流れているらしく、富士の南面の山麓にあるこの御殿場では富士の全容が雲に遮られて見えない。
それでも燃えるような紅葉の数々に今年の秋の美しさを堪能したのである。

御殿場での絢爛たる錦紅葉
TOPページへ

オンリーユー再訪

令和元年10月30〜31日

前回のオンリーユー1泊旅行は、おじいさんの療養にはことのほか喜ばれ、 再度訪れることとした。
まずは小田原で昼食をおもてなし。
腹が減っては戦も出来ずと、見た目も古式ゆかしい小田原名物・だるま屋さんにご案内。(思ったより駅から遠かったです)
お昼時間でもあり、平日なのに行列を作ってのご入場となったが、お城の玄関を思わす「えらいところに来てしまった」感がある玄関で更に高揚感を増し、名物天丼・エビ3本を載せた豪華な昼食は、いつもながらの楽しい時間を過ごしました。
明治からの高級料亭であったこのだるま屋さんは、遠い昔を連想させる高い天井と木組みの欄間がそこここに、懐かしい雰囲気を今に伝えるおじいちゃん感激の大衆食堂でもありました。

オンリーユーの長風呂は当然の楽しみとして、すっかり日の暮れる時間が早くなって、暮れ和む森に囲まれ、緩やかな時間が緩やかに過ぎゆく夕餉の食事は お酒がことのほか進んだのは言うまでもありません。
みんな少しづつ歳を経て、それなりに恵まれた生活を維持できる幸せをいつまでも語り合いました。

次の日は遅めの朝風呂でゆったり時間を過ごし、お昼過ぎの小田原駅に電車で戻った後、これも昨日駅前で気になった昔むかしの蕎麦屋さんで、打ち上げをして別れようとなったのです。
その「寿庵」は思った通りの風情溢れるお蕎麦屋さんで、お酒を飲みながらの蕎麦は心に浸み行く時間でもありました。
黒光りする木の机といすの立ち並ぶ室内は、これぞ昔の大衆食堂。
格子がはまったガラス窓に沿って一枚板の机が長々と伸び、これぞ今なら立ち席用のいすと机の配置だと思えるのですが、妙にレトロだと思えるのが印象的でもありました。
家を守ってくれている女房殿に、これも名物アンパンを“守屋製パン店”であわただしく購入し、この旅は無事終了となりました。
友だちっていいな。。。。

小田原、ご立派なだるま屋さん玄関

これもレトロな大雄山駅舎
TOPページへ

台風一過とはならず(2)

令和元年10月25日

そして第3弾は10月17日(木)夜から18日(金)の夕方まで低気圧の接近で関東と東北地域に集中豪雨をもたらした。
湘南地域でも危険が知らされていたが、どうにか少し逸れたようで実際はまたしても予想通り千葉が大被害となり、半日で300ミリ近くの雨量となった。
夕刻には洪水限界まで水をたたえた河川に更に上流ダムから緊急放流するとの予告まで流れた。
しかし、これは直前に中止と安どの声となったのが良かった。 とはいっても佐倉や茂原などで浸水がまたまた発生。
この茅ヶ崎は今回も大きな被害はなかったが、ほんの100キロしか離れていない千葉県では計3回にわたり同じような地区が痛め続けられたこととなった。
ブルーシートで覆われた家屋は大風と大雨により看破無き姿に破壊され、その上で河川の氾濫にまでさらされる始末、神も仏もないとはこのことなのであろう。

さて、大雨の直後の23日(水)はこの日だけ晴天に恵まれ、それではと箱根を避けて真鶴に行った。
相模湾はこの災害にもかかわらず、紺碧の海で泥水にて薄汚れているかと心配したが、見た目には透き通っているように見えた。
真鶴での漁港も変わらぬ姿で佇んでいるように映った。
さて海べりへと降りてみると、歩道に沿ってあったはずの手すりが全部なくなっていて、根元からポッキリ折れ、その丸い円柱だけが錆びついて残っていた。
そして、海辺から5メートルの高さの上にある鉄の柵もところどころ折り曲げり、海側に倒れていた。
この場所は東側を海に面し、東から西に向かって台風の大波が打ち寄せてきたのであろう。
よく見ると海岸ヘリの石垣の下には1メートル四方の大岩がいくつも転がっていた。しかし、不思議なことにその石は傍の石垣が壊れて落下したものではなく、海から波に運ばれてたどり着いたとしか思えなかった。
そんな光景を見ながら、二つの台風でこの海岸線は大波により壊滅的な被害を受けたことを実感する。
やはりこの湘南地域も大きな被害となったのであった。 そして偶然とはいえ、我が茅ヶ崎も軽微な被害で収まったことに改めて感謝したのである。


一見穏やかな真鶴港(10月23日)
TOPページへ

台風一過とはならず(1)

令和元年10月17日

この秋は台風が関東地方を直撃することが多発した。
9月初旬の台風15号では9日(月)朝鎌倉近辺に上陸後、東京湾から茨城を通過し、水戸近辺から太平洋に抜けたのだが、千葉市近くで風速60メートルのとんでもない暴風が吹くまくり、房総半島一体で屋根が飛ぶなど大災害となった。
どんな所でも海岸地方はいつも強い風が吹く地域ではあるが、今回は内房一体の漁村でも多くの家屋でもカワラが飛び、雨対策のブルーシートでの応急処理が痛々しい。

台風が東京湾上を通過したため、この茅ヶ崎地域は台風の左岸となり、被害が少なかったと知ったが、同じ関東地域でも右岸にあたる内房地域は館山を中心にかつてないほどの被害となったと知らされる。
私と言えば、台風通過の9日午後に大船でホームページの件で教えて貰うつもりであったが東海道線が動かず、かろうじて午後にたどり着いたのは幸いであった。
その日は横須賀線では終日運行できず、鎌倉市内も倒木や川の氾濫で数日電気が止まったと知らされた。
当方はのんきに次の10日(火)に車で足柄の夕日の滝へ行ったのだが、水量が増加した滝は迫力十分であったが、そんなことを言っている場合ではない。

房総半島での損害はすさまじいもので、とりあえず雨除けのため屋根をブルーシートで覆う応急作業さえ進まない中、今度は台風19号がほぼ同じルートで首都圏を直撃。
10月13日の日曜の夜から14日(月)にかけて伊豆半島に上陸後、わが茅ヶ崎の上を台風の目が通過した後、東京湾、茨城と言うのもほぼ同じコースとなった。
来る前からTVでは超大型台風で風速60メートルの風が吹きすさぶと騒がれ、茅ヶ崎にも避難勧告が出る始末。
しかしながら上陸直前に急に風が弱くなり、家屋への被害は無かったのが幸いであった。
その代わり雨量がすさまじく箱根では一夜にして1000ミリという観測史上最大の値となり、箱根登山鉄道は年内開通の見込みが立たないという大災害が降りかかった。
また関東や東北でも河川の氾濫が多発し、阿武隈川、那珂川、千曲川などの氾濫が大きな損害を引き起こした。
我が相模川も、氾濫まで残り1メートル半を残すまでと、ニュースで大騒ぎされ、しかも城山ダムの緊急放流の告知まであったが、それも中止で済ますことができたので辛うじて決壊を免れた。
私とは言えば、これまた15日(火)に相模川中流地域を回り、清川村から秦野で何事もなかったように楽しんできたが、大バカ者との誹りを免れないのではないだろうか。。。
想えばこの日の相模川は濁流が渦巻き、厚木半原地区では人っ子一人通っていなかった。怖くて外などには出かけられない状態であったのだろう。


水量豊富な夕日の滝(9月10日)

台風一過の秦野弘法山からの富士(10月15日)
TOPページへ

10月10日に彼岸花咲く

令和元年10月11日

季節を正確に知らせるこの彼岸花が、何と10月の中旬になって我が家を彩った。いやはや珍事である。
この開花期間は1週間もないのである。だからこそ季節の指針でもあるのだ。

この秋は晴れわたる晴天とは行かず、湿気の多い夏を引きづっているような天気がいつまでも続いた。
そしてこの前日10月9日に初めて秋らしいカラッツとした晴天が久々に訪れた。
「この秋初めての秋空だよね!」と喜んだにもつかの間、これから台風襲来の予報が出ている。踏んだり蹴ったりの日々が続く。

近年、季節の変化が昔のように徐々に変わってくることが少なくなり、冬からすぐ夏になり、夏から時期を置かず冬を迎えるように変わってきた。
つまり、春と秋の期間が極めて少なくなったと感じるのである。
相次ぐ天候異変、大規模災害の発生とどう見てもこの地球を我々人類が破壊しつくすように動いているように見えてならない。
花の異変がその警鐘であることに気づくべきであろう。


お待たせしました。彼岸花
TOPページへ

三浦半島は今

令和元年10月8日

江ノ島近くの海岸線もすっかり夏の混雑を脱し、順調にドライブできる環境が揃ったと判断したのは10月に入ったせいだろうか。
なかなか涼しくもならないこの頃ではあるが、三浦の三崎方面もすっかりご無沙汰である。
逗子や葉山の海岸沿いは来るたびに高級感溢れる豪邸・マンションに変身しつつあり、近づいたオリンピックに向けての環境整備が加速しつつあることを実感する。

去る1か月近く前に台風15号が千葉県を襲い、海岸線近くの住宅地にて壊滅的な被害を出したと連日報道され、その対岸の三浦側もただでは済まされないだろうと思っていたので、突端の三崎に近づくほど屋根の状態やブルーシートが気になる。
東京湾を望む三浦海岸に降りていくと、全般的には穏やかな町の風情ではあるが、海際の家屋にはブルーシートが今でも残っているお宅がところどころに残っていた。また、よく見ると屋根の一部が破損している住宅が目につく。
目の前は海を隔てて被害が大きかった鋸南町がくっきり見える地域である。やっぱりこの辺りも大きな被害を受けた地域なのだった。
我が茅ヶ崎とそれほど離れていない三浦地区は、大きな被害が出たとは報道されてはいなかったが、千葉の停電情報に隠れてそれなりの損害が出ていたことに心が動かされた日であった。

それはそうと、せっかくこの近くに来たのだからと剣崎近くの食堂に寄ったら閉館されたと思っていたこの施設が再開されたと知る。
旬の松輪の鯖が売り切れながらメニューに出ている。
昼食を済ませた後で、本日は残念でしたがまた来ようと明るい顔がせめてもの成果となった。

名物:松輪のサバでしたが

今なお台風15号の爪痕が残る
TOPページへ

10月を迎えて

令和元年10月1日

近年の季節感覚は温暖化の影響と言われるが、この10月になっても一向に暑さが収まる気配はなく、30度が当たり前の日々となってしまった。
昔は10月も10日ごろになれば日光の中禅寺湖畔では紅葉が真っ盛りだったと記憶している。
透き通るような青空は影を潜め、薄ボンヤリした空気がじわっと纏わりつく日々で「変な日が続くな」としか言いようがない。

このところ、箱根の天山温泉郷に通うことがしばしばで、その理由は西湘バイパスを車で通ればこの茅ヶ崎から30分程度で箱根の玄関口へたどり着いてしまうからだ。
深い渓谷の谷底にあるこの天山は、周囲を緑濃い木々に覆われていて、露天の温泉は都会に近いようにはどう見ても思われず、まさに奥山の別天地という環境下にある。
施設にはゆったりした無料の休憩室が揃っていて、木のアームチェアに身をゆっくり横たえると浮世のしがらみは皆忘れてしまう。
だから、ひとっぷろを浴びて、別室でゆったりお休みして、最後にもうひと風呂浴びて完了と老人極楽コースをわずか1000円にて味わうことができるので、行く場所が見つからないと我がおじいさんたちは自然とこの場所に行ってしまうのだった。
チェアーに横たわるとすぐ横の清流がさらさらと響き、水辺には秋を思わすススキの穂がお待たせしましたと咲き誇っていた。
暑さが続く今でも秋が少しづつ近づいてきたことを実感した箱根路でありました。

天山温泉郷にて
TOPページへ

彼岸花は今

令和元年9月24日

お彼岸の出口に近い9月の24日、昨今TVなどで有名になった彼岸花の群生地日向薬師に出かけた。
事前に我が近辺にある茅ヶ崎里山公園でも、通常咲き誇っているはずの彼岸花がお彼岸の中日になってもさっぱり咲いていないと知らされていた。
伊勢原からの日向薬師への道は、これだけ紅い目立つ色のはずが緑一色で花々の片鱗さえ見ることができない。
そして薬師さん近くになると畑の土手にまっすぐに伸びた茎だけが、赤いつぼみを抱えながら咲く体制を整えていた。
おそらく数日後には真っ赤な赤色で咲き揃うのであろう。
あまりにも心残りの残念な状況である。咲くのでもなく、まったく時期外れでもない。数日後に来れば良いのであり、この中途半端さが気持ちをいじけさせる。
この夏の異常気象が彼岸花の咲く時期さえ狂わされた。
おじいさんは悔しい。数日の狂いなのが余計悔しい。

さっさと諦めて松田の「おおい夢の里」に向かう。しかし残念ながらここの農産品直売所もお休みとダブルパンチ。
せめて、この地で開催されていた案山子コンクールが心を慰めた。
ユーモアあふれる人形像はいろいろあったけど、これで今回は良しとしようかと爺ちゃんたちは大円檀としたのであった。

おおい夢の里にて(彼岸花も開花寸前)

かわいらしい案山子
TOPページへ

二宮の由来

令和元年9月10日

台風一過でもこの湘南地区は台風の中心が東側を通過したので、比較的軽度な被害となり、通行には支障がなく出かけることとなった。
いつもは通過する東海道線の二宮駅の西側にある川勾神社に寄った。
ここは数十年前に二宮近辺を会社仲間でハイキングした際立ち寄ったところで、珍しかった藁ぶき屋根の表門が印象に残っていたからである。
久しぶりの表門はその姿をそのままに「これだこれだ」と感慨深く眺め直した。

この神社の説明板には、ここが相模の国二の宮と言われる古社で、昔から地元では大切にされてきたお宮と記載されていた。
そしてここから二宮町と言う名ができたことを初めて知ったのである。
吾妻山の西に位置するこのお宮には伊藤博文公が揮毫した神社の額もあり、由緒ある格式が随所に見られた。

この歳になると神社や仏閣に更なる親しみを持つようになるのは致し方なかろう。それも有名すぎる大神社ではなく、地元で大切に保存されているほっこりした小さな社に親しみを感じる。
昨今も大山山麓の日向薬師、蓑毛の宝蓮寺・大仏堂、ちょっと大きいけど伊勢原の出雲大社相模分祠、大雄山と吸い寄せられるように出かけるのはお迎えも近いということなのであろうか

川勾神社正面

懐かしいな〜
TOPページへ

この夏一番の絶景ポイント

令和元年8月24日

いよいよ夏も終了の兆しで、朝晩の空気が心なしか涼しくなってきたようにも思う。近隣は行き尽くした感があるが、無理をせず近くへとドライブに出た。
この日は土曜日とそれなりに混むものと思い、まだまだ大混雑の湘南の海岸線を避け丹沢の方向に自然に足が向くのは成り行きであろう。
伊勢原から更に奥に向かうと道なりに宮ケ瀬湖に向いてしまう。
いつもながらだと思いながら、湖入り口での案内板を見ていたら、ここのダム本体を一度も見たことがないと気付かされた。

よく来る場所だからだとそれほどの期待は抱かなかったが、いつもの道とは違う道をダムそのものの傍に来てみると、宮ケ瀬湖の湖面しか見たことが無かった私にはダムの下流側は想像さえできない。
ダムの上からは黒部渓谷でも行ったようなインクラインというケーブルカーがダムの下まで4分で運んでくれると教えてくれる。(なんだか凄そう)
それではとインクラインに乗り込んでみて、ここで初めてダムの全容を横から見ることができた。
何という大きさ・高さだろか、ダムの高さは156メートルと急激に狭まる渓谷を覆い隠すような全景と、思っているよりはるか下に中津川渓谷が見える。
インクラインの最大傾斜は45度といやはやビックリの急傾斜で急速に谷底めがけて駆け下る。
山麓駅でインクラインを降り、改めてダムを見上げてみると深山に突然どっしりした高層建築物が現れたような圧倒的な存在感で度肝を抜かれる。
下を流れる中津川はV字型の深い渓谷を形作っていて、周りを見回してもこれが首都圏近くの山河とは思えない凄みを持っていた。
ここはよくあるような穏やかな平坦な下流地域を従えたダムではなく、難攻不落な深山に突然現れた天を突くような大型ダムの姿であった。

これぞ遠い遠い昔に行った黒部ダムを思わせるような大迫力の絶景ポイントであった。感激することが少ないおじいちゃんは、久しぶりに「エガッタ、エガッタ」と連発しながら、この地をあとにした。
残念だったのは、今日だけカメラを持参しなかったことで、せめてダムの公式ページを転用したのが心残り。我が感激の少しは判っていただけるだろうか。

迫力満点の宮ケ瀬ダム全景(愛川町ホームページより)
TOPページへ

樹木希林さんを想う

令和元年8月15日

鎌倉の書店で樹木希林さんの本「一切なりゆき」を購入した。
それは書店の販売員が鎌倉風致保存会の幹事さんで挨拶でもしようかと思ったからである。残念ながらその店員さんは居らず空振りであったが、バツが悪く積んであった本を購入したのだった。

本は読みやすい新書サイズで時節柄目に留まる樹木希林さんの穏やかな顔写真が表紙を飾る。
中身はすでに掲載されて数々のインタビュー記事からポイントを抜き出したもので、我が偏屈おじいさんにはなんの印象も得られない。
それはTVにて彼女のドキュメント番組を見ていたからである。おそらく、その編集が彼女を充分過ぎるほど見事に描き切っていたせいだろう。
TVでも映されていたが、本の最後に彼女の葬儀の際に読まれた「喪主代理のご挨拶」がやっぱり感激もの。
それは長女の内田ややこさんが語った樹木希林さんからの夫「内田裕也」さんへの想いである。
自分でさえコントロール出来かねる一方的な旦那さんへの愛は、どんなことが有っても最後まで貫き通した。それが彼女は思い通りの納得の仕方だったのである。
風変わりな旦那はこれまた自分の偏屈さを自覚しながら、結局最後は白旗を出さざるを得なかった。
彼女の見事な人生の幕じまい、これぞ我々おじいさん方の理想であろうか。

現世に何の悔いも残さず、お盆でも悠々と天界で楽しんでいるらしいご夫妻の姿を思いながら、無事との名目で日々を過ごせるわが身を感謝するばかりである。

達観された心境なのであろうか
TOPページへ

天狗さんのお住まい・大雄山

令和元年8月13日

奈良や京都にある山岳霊地を思わせる足柄の大雄山は、立ち並ぶ塔頭の荘厳さや取り巻く杉木立の佇まいが、深山に分け入った信仰の聖地であることを実感できる関東では珍しい寺院なのである。
昼なお暗い森の中に忽然と現れれてこそ、きっと天狗さんが住んでいるだろうと思わせる絶対条件なのだと思う。
この日は台風の余波か、雲に隠れた薄暗い堂内は黒々と左右に天狗さんが睨みを利かせていたのだが、10メートルを超えるすすに汚れたような全身はよくよく見ないとお顔の表情さえ判らない。

その時雲が去り、夏の日差しにより窓の外が急に明るくなった。
そこにはそのバックライトで光を浴びた天狗様の2体が急にいきいきと目の前に迫ってきたのである。
右の1体は天狗様象徴の突き刺すような高い鼻を持った「鼻高天狗」でこれがよく見る天狗様のお姿、左の1体はとがった嘴から間違いなくカラス天狗のお姿であった。
と言っても信仰深い日常があるわけでもなく、この天狗様のお名前は間違いなく小学校時代のマンガ本での知識であるはずだ。
お堂の中にはよく見るヤツデの葉っぱを思わされる天狗さんの団扇がそこここに並んでおり、お懐かしやとの親しみさえ思った。
鞍馬天狗に夢中の子ども時代に戻った私メは、修験道の聖地としてではなく懐かしい昔の少年時代に引き戻された時間でもあった。

これぞ遠い先祖を思わせるお盆のひと時なのであろう

緑濃い中の塔頭群

名物「天狗のゲタ」
TOPページへ

「花も嵐も」を読む

令和元年8月11日

突然ではあるが女優・田中絹代さんの生涯「花も嵐も」を読んだ。
下関の貧しい家に生まれながら、家族がおじさんを頼って難波に出て、家計を助けるため少女歌劇に出演したことより、松竹の京都の撮影所にて認められ、その後鎌田撮影所から大船撮影所に活躍の場を変えながら、67歳で亡くなるまで女優として活躍したと記されている。

昭和11年撮影所が大船に移転する時期に合わせて、彼女の自宅がその時開発されたばかりの鎌倉山の一等地に大豪邸を築いた。
この地には近衛文麿総理大臣、徳川公爵、オペラ歌手・藤原義江、など政界財界のトップの方が購入した超高級住宅地帯の形成時でもあったのだ。まさにこの時期がひときわ輝いた日本の注目地帯であったのだろう。
昭和40年親族の介護に専念するようになり、それ以降鎌倉の町並みで買い物や飲食がされたエピソードが書かれていた。
体調がすぐれなかった老齢期の差しかかったころ、鎌倉駅前の東急ストアのエレベータにて転倒し、しばらく動けなくなったことや、入院しても由比ヶ浜通りの「つるや」に大好きなウナギを買いに行かせたことなど、この街への愛着も感じられた。

今より更に輝いていた鎌倉の地の繁栄を知るにつけ、ますますこの地の奥深さを感じたのである。
それにしても亡くなった時が1977年のころではあるが、我が現在の年齢の74歳より大幅に若い年代で鬼籍に入ったことになる。
わが身がすでに長寿の域に入ったことを感謝すべきなのだろう。

田中絹代さん

田中絹代さん(2)
TOPページへ

お盆の時期に入りました

令和元年8月10日

猛暑も連日35度越えで、2000メートル近くの本格的高原でなければ、とても快適な保養には出かけられない。
とならば、森に囲まれた寺社で心を静める時を過ごすことなのであろうか。
日ごろ静謐な空間に癒される日向薬師も、傍を流れる渓流には若い人たちがキャンプの真っ最中で、おいしそうな匂いが漂ってくる。
おじいさんたちはそんな光景にも惑わせられることもなく、ひたすら薬師さんの功徳を願いつつ、お祈りに専念するのは人生の先輩の優等生を具現化したものでしょう。
とはいえ、空腹感がじわじわと骨身に浸みてきたのは致し方ありません。
それでは、国道沿いにあるファミリーレストラン「不二家」で明らかに選択を間違えた、ピザとかピラフでも食べて我慢するのも背に腹は代えられないとの声に堪えながら、私メは一度行ったことが有る秦野・弘法山山麓にある「めん羊の里 木里館」に引き入れたことは大正解。
天井が高く、中は間違いなく信州の山小屋の雰囲気で満たされたリゾート気分溢れるこの室内で、熟年向け昼食コースを選んだのは幹事の好判断と言わねばなりません。
座席からは窓越しに丹沢の山並みが額縁のように眺められ、居ながらにしてリゾート気分でお得感いっぱいの至福の時間となったのです。
志賀高原まで行った気分で、ローコストお買い得ツアーは秦野・弘法山にて、おじいちゃん方大満足の慈悲溢れるお盆ツアーは感謝・感謝のありがたい、ありがたいと念仏が響く(単に年寄りの寝言・つぶやきかも)お開きとなりました。

ありがたや日向薬師さま

秦野「めん羊の里 木里館」の前で
TOPページへ

夏の須走に行く

令和元年8月6日

夏のドライブなら涼しい高原地帯がより望ましいのは当然でもあろう。
富士山麓では割合マイナーな「須走」に出かけた。
この場所は御殿場の近くとはいえ、めったに若者がわいわいがやがやと歩き回っているようには見えず、自衛隊の施設がある静かな高原の小さな集落でしか見えません。
まずは、隣が自前のワサビ畑に隣接する日本蕎麦屋さんで、ワサビの摺りおろしが付いてくるちょっと太めのソバをいただきました。
木々に囲まれたいかにも涼し気な静かなお店で、名物のわさびいなりとともにゆったりした気分で時間を過ごせました。
2度目の富士浅間神社は、正面入り口横にあるほとばしるごとく流れ出ている滝が強烈にこの富士の湧き水の力を思い起こさせてくれます。
この水の力こそが神社を建てさせた源泉でもあるように思えるのですが、自然への畏怖は境内の杉の大木や、富士噴火の際の飛んできた火山弾などが置いてある境内を通りながら、この地が深い富士崇拝の中心地であることを改めて実感いたしました。

盛夏真っ最中の富士山麓ではありますが、関東地方全体が35度の猛暑の中、ここでは木漏れ日が溢れる森の中でも冷風吹き渡るまではいかず、秋風が恋しい中途半端な旅でもありました。
なお、残念ながらこの日は富士の霊峰が全く見えなかったのですが、これもさび抜きの寿司を食べたようなすっきりしない原因なのかも知れませんね。。。

立派なワサビ畑が異次元を感じます

滝の水音が印象的です
TOPページへ

日本橋界隈を回る(2)

令和元年7月29日

本日のメインイベントは日本橋の橋の横から出ている東京湾クルーズで、こんな車の行き交う繁華街から出航する不思議さを想う。
船は日本橋川を下り墨田川に向かうのだが、見慣れた街並みも船の上からでは形相も一変するから新鮮な心持ちで楽しめる。
それにしても白髭橋、勝鬨橋、佃島、築地など足を運ぶ機会もすっかり減ったなあと、花の東京に背を向け田舎者になったことを改めて感じたのである。
東京オリンピックに向け、この湾岸地域は大きく姿を変えつつあり、特にタワーマンションの林立する眺めが、ひと際印象に残った。
そして完成近い選手村の威容は、その象徴でもあろう。

船が日本橋に戻り、野村證券の横を東京証券取引所の佇まいを眺めていこうと相成った。
時間が早ければTVでも良く映る取引の現場を間近に見学できるらしいのだが、本日はすでに取引が終わっていて、玄関先で失礼させていただき石の縁石に座ろうとしたら、ここは敷地内だからとご注意を受けたのは悲しい庶民のせいであろう。(シッツ、シッツとのことですね)
この夕方では生々しい兜町も一息ついた感があり、夏の日差しがじっとり差し込む夕方の街中は、行きかう人々も少なく本日は業務終了ですと言っているような白々しさが漂っていました。
打ち上げは日本橋川に面した居酒屋で、紀文のはんぺん、山本山の海苔料理など この近くの名店の名品をいただき大満足のうちにお開きとしたのです。

クルーズはかわいらしいお船でした

う〜ん、立派で高そう。。。。
TOPページへ

日本橋界隈を回る(1)

令和元年7月29日

やっと目覚めたこの夏の7月29日・12時半の真昼間、日本橋の橋のど真ん中に集合と相成った。何とも不思議な集合場所にはいつもの3人組で、めったに行かなくなった日本橋界隈は来年の東京オリンピックの準備真っ最中でもありました。
私メはと言えば、初めて上京してきたような感覚で、橋の傍にあるインフォメーションセンターに駆け込み、美しく涼し気な浴衣姿のお嬢さんに団扇をいただく光栄に預かり、これで国に帰っても自慢できると意気込んだのであります。
折しもミニスカート姿の美しい長足をどうだどうだと闊歩する女性に遭遇する幸運にも恵まれ、生きてて良かったと感激しながら夢のようなひと時を過ごさせていただきました。

「山本山」にて上品な昼食を取り、最初のツアーの行先は三越横の日本銀行本店をぐるっと1周させていただきました。まさにTVでしか見たことの無かった日本の心臓部は思って以上に広く、鉄壁の防備を備えた要塞に見えます。
事前にお知らせいただければ、消費税10%反対の鉢巻き姿にて正面玄関でシュプレヒコールをするのですが、その機会を失ったのは残念であります。

真夏の歩行は思いのほか疲れやすく、まるでパリの街中にいるような緑の木陰にてコーヒーを飲みながら、道行く人たちのファッションを眺めしばし時間を過ごしました。
茅ヶ崎での同じ時間帯は年金手帳を持ったじいさん・ばあさんの行き来ですが、ここではスカート姿が目立つ華やかなお嬢さんたちの行き交うビジネス街の姿で、これぞあこがれのオフィス街の風景なのかもしれません。

日銀本店の勇姿

日本橋の橋傍のオリンピックマーク
TOPページへ

今年も半年が過ぎました

令和元年7月10日

7月に入って夏休みの声を聞けば、令和元年も半年が終わったことになる。
今、企画しようとしていることはすでに11月のイベントの話で、この調子なら来年春のことが俎上に上がっても不思議ではない。
だましだましの健康状況で体の動きが鈍きなったと話しても医者に言わせれば「お歳ですから」とすげないご返事。
とりあえずは手帳をめくりながらダブルブッキングをなくすよう、調整ができるだけ予定が入ることは、暇で困ることがない人から見れば幸せと言えるだろうか。
旅もそれなりに楽しみました。近隣へのドライブはいつも新鮮で楽しまさせていただいています。
そして、自治会でもボランティア活動でもいつの間にか中心集団で活動するようにもなりました。
それで良いじゃありませんかと自分には思えています。
移り行く日々を何事もなく過ごせることが幸せと言っていられる今が大切です。

それにしても今年の梅雨は日の照らない天気が続き、家の中にはいつも洗濯物がぶら下がっている。しかもうすら寒い日ばかりで これではよほどのことが無ければ外へ出る気さえない。
夏休み間近の厚木近郊の宮ケ瀬湖に行っても元気で駆け巡る子供たちの姿が場違いと感じてしまうほど夏の景色とは思えない 寂しさ。
夏はこれからいらっしゃるのでしょうか。

カヌーも準備万端

宮ケ瀬湖も夏とは思えない
TOPページへ

超お買い得草津行き1泊旅行のご褒美

令和元年6月6〜7日

老人は暇なのです。だからサラリーマンのように休日でなければダメ、あるいは気候が優れた時期を選ぼうなどとのうがくこともなく、勝手気ままに旅を楽しむことが出来るのです。
超大型連休の後で、まさにシーズンオフの草津へ出かけるツアーは珍しくネットでの旅行申し込みとなりました。
それにしても一流旅館に泊まり、都内から草津の往復が特急列車付きで何と2万円を大幅に切る料金で行けるというのは夢のようなお話でした。
お昼過ぎに着いた草津の湯畑は、「ここだ、ここだ」の大興奮で、私がコンダクターとして引率した責任上、説明にも力が入る所以でもあります。
そしてその前にあるホテル一井が今夜の宿泊ホテルなのです。
こんな立派なホテルにほんとに泊まれるのかと疑問に持った我々に、超お得コースの訳ありの理由は長期にわたる増築が続いた結果、本館から廊下とエレベーターで別館にたどり着いた後、そこで更にエレベーターを乗り継ぎ、長い廊下を歩いて先の西館が我が宿泊先となっていたのでした。
おかげで風呂に行くにも食事に行くにも、乗り継ぎエレベーターの階を確認しながらの大移動、すっかり足腰が鍛えられる結果となりました。

それにしても第1日目は高原の涼風が心地よく感じる好天に恵まれ、お散歩先の賽の河原はまさに極楽・極楽の別天地でありました。
ご同行のおじいちゃん方は「生きててよかった」などとどこかで聞いたようなセリフを吐かれ、今度は連れ合いと来たいなどと感激しきりの光景はすっかり極楽気分とお見受けしました。
そして草津へ来てアッチッチの大浴場は当然大満足で湯上りのビールがこれに輪をかけます。
しかしながら次の日は朝からドシャブリの雨模様、それでは風呂に入ってゴロゴロが一番でしょうと和やかに時間を過ごしました。
ご近所やご自宅へのお土産選びに充分時間を費やしながら、昼前に草津をたち夕方前に自宅にたどり着いた我々はこれぞ老人旅行の本分と、どうだどうだの満足感でいっぱいの旅行を締めくくったのでした。

草津温泉・湯畑の夜景
TOPページへ

厚木の奥座敷・広沢寺温泉を訪れる

令和元年5月20日

このところ、出かける日になると雨模様になることが多くなった。
それなら、こんな時は温泉でしょうとすっかり老人も熟練の域に達したのであります。
箱根も行ったし足柄も慣れたから、箸休めに近隣ではあるが、厚木の郊外にある 大山山麓の七沢地区にある広沢寺温泉に行こうと相成った。
平日の温泉地はひと際ひと気が無く、この広沢寺は同名の禅寺に隣接する一軒宿の昔ながらの風情ある宿でありました。
玄関を入ると昔映画の撮影に使用されたという、昔ながらの佇まいに懐かしい昭和の香りを濃厚に残し、我がじいちゃん方は温泉に入る前に壁いっぱいにある俳優の色紙や昔の(こ汚い)ポスターに感涙したのは致し方ありません。
温泉はアルカリ質の強い、ちょっとヌルヌルとした美肌になる湯で、いい湯加減のかけ流し温泉でした。
実はその1週間前、近くの七沢にある温泉施設に行ったのですが、ここは普通のお風呂屋さんだったため沸かし湯に不満が寄せられ、それなら本物の温泉へ行こうとなった訳でもあります。

湯を出て休んでいると、とても親し気なお兄さんがビール片手にわが同僚たちと親し気に話が盛り上がっていたのでした。
傍に寄り添う奥様が「この人は話し始めたたら止まらないんだから」とひっそりと話していました。
一息ついたその時に「ここで」と切り上げたのですが、女湯に入られていたこの奥様には一面の入れ墨があったと帰路に教えてくれました。
旦那様も言われてみれば同じように入れ墨が入っていたのでしょうね。(見なかったけど)
でも今はとても人の好さそうな夫婦の姿を見て、きっと幸せなんだろうなと思いました。お幸せに。。。。

1軒宿の広沢寺温泉

お風呂は赤い橋を渡った先です
TOPページへ

天からの贈り物・歌舞伎座へ出かける

令和元年5月13日

私自身が急に教養深い心境に変化し、日本の文化伝統に目覚めたとしても、大金を払って歌舞伎を見るなどと言うことは考えもしないだろう。
突然、友人のO氏から、3日先の歌舞伎座チケットを持っているが、相方が行かないのでご同行する気はないのかとお誘いがあった。
チケットは2万円近くの特等席で、幸い当方の予定がなかったので、ためらうことなど一切無しに「はい、行きます」と返事をした。
その日の午後4時に東銀座駅上の歌舞伎座玄関で待ち合わせたが、集う人たちは、我が自宅近くのおじちゃんやおばちゃんとは人種が違うのでは思えるほど品格卑しからざる方々が美しく着飾ってご入場されているのでありました。
当方もそれなりのいでたちをと思ったが、急に品格が上がるわけがなく、青木のスーツを買う時間さえないので、普段の外出着でご勘弁をいただきました。

さて、歌舞伎座の中と言うものは随分横長なのですね。
そして左右の両端に桟敷席があり、西洋のオペラ座のような構成。(行ったこと無いけど。。。。)
前から15列の席では舞台がちょっと遠い。
演目はこんな題目で、役者はこんな大物で出ているのよと言いたいが、突然歌舞伎座に駆け付けた当方には、白塗りの役者さんがお出ましいただいている関係で、どれが人気者なのか、はたまた見せ場はどこなのかもサッパリ判らず、ただただ大軍団の絵巻物を食い入るように見続けたのでありました。
それにしても色鮮やかな舞台衣装の数々と浮世絵で見たことのある、だんだら模様の化粧を施した顔のすごさ。
1時間近く踊りまくった尾上菊之助の娘道成寺の体力に役者さんも大変だなと同情さえ思ったのでした。
成果と言えば、女形の所作が女性よりも女らしいことを身をもって実感したことでしょうか。
外へ出ると、すっかり様代わりした銀座の夜景が異次元からの脱出をまざまざと見せつけてくれたのでした。

豪華歌舞伎座チケット
TOPページへ

荒崎海岸にて

令和元年5月8日

それは若い時分だったが三浦半島の荒崎を訪れたことが有った。
足元もおぼつかないほどギザギザ模様の海岸線をスイスイと歩きまわったのであろう海岸線には、台風で寸断されたであろうコンクリートの遊歩道が無残な形で残されている。
今の我々にはこんなデコボコの足元では進むことさえできないと、即歩行中止と判断された。
昔はハイキングコースだったはずであるが、今ではご老人には危険極まりない健脚向けアドベンチャーコースに衣替えしたのかもしれない。
皆こんなはずではなかったと語るのだが、それはじいちゃん方の足元が老化したのであろうか。
冥途の針の山を思わす、縦縞の海岸線には「危ないよ、ほれほれ」と心配する声ばかりが響き、とても爽やかに磯遊びする光景には見えない。
これぞ名の通りの荒崎海岸なのであろう。

連休も明けた湘南海岸はぼちぼち海の家が建ち出している。逗子の広い海岸を見下ろしながら、こんなゆったりした気分で(イライラしないで)通り過ぎるのもしばらく訪れないだろうなと思う。
折しも海風が強くなり、海の上の帆を腹ませたサーフボートが矢のように走り去っていく。湘南はいよいよ夏に突入して行くのである。

ギザギザ模様の荒崎海岸

立岩で有名なの秋谷海岸
TOPページへ

この10連休を静かに過ごす

令和元年5月6日

おそらくこんなに全国一斉で10日間もお休みが続くことは今後ともないだろう。
遊びなら絶好の機会であるが、我がじいちゃん連中には365日の大連休なのである。
そして新天皇の即位が、国家の中心行事でその関連報道でTVも大忙し。
当方と言えば、YU−ZUルームの手伝い人数が不足しているから、暇なら来てねとの 臨時招集人員の中で活躍の場があるのがうれしい限りである。
連休三日目の29日は地元自治会の草遊祭で恒例のお祭り騒ぎが大イベントかな。
その後はどこに行っても混むからとなすがままな自堕落な毎日が続いた。
それにしても天気は上空に寒気の塊が居座り雨の日が多かったことと、晴と言っても どこか薄いベールで被われた日差しが弱い日ばかりで、すっきりとした晴天は5月5日の午後になってからの半日だけ、4月29日から連続8日間は「おい、はっきりしろよ」との変な気候が続きました。

終ってみれば令和改元記念の特売エアコンの購入が金を使った唯一のエポック。
YU−ZUルームでのボランティア奉仕は、とりあえずお役目終了。
静かと言えば静かな10連休でありました。

この春は我が家のチューリップが見事でした。この連休で庭の花の入れ替えをしました。
TOPページへ

今年の桜はこれで見納めです

平成31年4月23日

連休を控えたこの時期に箱根に出かけた。
小田原から箱根への道はもう数日過ぎれば大混雑の渋滞でイライラの日々が続くのでしょう。
今日は西湘バイパスもその後の箱根新道も、何の障害もなく芦ノ湖に到着。
小田原近辺の平地ではすっかり葉桜になっているのに標高の高いこの地は今が桜満開の時期なのである。
山桜が山肌をピンクに染め、ひっそりと咲き誇ってもいるのもいいものですネ。
目立ったのが小さめの星を散りばめたように咲いている「小桜」と言われる品種なのでしょうか。清楚を絵にかいたようなおじいさん好みの桜でありました。
今日は下界では気温20度の快適な環境と天気予報は報じていましたが、この芦ノ湖畔は風にあたれば上着が要るやはり山の中なのです。

何の気なしの訪れた湖畔の箱根園もソメイヨシノよりちょっと白い(おそらく大島桜でしょう)桜の大競演となっていました。
いいな、いいな、などと緩やかな下り坂を湖畔に向かって進んでいると、ぱっと広がった芝生の真ん中にドドンと1本の桜が聳えていました。
「1本桜」とよばれている100年を経た大島桜は植えられた時3本をまとめて1本に仕立てたおかげでぶっとい幹を形作っています。
それにしても桜の花がまったく隙間なく咲き誇り、こんもりと丸々とした花の大軍団は完璧な桜の名木なのでありました。
見事過ぎる花の乱舞は、「ああ、これで今年の桜は卒業」と納得したのは言うまでもありません。
帰宅後、夕方の民放TVニュースを見ていたら、今行ってきたばかりの箱根園の1本桜が紹介されているではないか。
ああ、「明日からの現地は大混雑だな」などと呟いたのであります。

箱根園の名木「1本桜」が満開
TOPページへ

くりはま花の国を歩く

平成31年4月16日

もうすぐ10連休なので、混雑する江ノ島近辺を通れるのも今だけだねと話しながら、順調に海岸線を逗子の方向に進む。
そして、ちょっとかすみがかった富士山を長者ケ崎で眺めた。
「静かでいいなと」などとのほほんと言えるのは夏前のこの時期の特権だろう。
車で溢れかえるのはもうすぐなのである。

今回はよくTVなので紹介される「くりはま花の国」を訪れた。
公園入口までは桜のトンネルが100メートル近くは続き、10日前であったらさぞかし素晴らしい光景だったのだろうとちょっと残念。
公園は傾斜地の谷戸の奥まで今回はポピーの花畑が続いている。咲き具合はぼちぼちでこれから咲くのか、それとも終わりの名残りかが判らない。
奥の方には、これも良く見るが薄青色の群落で、残念ながら名前が出てこない。
連休前の静かな公園は、大騒ぎするほどの混雑も見られず、穏やかな花の園がひろがっておりました。
駐車場料金が620円と高額で、園内の和風レストランでの飲食となれば半額になるとの案内より、吸い寄せられるようにお昼にありついたのが印象に残りました。
しかもその目の前にてつっころんで手首と膝を打ってしまったこともお恥ずかしい話でした。

長者が崎からの富士はボンヤリ

くりはま花の国は花盛りでした
TOPページへ

厚木七沢森林公園はへとへとになりました

平成31年4月13日

桜満開はまだまだ続いています。
ちょっとした山間部でもある厚木の宮ケ瀬湖は、枝垂れ桜が印象に残る春爛漫の華やかな光景が、休日ならではの観光地として賑わっていました。
我々がいつも行くのは平日の昼間ばかりですが、今日は春うららかな土曜日のお昼近くで、時節柄桜の木の下では近隣のおじさん連が酒盛りの真っ最中。
これぞ日本古来のお花見の風景なのでしょうね。
残念ながらご同輩は酒の楽しみもなく、別会場で行われていたアウトドア用品の展示・即売会場に目が向いたのは苦し紛れの反骨精神でしょうか。
そこは、どこから集まってくるのか若者ばかりで、様々なオリジナルデモテントの山で会場は大盛況。
屋外となれば芝生にムシロをしいて大宴会が当たり前の時代を過ごした熟年世代には考えられない個別快適空間確保のマイスペース。
ここまで差をつけられると尻尾を巻いてさっさと会場を後にしたのであります。

帰路、日頃気になっていた七沢森林公園に立ち寄ったのが運の尽き。
小奇麗な県立公園は別にどうってことない林の周遊コースだと思っていました。
しかし、目の前に現れたちょっとした階段は覚悟しろよと挑戦的な急登が見え、これだけならば頑張ろうと登りついたその先には、やるならやってみろと更なる階段が続いていたのです。
これは完全な山登りで、尾根までハアハア言いながらの高齢軍団は、たどりついた展望台でも歓びの声とはならず、「もうだめだ」との声で溢れたのでした。
幸いにもけが人も出ず、靴の底が割れたとの1名をなだめながらも入り口に戻ってきましたが、これのどこが森林公園なのかとの怨嗟の渦が最後までつぶやかれていました。

宮ケ瀬湖は桜満開と心ウキウキ

七沢森林公園からは大山の勇姿が綺麗でしたが。。。。
TOPページへ

弘法山でジンギスカン

平成31年4月9日

この時期桜はどこに行っても華やかな競演が楽しめる。
ここも有名な秦野の弘法山に行くこととした。
駐車場からは目の前の急坂を上ることがしんどいが、そこからは尾根道をゆるりと歩けば展望台に到着する。
今年は満開の時期が長く、ここでは盛りを過ぎた葉桜も見られたが、今を盛りに咲き誇る大木も散在する。
今日は富士の姿もしっかり見え、湘南の海も一望できる絶好の天気で、お花見には最高の時期でもありました。

さて、ここで気になったのは駐車場横にある羊が放牧されている牧場があることで、しかもその横ではジンギスカン料理が食べられる小奇麗な山小屋風レストランさえ鎮座されていたのであります。
「桜もいいけどお肉もね」と我が老人部隊は吸い込まれるようにジンギスカンの定食を注文。こっちの方がうれしそうで、お花見はお肉をつつきながらの大宴会ともなりました。
おりしも牧場の羊さんが大きな声で雄叫びをあげ、その声を聞きながら今食べている羊さんはこの牧場のお方ではないですよねとささやきあったのであります。
どうも生生過ぎていけませんな。。。

弘法山の羊のいる牧場

尾根道は葉桜の一歩手前でしたが
TOPページへ

円覚寺での花会を訪れる

平成31年4月6日

久しぶりのお花の発表会である。
ころは桜満開の円覚寺・松嶺院、観光客で大賑わいの山門にはさすが鎌倉の代表的な寺院らしく、国際色豊かな言葉が飛び交っている。
そんな中、いかにも不似合いの当方ではあるが、鎌倉風致保存会のつてでご招待いただけたのが光栄の極み。
塔頭の中に飾られた花々は、ごてごてした花の競演とは対局的なシンプルイズベストの清楚ないでたちに心を洗われました。
少ない色数と少ないポイントで全体を集中させるのがこの流派(花雅流)の特徴で、奇をてらわず正統派の品格を感じたのが素人なりの感想。
いつも思うのだが、残念ながらこのような生け花は当方にはとても活けることができないと、ただただ脱帽するばかりである。
生徒さんたちは聖心女子学園のお嬢様たちとお見受けしましたが、素敵な着物姿に見とれたのは罰当たりというもの。
それにしても高貴なご趣味の高貴なお方のお集まりには、どう対応すべきかも判りません。
夢のような別世界を見させていただいた後の円覚寺は若葉が陽光に光輝く別天地でありました。

新緑薫る円覚寺山内

お花の会は円覚寺山門前のシャクナゲのような気品を感じました
TOPページへ

イノシシの悲しい姿も春の夢か

平成31年4月2日

この神奈川県の中でも丹沢近くの足柄地域は一段と鄙びた山村が残ってもいる。
箱根越え以前の東海道は小田原から御殿場を経由して京都に向かう道が整備され、多くの旅人でにぎわったが、今は足柄古道としてハイキングコースとして健在なのである。
箱根の華やかさとは対照的に忘れ去られた往還路は行き交う人も少なく、信州の山村を思わせる静かな山里がひっそりと息づく姿に驚かされる。
この時期桜の名所でもあるはずの夕日の滝に向かったが、今年は直近の寒さのせいで東京は桜満開と聞いても小田原ではせいぜい2分咲き程度のこれからが本番といった塩梅。更にはこの夕日の滝近くの山間部では更に1週間程度は時間がかかるだろうとも思えるなんとも残念な状況だった。

しかし、滝近くの農家の入り口には、今獲れたばかりのイノシシが生身をはがされ、皮だけのお姿で物干し竿に干されていた。しかも現役世代をほうふつさせる目鼻立ちがなんとも哀れ。
ここには別の竿に風雨にさらされ続けたイノシシさんが5・6頭以上もずらっと成果を誇るがごとく並んでいました。その中には親子連れと思えるちょっと悲しい姿さえ垣間見えるのです。
農家の畑を食い荒らす悪代官であるイノシシの成れの果ては、ボタン鍋の材料としてお姿を変えておられました。
「クマにまたがりお馬の稽古」で有名な金太郎さんの故郷は、様々な野生動物の宝庫なのでしょうね。
日本昔話しの世界に踏み込んだ山里の世界を堪能した夢の1日となりました。

イノシシさんの変わり果てたお姿

桜はまだだけど桃が満開
TOPページへ

ハナニラ満開

平成31年3月28日

我が庭では年1回4月まぢかのこの時期に庭を覆い尽くすほどの白いハナニラが咲きそろう。
そこには大輪の白水仙も中央をオレンジ色の輪で飾られながらも咲き誇り、釣鐘状の白い花が印象的なスノーフレークもスズランのようなかわいらしい花々を恥ずかしそうに咲いている。
まさに庭一面が白い花々の競演ともなる見事な眺めになるのだった。
こんな時は庭にチェアーを臨時に持ち出し、「これは俺の庭」だと一人満悦するのは至福の時間なのである。

世間では年度替わりの時期ともなり、鎌倉での活動、地元茅ヶ崎での自治会活動など、それなりの成果を感じることに喜びと感謝を想う。
多くの仲間たちで相談しながら進める活動は、どんなことも思いの半分さえ達成しないとしても、とりあえずの一歩が踏み出せれば、それで良しとすべきなのであろう。
歳をとっても迷い思い悩む日々は一向に減らない。
それを甘んじて是認し続けることが日々の活力なのだろう。

ハナニラ満開で春本番
TOPページへ

大きくなった孫娘

平成31年3月22日

この4月で我が家の孫娘も小学校の2年生になる。
日に日に変わり続ける女の子は、驚くほどの勢いで女子に成長するのですね。
近所にこの4月から小学校に入学する子どもたちがいて、こども園の卒業式でもまだまだ親の傍にまとわりついて離れない。
つい1年前には我が娘も同じようなあどけない幼児像でしか見えなかったものが、ほんの1年間でいっぱしの生徒に変身してゆくのだから、じいちゃんの日々とは大違いでもあろう。

それでも「じいちゃん外で遊ぼう」と家の前の道路に白墨を持ち出し、“女の子”を描いた。そしてアッという間に3体が完成。
これも1年前とは大違いで、昔は絵の才能に乏しいかななんて言っていたが、今回は近所の小学生が「この絵はうまいね」などと言いながら横切ってゆく。
家の中では相変わらずの人形遊びで、部屋中一式を並べ回すのだが、勉強机の前で算数が判らず、ポタポタと涙を垂らす姿を見ながらも、日々成長し続けるいとしい孫の姿に元気をもらい続ける私なのでありました。

ストリート・アート完成(1)

ストリート・アート完成(2)
TOPページへ

無事過ごせたことを感謝

平成31年3月20日

今日は全国でも長崎から桜が咲いたとのニュースが流れた。
折しも本日の気温は20度越えで、すっかり春が本番の好天気。
庭は恒例のハナニラが咲き誇り、黄水仙も満開で、パンジーが冬の期間を守り抜いてきたが、ここに来て我が家の一番美しい時期を迎えつつある。
杏、玄海ツツジ、椿、これぞ春の到来を告げるうれしい景色で気分はすこぶるハイテンションは致し方あるまい。

わが身と言えば今日2か月ごとの定期健診で今回も異常なしとの説明を受ける。
病後2年が経過し、それなりに元気でいられるのにはただただ感謝するのみである。
歌手の内田裕也さんが亡くなって、それなりの年寄りなのだからと思ったが、よく考えてみたら当方との差は5歳で、考えればいずれも「それなりに楽しく過ごして来たじゃん」との評価をいただく歳にもなった。
年齢から考えれば、もう十分な楽しみは味わいつくしたともいえる熟年期。
これ以上の幸せなどは望むべきもないのかもしれない。
でもね、浮き立つ春の歓びが素直に感じられる昨今を感謝するのみである。

我が家のあんず満開

水仙も咲きました
TOPページへ

金時山での苦い思い出

平成31年3月12日

仙石原を走りながら、昔の職場時代に金時山に登山しながら、最後の急坂を登り切れず、一人だけ寂しく戻ってきたことを懐かしく思い出した。
それは、真夏の昼下がりで仙石原までバスで行って、そこから急坂を1時間近く登り肩の部分にたどり着きながら、目の前にそびえる更なる急登に“ここまで”と仲間に告げコースをリタイアした。
原因はギラギラの夏の日差しにバテバテになったことで、次の日に職場では“軟弱ものメ”とからかわれたのは致し方なき処遇。

この金時山からの下山では、仙石原のお寺で持っていたタオルに水を含ませ、体中を拭きながら汗をぬぐったのでありました。
しかもそれは寺の入り口にあった手を清める手洗い場で、本来神聖な場所で今考えるととんでもない罰当たりな行いなのでした。
当時はほんの小さな田舎のお寺ではあり、観光には無縁の目立たない場所でしたが、 今回改めて訪れてみると、しっかり整備された禅寺で、寺の裏手には様々な五百羅漢が竹林を背景に美しく並べられていたのです。
その表情はどれも独特なおかしみのあるしぐさに、芸術作品を見るような感激さえおぼえました。
こんな立派な禅寺に大昔の罰当たりを心で詫びつつ、若き自分を思い出したのです。
そして該当する手洗い場は当時のままに鎮座しておりました。
ごめんなさい。。。。

仙石原にて(長安寺)

仙石原にて(長安寺)
TOPページへ

房総の海岸地域を思い出す

平成31年3月6日

三浦半島は茅ヶ崎方面から鎌倉の海沿いを通り、逗子、葉山の高級な住宅地のその奥に立地している。
長者ケ崎のあたりは南ヨーロッパの地中海沿いを思わす白いモダンな建物が立ち並び、ニースやカンヌを髣髴させる憧れの建物が立ち並ぶ。
相模湾を望む海沿いの道はまさに別世界の踏み込んだ感さえある。
更に三浦半島を進むと段々と自然豊かになり海から離れていくと思ったら、丘陵地帯に 突入し、何とキャベツ畑が見渡す限りを占める大耕作地域になっていくではないか。
ここでは都市近郊の住宅地域と言うより、お百姓さんが活躍する農村としか見えない。
京浜急行の三浦海岸駅を越えて東京湾沿いに車を進めると、そのキャベツ畑の先には夏には海水浴場として大賑わいの三浦海岸が静かに横たわっている。
東京近郊のハイセンスな海水浴場は、今の時期は人影も見当たらず、さびれた田舎の海岸でしかなかった。
更に三崎に向かう道を進めると、どんどんローカル色が豊かになり、岩礁地帯にへばりつくように数十軒の漁師が住んでいる漁村が次々に現れる。
当方、昔から南房総の白浜あたりの鄙びた風景が好きだったが、この剣崎近辺の景色はまさにその房総そのもののようにも映る。
東京湾の対岸は房総の地でもあり、同じような環境下にあるこの三浦半島突端は、まさに地続きの親類同士の関係かもしてない。
とても遠くに来たような懐かしさが溢れた1日でもあった。

三浦海岸は房総が目の前

毘沙門海岸は房総の海岸と言われても不思議ではない
TOPページへ

結婚式に出かける

平成31年3月2日

めったにない結婚式出席で、しかも私の妹の長男となれば、まさに親族中の親族だが、とんとご無沙汰の日常にどうもその親近感が少ない。
結婚式は名古屋の熱田神宮と夫婦揃っての遠出も久しぶりで、女房も新幹線での移動がうれしいと洩らす。
しかし小田原から名古屋までは最速1時間強と都心に出る時間と変わらないのだ。
熱田神宮は名古屋駅から電車で15分程度の遠くない場所でありながら、何よりも深々とした木々の深さに驚かされる。これぞ神聖な空気が満ち溢れている聖地なのである。
式の前には名古屋名物「宮きしめん」を食べたのは、これも一興か。
さて、式をこのような高級な場所で行うのは初めてで、さすが有名な神社での結婚式は何から何まで荘厳で豪華。
我々の時は祝詞のバックグラウンドミュージックにテープレコーダーがお出ましだったが、ここでは正式なおじいちゃんが蒼蒼と演奏する。そして巫女さんたちが厳粛な舞まで奉納してくれる豪華さ。
おもわず、は、はぁ〜とかしづくのは自然の流れ。
この日は土曜日でもあり、我々が神殿の向かう道すがら、大勢の参拝客が羨ましそうにそのいでたちに注目する。
白無垢、はかま姿の姿で参道を進む一行に参加できようとは思いもしなかった。
参拝、そして奏上と厳かな儀式の数々には物珍しそうに人々が集まってくる。
披露宴は若者らしく、多くの友人に囲まれ、堅苦しさもない楽しい時間であった。新郎、新婦の幸せそうな姿を見ながら、女房は涙が出てしょうがないと語る。
天国の我が妹は心から安心してくれたに違いない。
ご両人に幸あれと念じ、帰途についた。

熱田神宮境内は大樹で覆われている

結婚式招待状のデザインも素敵
TOPページへ

春を迎えたソレイユの丘

平成31年2月18日

三浦半島も行き尽くした感がある中、この日は春本番を感じさせるポカポカ陽気となり、今回はソレイユの丘へ車を進めた。
ここは葉山と三崎の中ほどにあるちょっとした遊戯施設が備わった公園で、キャベツ畑が続く農道の先に広々とした子どもが楽しめる遊園地が突然現れた印象で観光地とはちょっと違うかな。
ソレイユの丘と言うのはおそらく北海道の富良野地区を意識した、緩やかな起伏を広い牧場と設定したのだろうか。
入り口を入るとまずは真っ黄色の菜の花畑が一面を占める地域で春いっぱいの空気を吸い込む。
周りを黄色で覆い尽くされるというのは何とも幸せな気持ちになるものだ。
その先に突然観覧車が「あれま〜」と思わす立派さで聳えているではないか。
横浜ランドマークの大きさには遠く及ばないが、周りに高い建物が存在しないこの地では、原野に突然観覧車が現出した唐突感が心を揺さぶる。
公園内には子供たちの遊戯設備(ブランコ、鉄棒や滑り台など)、動物と一緒に楽しめる施設や、キャンプ場そしてバーベキュー施設など、きっと子供連れで来ると終日楽しめるのだろうとも感じた。

我が老年の一団は、コンセプトとして体力消耗は避けることとして、1000円と平日限定のお買い得魚介バーベキューセットに満喫しながら、幸せを噛みしめたのでした。
特に小さいながらもサザエのつぼ焼きが付いていたのがベリーグッド。
ある方から、ここで熟年お見合いがこの地で実行され、お二人で備え付けの鐘まで鳴らす設備があるとも知らされた。
「あ、そう」と答えたじいちゃん方は何の感慨もなくこの地を去ったのである。

菜の花が春を知らせる

いいなあ!観覧車
TOPページへ

熱海桜を見に行く

平成31年2月5日

このところ毎日どんよりとした天気が続く。天気予報では晴との予報でも、お昼ごろからにわかに雲が出てうすら寒い気候が毎日となっている。
今頃は梅も咲き出し、河津桜の花の便りが聞かれるはずとあちこちに出かけるのだが、そんな曇天ばかりだから、どうにも気勢が上がらないのは致し方あるまい。
5日には前回消化不良の熱海に「熱海桜」を見に行く。そこは梅園の傍で、そっちは失礼して桜を見に来たのが目的。
全国的に見ても早い時期に咲くこの熱海桜はなんと満開を越えた時期なのであろうか、昨日の雨のせいでちょっとじっとりしているようにも感じる。
来宮駅近くの丹那トンネルの東京方入口の真上がこの桜の名所で、駐車した場所にはこのトンネルで事故死した慰霊碑が刻まれていた。
昔は、この丹那トンネルが日本最長のトンネルだった時期が長く続き、東海道線で名古屋方面に向かうと本当に長い時間を暗い闇の中で過ごしたことを思い出す。
今は新幹線だからあっという間に通過してしまうに違いない。
難工事に沢山の犠牲者が出た当時は、これも乗り越えることができたと感激のほうが大きく報道されたのであろうか。
桜並木の傍に立っている記念碑は今でも東海道線の真上にひっそりとたたずんでいた。先人たちの汗と涙がこの碑に刻まれていたのである。
桜の華やかさが印象とは別に、感謝の念を抱いてこの場を後にした。

満開の熱海桜

丹那トンネル慰霊碑
TOPページへ

芸術新潮再読

平成31年2月4日

残念ながら体力的にもヨーロッパ旅行が卒業の時期にいたった。
そこで書棚にある芸術新潮のヨーロッパ特集号をしみじみ読み返すこととした。
それは教科書を読み込むように丹念に記事を追ったのである。
○2001年1月号 イタリアの歓び
○2002年7月号 気になるガウディ
○2002年8月号 フランスの歓び
○2003年8月号 イギリスの歓び
○2003年12月号 ロシア・イコンへの旅
○2004年8月号 スペインの歓び
○2005年1月号 フィレンツェの秘密
○2005年3月号 ラ・トゥールの夜へ
○2006年8月号 ドイツの歓び
その気になって読み込んでみると、絵画や彫刻がその時代背景に伴って大きく変化していったことが良く判る。
一例として、時代が不安な時代には人物の表情に自信がなくなり、どこかうつろな目つきになっていることに改めて驚いた。
それにしても、ヨーロッパの各地でみたゴテゴテした宗教画や過剰な装飾で飾りつくされた王宮などを見るたびに、どこか受け入れかねる自分が居て食傷ぎみと感じていたが、今回多くの記事を読み込んでみると、それは間違いでなかったとも感じたのは収穫でもあった。
さて、これらの特集号は各々豊富な切り口を持ち、時間とお金をかけた取材が際立つ。だから薄っぺらの読み切り雑誌ではなく、何回読んでも新しい気づきが見出すのは驚かされる。まさに永久保存版となったのである。

最近の芸術新潮にはこのような踏み込んだ特集が少なく、腰を落ち着けた企画が影を潜め、表面上で読者に媚びる企画が目立つのは、意欲低下の証拠であるように感じるのは私だけではあるまい。

芸術新潮2001年1月号

芸術新潮2004年8月号
TOPページへ

春が来た

平成31年2月2日

最近はTVなどでもすっかり有名な大井松田の河津桜を見に行く。
昨年は会場下まで行って、駐車場が込んでいるので酒匂川対岸に車を置いて徒歩で坂を上ってくださいとの案内で大混雑の様子。
急傾斜の坂をえっちらおっちら上らなくてはならないと知らされ、そこまでしてまで行きたくないとあきらめた経緯があった。

今年は遠目には河津桜のつぼみも固く、全山ピンク色で染まる景色には遠く及ばない。
でもね、ここまで来たらと丘の上にある駐車場まで車を進める。(平気で会場まで登れることがうれしい)
そこでは、いよいよ開花の準備とばかり、屋台の準備とか電線の設置工事が始まる様子で関係する業者さんの動きがあわただしい。いよいよ開花の準備が最終を迎えるようだ。
さて、期待の河津桜は全体を見れば一分咲きにも満たないチラホラ咲いている花が散在する状態、その中で日当たりのよい場所に1本だけ枝の一部に花が咲いている桜の木があった。
早速カメラを構えて「はい、パチリ」春の証拠写真を撮ったのでした。
もうすぐこの地はピンク色で染まる時期を迎える。丘は華やかな喧騒に包まれるのであろう。その直前の一時は静かな観光スポットであった。

咲き出した河津桜の花

菜の花は満開だが河津桜の芽は固い
TOPページへ

熱海の梅園はちょっと早かった

平成31年1月11日

真鶴にて美味しい魚を食べたあと、ここまで来たからと熱海の梅園に向かう。
暖冬気味のこの頃だけど1月の初旬では梅の話題をまだ聞いたこともない。
この1月8日からの梅園の梅まつり開園で熱海の名所として宿泊客は100円、一般客は300円との入場料設定など、大勢の係員が対応していて観光客誘致に懸命の姿がかいがいしい。
我々に「お泊りの方ならお得ですよ」と声をかけてくださるが、残念ながら粋なお姐さんがお傍にいるわけでもなく、その対象ではないのがなんとも申し訳ない。
着いた時間が午後2時頃だったせいで、谷間となっている梅園は山の陰になってしまっている場所もあり、ちょっと遅かったとも感じた。
さて、肝心の梅の花は入り口近くが咲きそろっていた以外はチラホラと咲いている状態で、これからが期待されるとの感想。
平日でもあり、押し寄せる観光客でごった返すとはならず、それなりの込み具合であったが、ほのかに漂う梅の香りに春が近いことを実感したぐらいであった。
その中で満開の花と言えば、ロウバイの黄色い花弁がひときわ目立つ。

この梅園は近くの曽我梅園のように畑を埋め尽くすような平面ではなく、渓流に沿った谷筋に高低差がある和風庭園として形作られ、梅の花と周りの景観が変化あり、梅の花が様々な角度で眺められるのが魅力。
梅園の近くで咲くであろう早咲きの桜も申し訳なさそうにチラホラが咲いてはいたがなんとも欲求不満の気持ちが捨てきれず、2月ごろの最盛期に再度音訪れたいとも思える魅力ある観光地でもあった。

ところどころに満開の梅が咲いていた

ピンクの梅もかわいかった
TOPページへ

平成31年1月2日

2019年1月2日

この日は箱根駅伝の初日で北風も吹かず晴天の中、いつもの浜須賀海岸に駆け付ける。
現地中継では戸塚近くの権田坂近辺を走っていると放映してい たが、込まないうちに駆け付けようと早めに家を出る。
しかし、浜須賀には沿道に沿って多数の見物客が揃い、大学応援の旗がすでに立ち並んでいる。
当方は早稲田大学の旗が立ち並ぶところにチャチャと紛れ込んだのは日頃の成果。おかげで回りでは既に早稲田の状況が良くない事を知らされるのが副作用。
マラソン走者の前段にはパトカー、白バイ、関係団体の乗った車、そして見覚えのある放送車両。その後、やっとマラソンランナーがお出ましになる。
このすべての工程を感じられるのが至福の時間。
見るのは一瞬で、しばらく間が空き、どうしたんだろうと心配するころ、 やっと次のランナーが走ってくるのだ。
にわかに報道カメラマンになりきった当方は、懸命にランナーの姿を追うのだが、動く被写体にピントが追従せず。目の前を通り過ぎた時など全く対処ができない。これが実力ですね。
さてさてここまで来たら海岸に出て、雄大な海辺の風景など撮ろうと海辺に出ると、「お待ちしてました」とサーファーのお出迎え。
これなら撮影は楽勝とパチパチとシャッターを切るのだが、急に腕が上がるものでもなく、やっぱりそれなりの写真となりました。

以上、平和なお正月の平和な1日となりました。

箱根駅伝は浜須賀海岸で見る

今日は好天でサーファーも楽しそう
TOPページへ

横須賀美術館にて

2018年12月11日

12月もそろそろ終盤に入り曇天でうすら寒い中、横須賀の観音崎近くの横須賀美術館を訪れた。
間近に迫る丘陵地の傍に東京湾を目の前にする景勝地に立つこの美術館は近代的な外観の素晴らしい外観が印象的だが、目玉は何と言っても週刊新潮の表紙で有名になった谷口六郎さんの作品でしょう。
中の解説で知ったのであるが、晩年はこの観音崎の近くにアトリエを建てられたという。
私も谷口さんの作品が大好きで、ずいぶん画集などで見た記憶があるが、この地で見た作品はろうけつ染めの作品だけで、残念ながら知らない作品ばかりでした。
でもどれを見てもあの独特の子供たちの姿が「ああ、谷口さんだ」と心に残る。
作品の中に筆の加筆跡が今でも生々しく残り、写真で見るのとは別次元の色の輝きと立体感、今そこで書き込んでいるような緊迫感が目の前に迫ってくる。これが作者の息遣いなのであろう。
谷口さんは病気がちで59歳の短い人生ではあったが、残された作品を見て居ると、どれも描いていている時が楽しかったのだろうと羨ましささえ感じる。
我々の気持ちをほっこりさせる作品の数々を見るにつけ、この場でしか感じられない空気が流れているようにも思えた。

美術館を出ると東京湾の磯の匂いで現実に引き戻され、小雨凍てつく中をごちゃごちゃ立ち並ぶ住宅街を湘南の地・茅ヶ崎に向け帰路となった。
今日は夢のひと時から現実への移動がつかの間の楽しみだったのであろうか。

横須賀美術館玄関ホールにて

東京湾が額縁の中で浮かぶ
TOPページへ

奥湯河原再訪

2018年12月3日

昨年も同じ時期に来た奥湯河原の紅葉谷を訪れた。
今年は海岸近くが台風の塩害被害で軒並み枯れ模様となっているので、この地域も同様であろうとあきらめていた。
しかし、谷筋の奥まった渓谷ぞいは、奇跡的にも被害を免れた様子で、赤と黄色の錦模様が美しい。
思えばこの秋は平年のようなすっきり晴れわたる晴天はほとんどなかった。
この日も多めの雲で覆われた、薄ぼんやりした天気で紅葉はすっきりしゃっきりとはならず、どこかと透明感が不足している。
それなりの写真歴を有する当方は、こんな時の方が紅葉の写真は美しく見えるものだと思うようにもなった。
さてどうでしょう。。。。。。

日本の秋は良いなあ。。。
TOPページへ

快慶さんの仏像を見に行く

2018年11月20日

京都に行っても北野天満宮の近くにある大報恩寺に行く人は少ないだろう。
この秋、この大報恩寺から快慶や慶派の仏像が大挙上野の国立博物館に出向いてきたとのこと。
上野に行っても博物館の前に長蛇の列ができることもなく、トントンと入場できたのは 体力勝負の展覧会では珍しい事態。
快慶作の「十大弟子立像」は高さ1メートル程度の華奢な姿で、どうしても興福寺の像と比較してしまうのだが、博物館で上手に照明されたお姿はどれも神々しさが際立つ。
それにしても仏像と言うより若々しい少年像と見間違うみずみずしいお姿は運慶の高野山・八大童子像に共通する鎌倉時代のリアリズムの特徴であろうか。
最近はお顔のほかに衣のかかり具合など、ちょっとイッパチな視点で観察するようになった関係上、細身の腕の表情に引き付けられた。
仏像と言うものは、あたる光の角度でいっそうリアルさが増してくる。
だから、博物館で一体一体光源を調節して見られるお姿とお寺の宝物館でみる印象は大きく異なるように思う。
昨今は運慶の作品を見る機会が多かったが、神経質とも感じる快慶の美しさは名人芸の極致であろう。
来てよかったと感じて、晩秋の上野を後にした。

何とも仰々しいタイトルの展覧会でした
TOPページへ

足柄どっぷり気持ちよい旅の報告(2)

2018年11月13・14日

次の日は朝湯でゆっくり背筋を伸ばし、再び大雄山駅から小田原に戻り、東海道線にて真鶴に向かいました。
真鶴には行楽ではめったに下りないのですが、今回は当方の計らいでお刺身を食べる特別コースをご用意しております。
というのは、このお店では3人以上揃うと刺身が船盛りとなると聞き、来てもなかなか3名揃わないことが多いので、今回はそれが初めて実現した次第。
この「まるなか」さんは1人前3000円とは思えないコストパフォーマンスの良さで自信をもってお勧めできます。
さて、出てきた船盛りの豪華さに皆驚きカメラに収めるのに夢中は致し方ありません。
その他自家製さつま揚げとカレイのから揚げまで付いてお酒のおつまみには最適。
平日の真昼間から豪華絢爛お魚の豪華さにこれが極楽でなくてなんでありましょうか。
すっかり赤い顔をして、ここからは東海道線を夢心地で東京方面に。
夢の2日間はあっという間にディエンドと相成りました。
楽しかったなあ。。。。。

世に忍ぶ身ですのでご勘弁を(2)
TOPページへ

足柄どっぷり気持ちよい旅の報告(1)

2018年11月13・14日

我が自称「営業友の会」は秋たけなわの11月中旬、近隣とは言え鄙びた温泉に1泊旅行を決行した。
集合は小田原駅の改札にて11時と余裕綽綽ののどかな昼時間に集合し、めったに乗ることの無い大雄山線にて足柄平野をトコトコ電車旅。
終点の大雄山駅には“マサカリかついだ金太郎”さんの銅像がこの地を象徴するがごとく、どうだどうだと建っておりました。
即、昼食は豪華釜飯のご用意でまずは腹いっぱいのご様子。
駅からは大雄山行きのバスがこれまた、お待ちしておりましたとのグッドタイミングでの親切な送迎。
天狗さんで有名なこの大雄山は修験道の聖地との厳かな雰囲気溢れる荘厳な佇まいに感激したのは言うまでもありません。
それにしても階段の上り下りがきつく、おじいちゃん方はふうふう言いながらのお参りでもありました。
宿泊は近くの山中にある「オンリーユー」との温泉施設で、ともかく温めの温泉で露天の浴槽で1時間以上浸かりっぱなしでも湯あたりなどしない、まさに湯治そのものを楽しむ温泉なのであります。
腰が痛いや膝が痛むなど年齢相応の弱点を抱える我々は、天にも昇る心地よさで「うぅぅぅぅ」などと昇天したのでした。

湯にゆっくり浸かり、そして美味しいお酒を飲んで、また温泉に浸かったかのち夢心地でお布団に入る、これこそ今回の旅のだいご味でした。

世に忍ぶ身ですのでご勘弁を

大雄山の天狗の団扇です
TOPページへ

嬉しかった大山ケーブルカー

2018年10月22日

大山の麓までは何回か来ているが、久し振りの大山のケーブルカーでお山の中腹にある下社まで行くこととした。
駐車場からは石段を15分程度登らないとケーブルカーの始点駅までたどり着かない。そしてその登りが有名なお土産屋さんが並ぶ商店街で、大山コマや豆腐料理を宣伝する昔ながらの店が並ぶ昔懐かしい佇まい。
我々はここでは豆腐のような軟弱な食べ物では無く、坂を登りきるためのパワーをつけようと皆「かつ丼」で精をつけようと一致した。
久しぶりのケーブルカーは思ったより傾斜がきつく、グングン上がってゆく乗り心地が高揚感を誘う。(てっちゃんの気持ちが良く判る)
ケーブルカーの終点に降りるとまずは「クマ出没注意」とのやさしいお知らせが目に飛び込んだあと、更なる階段を登り詰めた先に大山雨降り神社の下社が鎮座しておりました。
この秋は曇天続きでめったにお日様が出てこず、お山に行っても薄ぼんやりした景色しか見えない毎日が続く中、本日はクッキリした青空が眼下の湘南地域を一望できることに感激したのであります。
更にはお社をくぐった地下には「ボケ防止」のなんともありがたい霊水が湧き出ているとのこと。
皆、先を争い飲み切ったのは「かつ丼」のパワーといったところでしょうか。
これで思い残すことはないとの感嘆が、実感ともとれる秋の行楽でありました。

大山雨降り神社下社

ケーブルカーで下山する
TOPページへ

やっぱ、温泉でしょう。。。

2018年10月16日

箱根に行きながら温泉を堪能できないのが不満との意見があった。
でも、行こうと思ったら茅ヶ崎から西湘バイパスを使い、1時間もかからずに箱根湯本に到達することができる。
そんなやり取りをしながら、あっという間に日帰り温泉行きと決まった。
場所は須雲川沿いの天山温泉で、ちょっと懐かしい家屋が入り乱れる古風な佇まい。
聞くところでは休日は団体様を満載した観光バスで大混雑の人気温泉場とのことだが、平日はそれなりに人がいるのだが、混雑とは感じない静かな浴場が心地よい。
露天ブロは温度の異なる湯が大小7ヶ所で、どれも温めのゆっくり浸かるよう考えられているのが特徴。
そして出た後はゆっくり横になって寝転んで過ごすのが贅沢と言うものだろうか。畳が敷かれた和室が点在し、また開放的な空間にデッキチェアが並んでいる。
この日も降りそうで降らない中途半端な天候であったが、お湯に浸かって過ごすのが目的だったので、文句を言い出す爺様連はいない。
若者の声が響きあう元気な浴槽とはならず、皆おじさん、おじいさんの頭に手ぬぐいを乗っけて、静かに瞑想し続ける姿を見るにつけ、平和な日常を過ごせる幸せを感じるのは贅沢の一言に尽きますな。。。。
やっぱり温泉ですねとの満足感があふれた箱根の1日でありました。

天山・お食事処への通路
TOPページへ

箱根の甘酒茶屋にて

2018年10月9日

お仲間のドライバーに急坂が苦手の方がいて、あの箱根の国道1号の急坂は車の通行量が多いことでもあり、稚拙な運転が周りにも影響あるからと、ご遠慮いただくことで今に至っていた。
それでは同じ箱根でも通行量が少ない、畑宿の方向に行ってみようと車を進める。この道は昔の東海道だから曲がりくねって細い道が続き、そのせいでめっきり車の通行量が少ない。
畑宿を自然に通過し、七曲りもどうやらハンドル操作に注意しながら無事通り過ぎたではないか。この調子、この調子と囃子立てながら休憩地である、甘酒茶屋にスムーズに到着したのだった。
大昔、この畑宿から旧東海道の石畳を職場の同僚と歩いたのは、何十年前になるのだろか。
昔ながらの藁ぶき屋根でそのお茶屋さんが建っていた。
真っ暗の室内はしばらくしないと人の見わけもつかず、並んでいるであろうお土産さえ判別ができない。
うすっ暗い中、安倍川と磯辺巻きのお餅を頼み、しばらくするとやっと屋内の 状況が判ってきた。土間で木の机とイスがあるだけの昔ながらの風情が遠い昔を思いやる。
こんなところで食べるお餅はおいしいものですね。。。
今は海外の方がハイキングで来ている方が目立つ。
車の中からも旧東海道を歩いている海外の方が多数見受けられた。
時代は大きく変わり、箱根はすっかり日本人の姿が少なくなってきた。
寂しいな。

藁ぶき屋根の甘酒茶屋

旧東海道のお休み処でもあったのです
TOPページへ

小学校の遠足で行った相模湖は。。。

2018年10月5日

相模湖とは昔々に小学校の遠足で行ったのが思い出深い。 ということは、60年前以上のことであった。
当時、小学校は中央線の荻窪にあり、貧しい毎日ではおそらく心浮き立つ行事であったのだろう。日常には無い景色がこの相模湖だったのだ。
さて、昔飛び回った湖畔にある公園地帯には、その面影を残す昭和のお土産屋さんが何軒か昔と変わらぬ姿で見ることができる。
「そうだ、こんなお店に入って土産物を探したよな」と懐かしさが浮かんでくる。

しかしながら、休日前で小雨模様の相模湖は台風の後遺症で、薄茶色のこ汚い 水たまりとなり上流から流れ着いた流木が湖岸を覆っている、なんとも残念な光景であった。
広い湖畔の公園には人影もまばらで、遊覧船の呼び込みをするおっちゃんの声も寂しげでした。
我々はこんなうら寂しい場所で食事もしたくないと、さっさとこの場を去ったのであります。だから相模湖の思い出はあくまで昔の遠足場所としてだけ心に残ったのです。

食事は一度訪れたことのある津久井湖畔のおせんべい屋さんが経営するレストランで、今風にイタリア料理を堪能しました。
帰路、厚木近くの七沢温泉の近くで、突然大型の鹿が目の前で道路を横切り、急ブレーキを踏むアクシデント、何事もなかったのが幸いと言わねばなりません。

台風後の残念な相模湖

津久井湖が見えるレストランにて
TOPページへ

移り行く日々を想う

2018年10月4日

つい1か月前、我々の地区のコミュニティセンターでいつも通りの姿で我々の前でお話されていた、茅ヶ崎市長・服部信明さんが今朝お亡くなりになったと ニュースで知る。58歳とまだまだ活躍できる年齢であった。

実は昨日我が香山家の父方の長男で、養子に行って名前が変わった木下家の連れ合いが天寿を全うされ、97歳でお亡くなりになったお葬式に出席して帰ったばかりである。
訪れた高円寺カトリック教会は、さわやかな清潔感溢れる建物で、ステンドグラスの窓がとても印象に残った。
葬儀と言えば花輪が並び、きらびやかな祭壇が立ち並ぶのが普通なのに、家族葬との希望より、白を基調とした清潔感溢れる会場では、カトリックらしい簡素な葬儀に、ずっと皆さんで暮らしてきたご親族の悲しみがいっそう思いやられた。
荼毘に付し、新宿駅前の小田急ハルクの上で近親者だけて内輪の懇親会を行ったが、ここ数年お体を壊しながらも明るい療養生活を過ごされたとご長男からお話がなされた。
我々70歳前後のいとこ同士がこのように揃うのもこのような機会が無いと会うことさえできない。
さて、次に会う日にはいかなる顔ぶれに代わっているのであろうか。
行きの電車の中央線車内では当方だけがおじいさんで、他の方々は若者ばかりであった。改めて我が高齢者の立ち位置を知らされる。

それにしても、つい先日まで元気にお過ごしの茅ヶ崎市長。
昨日の朝元気のお仕事に出たはずなのに、そのままご家族とも永遠のお別れ。
無念だったのかも判らないが、これもまた一つの終わり方。
我々はただ唖然とするばかりである。

9月1日の服部市長

市長と語る会にて
TOPページへ

真鶴にてお魚を食べに行く

2018年8月21日

昨今は山の方向ばかり行っているので、海を見ながら和食が食べたいとの意見がでた。
台風19号が九州方面でご活躍の最中で、ここ湘南地方も大波が打ち寄せていたら大変と心配しながら小田原方面に車を飛ばす。 その海は白波が立つわけでもなく、海際の道路が波に洗われてもいない模様。
脳裏に車が海に飲まれそうになった、先日の台風の情景が目に浮かぶ。

平穏な海を進みながら、舞鶴町で小ぶりな魚市場の目の前で地魚を堪能する。
豪華絢爛なずらっとお皿が並ぶ食事はもうこの歳では必要ありません。
まさにお昼の定食をいただいたのであります。
当方はお刺身定食、お隣のご同輩はちょっと小ぶりなキンメダイの塩焼きをうれしそうに食べていました。
このお店は自分の船で採ったお魚を、その日のうちに出してくれるとのことで シコシコな新鮮さが売りなのでしょうか。

お盆も終わり海水浴を楽しんでいる方々も数組いたのですが、心なしかうら寂しい海岸線は夏の終わりをかもしだしていましたと言いたいのですが、今年ばかりはまたまた酷暑のぶり返し、冷房の利く車の中に飛び込んだのであります。
真鶴は箱根の山麓にある典型的な漁師町。
海に張り付き立ち並ぶ家々を眺めながら、穏やかな気分満点の時間を過ごし、ゆったりと帰途につきました。

真鶴漁港にて

夏の終わりの蓮の大輪:平塚にて(おまけですヨ!)
TOPページへ

寄(やどろぎ)キャンプ場をちょっと見る

2018年8月14日

お盆休みで道は混雑する中、ローカルなところを探して、松田町から川を遡る寄 (やどろぎ)のキャンプ場を目指す。
国道1号線は茅ヶ崎から小田原方面にそれなりに混んでいる。
二宮からの脇道を大井松田に至り、そこから急に丹沢の山ふところに入っていく。
その先に珍しい呼び名の寄がある。それにしても山村のはずであるが、どう見てもサラリーマンのお宅と思われるこぎれいな家々が見受けられるのであるが、どうやって会社通勤をしているのだろうかと不思議に思う。

川に沿って小規模のキャンプ場があり、今日は団体の貸し切りだという。
でも、この時期のキャンプ場は若者の天国で、華やかな声が行きかう。
川辺にはテントが並び、今まさに昼食の最中。良い匂いの煙があたりに漂うのをおじいちゃんがたは「いいな!」などと見つめるばかりでした。
キャンプ場に置かれた昔の消防ポンプに懐かしさを感じ、帰途立ち寄った懐かしさあふれる神社で、ふと昔を思い浮かべる光景に、山里の良さを想うのでした。

村の中には食堂が見当たらず、大井松田近くまで戻って昼飯にたどり着いたのはいただけません。更には1か月前ごろこの近くで買ったスイカ1玉も今年は 暑さが激しくて、もう終わりですと断られる始末。
夏の終わりは静かに静かに訪れつつありました。

キャンプ場の火消し車

村の神社(味がありました)
TOPページへ

2度目の日帰り入浴報告

2018年8月6日

この暑いさなか温泉に行って体を休めようと、2度目の足柄「オンリーユー」へ出かけました。
連日35度が当たり前の日々、その中で本日は台風前のちょっと涼しい日となったと天気予報は知らせるのですが。
これでは外気温度と温泉の温度にほとんど差がないことになるが、まずは体感が一番と早速勢い込んで露天風呂にジャブン。
前回は春先だったので外気は冷気が心地よく、周りのおじさん方も「極楽、極楽」と1時間以上も湯船でうつらうつらしていました。
当方も夢心地で1時間は浸かっていたことを思い返すのです。
この快感が忘れられなかったのですが、今回は30分で「これで結構」と湯から出てしまう情けなさ。
それは真上から照り付ける太陽光がまるで砂浜で寝転ぶおじさんを狙うようにギラギラの体を射抜くのだった。
つまりプールに出かけて行ったとの同じ状況になったのです。
元気だったのは親子連れで来ていた一群。子供たちは水しぶき(?)を上げて動きまわっていました。

予想はしていましたが、少なくとも外気が涼しくならなければ、温泉はありがたさが半減するとの反省を持ってこの地を後にしたのです。

足柄・オンリーユー玄関にて

玄関前の涼し気な野草
TOPページへ

チャイナの人ばかりの忍野八海

2018年7月10日

遠い昔に訪れたことのあるこの忍野の地は静かな寒村でした。
しかし今は観光で豊かになった立派な農家や、旅館・売店が立ち並ぶ一大観光地。
その中に点在する小さな池の数々は売店の中に鎮座する観光スポットでありました。
きれいな湧き水をたたえた富士の伏流水は感激するほど透明度が高く、濃紺の水底からはこんこんと湧き出しています。
しかし、池の周りにはチャイナの方々が溢れかえり、土産物屋さんをかき分けていかなければ、その中心にはたどり着かないのです。
観光地とは土産物屋さんと食べ物屋さんが立ち並ぶ場所なんですね。
つい先週訪れた須走の光景とは比べられないほどの人の多さで、改めてこの地の凄さを実感いたしました。

この日は晴れていたのですが、富士のお山は裾しか姿を現さず、その風景が忍野の名物であるはずでしたが、毒気にあたってこの地を後にしたのが残念でもありました。
夏本番前の山中湖畔は学生の姿もなく、まだまだ静かなすがすがしい佇まいで、こっちこそ富士山麓に行ったとの喜びを感じたのです。

忍野八海・泉の湧き出し口

忍野八海の藁屋根
TOPページへ

須走にたどり着く

2018年7月3日

どうも梅雨が明けたらしい。でも台風が九州に接近しているという。
富士山の山頂がくっきりと見えるのは真夏に入った証拠ですね。
ではそちら方向に行こうと車を走らせる。
いつもの国道246号線松田から御殿場方面へ駿河小山で脇道に入り、行きがかり上、道なりに進んでいくと富士山の姿がひときわ大きくなった場所が須走の街中でした。
私のイメージには富士登山の東側起点として、下界を眼下に見下ろす山麓に立つ宿坊が立ち並ぶ観光スポットと思っていたのですが、ゆるやかに富士に向かって坂が続くごくごく平凡な田舎町でありました。
でも道は神社の入り口が突き当たりで、それが“さがりおろう”の富士浅間神社なのです。でもこの浅間神社は富士山麓にいくつもあって、ここは東口本宮とのこと。
古びた富士講の石碑が立ち並ぶ脇を真っ赤に塗られた神社本殿は大きくもなく、小さくもない(どうだ、参った感が湧かない)清潔感溢れる神殿と感じましたが、お山の信仰のシンボルならばごてごてした装飾で飾り立てられないこのようなスッキリ感が良いのかもしれません。
杉木立に囲まれた神域は厳かではあるが、ワイワイ大騒ぎをする観光客も見えず、静かな境内でありました。
でも気になったのは入り口のそばを流れる滝のような清流で、突然この近くから湧き出たように思える激しい水量で、三島の町の湧水群を思い出しました。

もう少し真夏の時期が進めば、この地も観光客でにぎわうのかもしれませんが、 食堂はお休み、土産物店も休みの状態で、閑古鳥だけが泣いている平日の街並みを見ると寂しさがつのる旅路でもありました。

富士浅間神社本殿

富士浅間神社楼門
TOPページへ

行きたかった油壷に行く

2018年6月19日

城ケ島にも行った、剣崎灯台にも行った、荒崎にも行った、観音崎にも行きました。
残るところがなくなりつつある中、昔たしかに行ったよなーと思える場所で残っているのが油壷でした。
それは、中学校の遠足かな。東京の荻窪に住んでいたから海を見るのさえうれしい年頃だったのです。
きっとそこの水族館を見たはずですが、とんと記憶がないのが年のせいか。

まずは、ホテル京急油壷での昼食からとなったのは当然の話。
ホテルのレストランからは小網代湾を一望できる素晴らしい立地。油壷はホテルの反対側で、どちらにしても突き出た岬の右と左の湾の話でした。
岬の先は東京大学の研究所でうっそうたる木々が生い茂る森を過ぎ、急坂を下りていくとゴツゴツした海岸線の中にちょっとした砂浜にたどり着くのです。
折しも海の家が完成直後で、これから行くぞと真夏の前のしばしの休息時期でしょう。
我が茅ヶ崎のような、外海に面している海岸とは違い、これなら子供たちには 磯遊びにも海の入っても楽しそうな場所だなとうらやましく思えました。
でも丘の上から見る油壷湾はドロンとして泳ぐにはちょっと不気味。
ヨットハーバーの場所と言われて、それなら納得できると感じました。
そうそう水族館は「京急油壷マリンパーク」と言う名称でしっかり残っていました。夢ではなかったのですね。

ホテルレストランから小網代湾を見る

オマケ :三崎港での水中遊覧船(潜水艦ではない)
TOPページへ

改めて寒川神社に出かける

2018年5月29日

この神社に行ったのはいつ頃だろうか。
この10年はトンとご無沙汰。それでは失礼ではないかとお参りに行く。
長い参道を車で通りすぎると、深い森に囲まれ本殿が鎮座している。
平日の午後は人も少なく、なんとなくがらんとした印象は致し方ありませんな。
ご利益は方位によって生じる災いを取り除く「方除け」ならば全国各地にあるが、 ここはあらゆる災いを取り除く「八方除け」のはこの神社だけとの謳い文句。
当方すでに十分なる罪悪を犯しつつ、それでも平然と生きている悪態では、神仏も見放す境遇と神前でお詫び申し上げる次第。
何でこの神社を訪れたかと言えば、昨今お寺参りの趣味から神社の建築に興味が移行したからとの理由。相模の国一の宮は築20年とも思われぬ、風格と威厳を持った大神社でありました。
そうだな、この神社で印象に残ったのは猿が引いている白馬の彫刻。
たしか、三島大社でも見た印象が残る。
我が家近くの八王子神社とは格式もちがうのだろう。でも奈良・京都の古社に出かけたいとも感ずる中途半端な満足度であったのが素直な気持ちでした。

寒川神社拝殿

寒川神社のおみくじかな(?)
TOPページへ

初夏の山中湖畔へ出かける

2018年5月22日

5月も後半に入り、そろそろ梅雨も近づく憂鬱な時期が迫っている。
そんな中、突然カラッとした晴天が数日続くとの天気予報。
梅雨明け前の最後のドライブは思い切って山中湖を目指すこととした。
自宅から西湘バイパスで国府津まで行き、松田の国道246号線に達するのに ジャスト1時間。
そこから駿河小山の富士スピードウェイに向かい、傍をかすっただけで通過し、初めての山道を山中湖へ向かう。それなりの観光地に向かう道にしては、行き交う車もまばらで、大丈夫なのかと心配さえ起きる。
走ること20分程度であろうか。草原に覆われた山頂が見えるとここは山梨県と変わり、峠を越えた後はにわかに視界が開け、前方に山中湖と富士の勇姿がパノラマのように広がった。
ここが山中湖パノラマ台と言う「富士八景」なのであった。
いやはや富士が近い、そしてその裾野の端に山中湖がでれっと横たわっていた。
穏やかと言えばそう言えるのだが、どうにも締まりがない大きな水たまりとさえ映る。
ああ、こんな遠くに来たとの高揚感が沸きあがったのは大パノラマのせいなのであろう。おそらくこれがすっきり見える富士の姿の締めくくりで、2か月近く厚い雲の中に隠れてしまうのだろうと好天のすがすがしさを心に刻んだ。

目の下に広がる山中湖でお昼ご飯を食べ、ここまで来たのだからと湖水の水を触って、思ったより暖かい感触に夏近しと実感する。
今は春と夏との端境期、多数見られたテニスコートも人影もなく、お土産屋さんもお休みで、オフシーズンの観光地はのんびりのどかな光景でした。

山中湖パノラマ台の展望

山中湖畔より雄大な富士を眺める
TOPページへ

パラグライダーを見る

2018年5月12日

御殿場線の松田は河津桜で有名となったが、そのちょっと奥まった丘陵地に最明寺跡というこれもまた桜の名所がある。
国道246号線で松田と渋沢の間の小さな道を山の中に分け入るように進むこと車で10分程度であろうかチェックメイト・カントリークラブとのゴルフ場が見えたらここは丘の上。眼下に足柄平野が広がり、更には富士の姿が悠然と表す。
そこで広大な景色に感激していたら、どこからともなくパラグライダーの姿が見え隠れするのだ。
どこだどこだと周りを見回すと、傾斜の急な草地の一部に6畳程度であろうか、小さなスポットが用意されていて、そこからパラグライダーが飛び立っているのだった。
だからザワザワという翼の音や、人のざわめきが真近かで聞えてくる。
「あれまー!、」こんなに簡単に大げさな仕掛けもなく、ぱぱっと飛び立ってしまうのかとびっくり。

我が素人軍団の話はそんな雄大な話ではなく、ここまで山の中に車で来て、その車をこの場所に置いて気持ちよく空に飛び立った後、おそらく遠くに見える足柄平野の酒匂川近くに降り立ったとしたら、どのような手段でこの山深い出発地まで戻ってくるのだろうかと心配した。だってご当人たちの車と思われる自家用車がこの出発地点には並んでいたからなのである。
何事も素直に喜べない年寄りは、大空を自由に飛び立って楽しむ若者たちの開放感とは異次元のなんとつまらない議論で盛り上がった。

蛇足ではあるが、目的地最明寺跡にある池のほとりには“ヤマビル注意”との恐ろしい案内板が掛かり、ここで血を抜かれては大変と心底からおびえたのだった。

パラグライダーはいいな

最明寺跡にて
TOPページへ

連休前の箱根で楽しむ

2018年4月27日

まさに連休前の4月27日(金)に女房と二人で箱根へ出かける。
それは女房にしてみれば、もうすぐトイレで転んで骨にひびが入った97歳の実母が 近々退院して自宅に帰ってくるので、最後の自由時間を有効に使いたいとの希望。
昨今はめったに私メなど同行しないのであるが、たまには良いかなと二人旅と相成った。 行くとなったら箱根は近い。電車で30分あれば小田原だから観光案内所が開く10時前に小田原でバスに乗ってしまった。
明日から混むだろうと思える箱根への国道1号線はすいすいと進み、芦ノ湖の遊覧船にも苦も無く乗れてしまう。
それにしても箱根は海外の方々がえらく目立ち、ツアー団体客がわんさと取り囲んだ昔を懐かしむ浦島太郎状態。
湖尻の標高が高いのだろうか、下界では新緑でいっぱいの景色もこの場所ではやっと若葉が出始めた模様で、楽しみにしていた、ツツジの花はもう少し季節が進まないと満開には程遠い。
バス、船の次はロープウェイで大涌谷へ。あの噴火騒ぎがあった後のこの地は何年んかぶりの訪問。あの卵をぐつぐつ沸いている熱湯につける光景で有名な黒卵のできる場所には通行止めで、噴煙は東側の谷筋へと大きく変わっていたのであります。
それでも念願の黒卵はしっかり現地で口にして、これで更に寿命が死ぬまで延びたのでした。
それにしても噴き出すガスの影響で白煙近くの木々はこの時期でも枯れ木状態、でも1本沢筋を超えれば、新緑が眼に痛い木々の中の景色になる不思議。
バライティーに富むこの周遊コースに得をしたように感激する我々は、これで4000円では安いなどと興奮し、これも愛敬として素直に喜んだのです。
旅のハイライトは強羅公園でみた咲き誇るツツジの数々。やはり標高を下げてくるとちょうど時期があったのでしょうね。毛氈をひいたような色の競演で、箱根の旅を締めくくったのです。エガッタ!エガッタ!
たまには非日常の時を過ごすのも良いものですねとの女房殿の感想。
その通りと感じた我がゴールデンウィークでもありました。

強羅公園にて

強羅公園にて
TOPページへ

リニュアル・オープンの大船植物園に行く

2018年4月12日

この4月1日に大船植物園がリニュアル・オープンした。フェイスブックで友人がその内容を教えてくれた。それは神奈川県が運営しているこの植物園に日比谷花壇が参画して再開園されたと記載されている。
フェイスブックの記載は民間委託の是非に関する論議で、各地域で論議のある民営委託業務が本来税金で運用されるべき県営施設で行われるのがおかしいと提起していた。
そんなことはどうでもよいのであって、植物園は春爛漫でチューリップ、ひなげし、シャクナゲ、矢車草などまさに春の花々が絨毯のように咲き誇っている。
今年は長い冬が続き、その後急に夏のような温かい日となったため、北国のような開花状況となり、梅、桜、桃、モクレン、そしてチューリップまでいっぺんに咲き出した。
惜しむらくは雨がほとんど降らず、咲いている花々もちょっと辛そう。だって春はぐずついた気候で多雨の環境が続くものだからだ。
今回は目的があって、植物園内の熱帯植物園で鮮やかな花々を撮影することだったが、さすがまだ春はスタートしたばかり。ブーゲンビリアだけは咲き誇っていたが、ハイビスカスなどはこれからであろうか。時期尚早との結果であった。
ふと昔わざわざ行ったオランダでのチューリップ群落を思い出し、こんな近くでも幸せな気分となっただけでもこの植物園に来た甲斐があったと心湧きたつうれしい体験であった。
なお、入園料は400円となり少し高くなったようにおもうが、ご老人は150円でよろしいとか。そこまで気を使うことなどしなくても良いのでは気の毒に思える値段設定でした。

広い園内は花盛り

色のコンビネーションが見事
TOPページへ

忙中緩あり

2018年3月10日

すっかり当方のホームページがご無沙汰している。
それは、4月1日から開設する「辻堂西口YU−ZUルーム」の新規ホームページで苦労しているからだ。
そんな中、3月10日に久しぶりに友人の車でドライブに出かける。
場所は今盛りの河津桜の名所、大井松田の近くの足柄平野。大雄山駅のそばに釜飯を食べに行きたいと友人が所望。
どういうわけかこの店に行こうとすると店の休業日であることが多いのだ。
出された田舎の釜飯は量がすこぶる多く、ご老体には食べきれないのだが、それもご愛敬であろうか。満足、満足と上機嫌で昼食を楽しむ。
しかしながらこの時期スギ花粉の飛び交う時期でグスングスンと見るのもかわいそうなご同輩にはかわいそうにとしか声がかけられない。
帰路、昨年来たことが有る、いこいの村足柄に寄る。そういえば昨年ここは我が家がリフォーム中で、一時避難とばかりに家族4人で泊まった場所だ。
富士が美しく見える2月3日が昨年で、今年は周囲の河津桜が埋まっている3月10日。
富士は春霞に隠れ、クッキリ・ハッキリとはしていなかったが、それを埋め合わせる河津桜の群落がすばらしい。
自宅に戻りその姿を写真で確認してみたが、 なかなかの出来栄え。
これなら吉野へ行った感さえある。忙しい日々の中、春の日を楽しんだひと時となった。

足柄で河津桜満開
TOPページへ

久しぶりのビジネスホテル宿泊

2018年1月16日

実母の妹が亡くなったとの知らせが入り、そのお通夜に出かけた。
場所は東京都の北外れ、荒川の河川敷に近い船渡斎場だがどうにも土地勘が無い。めったに乗ることが無い、埼京線の赤羽から2つめの浮間船渡駅で下車。
通夜だから式の開始は6時とその後参加者での会食を含めても9時には終わると踏んだ。それなら自宅には11時ごろには着くだろうと帰宅を思ったが、どうせならと赤羽で1泊することとした。
ホテルはネットで娘が予約を取ってくれる。昔現役のころ、私は電話をかけまくって宿泊先を探したものだが、今はネットで瞬時に予約が完了するのだから便利になったものだ。
ホテルは駅前にできた新しいホテルで、従業員などが動き回る姿は見当たらず、受付のお姉さんも予約済だから、氏名住所を書けばそれで完了。手渡されたカードキーで部屋を開ければそこで後は寝るだけの空間でありました。
そう思えばそうかと納得するのだが、ちょっとだけ広いシングルベッドには枕が2つ。
事前に調べたホテルの部屋はシングルベッドに2名で泊まる際の料金表示が当たり前のように記載されているのです。
おじさんの知らないうちにシングルルームは2名宿泊が普通なんだと改めてびっくりしました。
当方と言えばシングルベッドに私一人でさっさと寝てしまったわけで、老人の私めは何の感慨もなく、次の朝に通勤電車に揺られながら帰宅いたしました。
急ぐ旅では無いと言いながらゆっくりできたのが取り得でしょうか。
世にビジネスホテルと言う言葉がなくなったとも感じた小さな経験でありました。

厳冬のなか咲く水仙
TOPページへ

美術展のカタログを整理する

2018年1月7日

本の整理をしていて、多くの美術展で買い入れた分厚いカタログを見ながら、これだけでも本棚いっぱいになると恐ろしささえ感じるのである。
それにしても何たる厚さなのであろうかと思い、ぱらぱらと中身を見てみる。

日本に来た様々な美術展の中では、最初に強烈な印象を残したのが1984年の日本橋高島屋で行われた、「ロンドン大学コートールド・コレクションの印象派・後期印象派展」であった。
教科書で見たルノアールの桟敷席、マネの「フォリー・ペルジェール劇場のバー」などの優品がきら星のごとく並び、まるでロンドンから引っ越してきた感さえあった。
それはこの美術館の建て替え工事のため、作品の展示がしばらくできなくなったとの事情があったとしても、西洋絵画の代表作を目の前で見た印象は強烈で、これがしばらくして海外旅行へ行くバックボーンとなったのであった。

現在でも海外からはたくさんの美術作品が送られてくるが、目玉となる作品数点に寄り添ってくる作品がどっさりとの印象がぬぐえず、このようなほんまもんばかりの展覧会は夢見る境地でもあった。
今まで印象に残る美術展は「叫び」で有名なムンク展、優品ばかりのバーンズコレクション展で、両者とももうこれで十分との満たされた感があったのがその理由か。

さて、最初の話題である「コートールド・コレクション」の話に戻ると、開催された1984年と言えば当方40歳になる直前、その時買ったカタログも印刷がちょっと色褪せてきた。と言うことで強烈な思い出だけを残した数々の名品を記憶に残しながら、ご引退をお願いする次第である。

ルノアールの桟敷席

モネのフォリー・ペルジェール劇場のバー
TOPページへ

平成30年を迎えて

2018年1月1日

静かな穏やかな元旦となった。
今日ばかりは我が家には5人全員が揃い、お雑煮で朝が始まった。
それにしても70歳を超えると、絢爛豪華な食卓はオーバークオリティでお重の中身も蒲鉾と伊達巻があれば十分である。
私と言えば、昨夜の天ぷら付きそばと日本酒で除夜を過ごした後、今日のお雑煮には餅4個と目いっぱいの食事に、夕方まで食べ物は見たくないと言う、なんとも贅沢な状況。

所蔵している「世界の美術館」という雑誌をパラパラとめくりながら、思えばずいぶんあちらこちらに行ったものだとの感慨深い。残念ながら、この体調では、もうこれで打ち止めであろうかと改めてその本の中から自分なりの美術館を選んでみた。

第1位と言えば何度か足を運んだフィレンツェにあるピッテイ宮殿で、ラファエルの優品がいくつかあり、特に「大公の聖母」がひと際印象に深い。
第2位はドイツのドレスデン美術館で、同じくラファエロの「サン・シストの聖母」とジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」。ここでイタリアのジョルジョーネが見られるとは思わなかった。
第3位がフランスのニースにあるシャガール美術館で、全館を埋め尽くす大画面の色彩が部屋ごとに統一され、まるで我々がその中で埋め込まれるような一体感が見事だった。
第4位がフランス中部のアルビにあるロートレック美術館で、街の司教館をそのまま使った伝統ある建物に異質とも思えるロートレックのポスターなどがすんなりはまって見えるのはとても不思議な光景。

どんな画家にも出来不出来があり、またこちらの好みもあるのだから、名でとるよりその中のお気に入り作品を選べば十分。
そんな作品に出合う機会が至福の時間というものだろう。
今年は遠くからお出ましいただける作品の中で、どんな出会いが待っているだろうか。

ラファエロの「大公の聖母」
TOPページへ

クリスマスの朝

2017年12月25日

孫娘がお母さんとともに2階から降りてきた。
欲しかったおもちゃをサンタが持ってきてくれたと大喜び。「うわっ」と歓声を上げて、それを抱え込んで走りまわっている。
「あのねえ、サンタさんが靴下の上に置いてくれていったの」
「昨日の夜にガサゴソ音がしたんだ」と言っているが、ぐっすり寝ていたことには間違いない。でもなかなか興奮して寝付かなかったと娘が話していた。

そういえば、我が娘も同じようにこの時を喜んでいた。娘は小学校高学年になってもサンタさんを信じていて、五、六年になって同級生からサンタさんは居ないと教えてもらったと言っていた。
でも、その前の年、娘が私に「どうしてサンタさんの贈り物はイトーヨーカドーの包みなの」と聞かれ冷や汗をかいた。

恵まれたこんにち、娘・窓娘のうれしそうな顔は我が家の平和の象徴であろうか。
保育園の送りに連れ立って向かったとき、孫が「おじいちゃんにはサンタさんが来たことがあるの」と尋ねる。
「おじいちゃんの時はね、サンタさんに住所を知らせてなかったので、来られなかったんだよ」と返事をしたが、家が貧しかったこともあり、かろうじてチョコレートをもらったような気がする。
バナナ一本もらえたのもうれしかったころであった。
今日は心温まる穏やかな日である。じいちゃんにも心のサンタさんが来た日でもある。

羊のお人形さんもサンタさんの姿に
TOPページへ

富士自慢が当然

2017年12月12日

我が茅ヶ崎からは霊峰富士がいつでも眺められる。
そしてその姿は綺麗な左右対称形をしていて、奇跡的にも前山に遮られることもなく裾野まで見渡せるのが自慢なのである。
冬もそろそろ本格的になった12月中旬は空気も澄み、白雪に覆われた山麓を従えて、どこからでも見ることができる美しい光景は住み慣れた我々には当たり前と騒ぐには当たらないと思っている。

今日は平塚近くの湘南平に出かけた。そこは湘南の海全景を見渡せる絶景ポイントなのである。最近、目障りな木々を切り倒し、「あれまあ」とすっきりした頂上がリニュアルオープンし、ほんまもんの360度の展望が楽しめる。
南に大島となかなか姿を現さない利島と、三浦半島の先に房総半島の突端が見渡せ、北には大山を間近に従える丹沢の山々が驚くほど近くにそそり立つ。
そして西の方角に富士の山がドカンとそびえていたのでした。
午後の日差しでは富士を撮るには逆光で、光線としては60点の条件。
へぼでもそれなりの写真が撮れました。あとは技術点の向上を望むとのコメントが付くのでしょうね、次はがんばります。

富士の前は足柄山地と松田の丘陵
TOPページへ

寒風吹きすさぶ御殿場にて

2017年12月5日

朝から寒風が吹きすさぶ12月に御殿場までドライブ。
西湘バイパスは鮮やかな青い海原ながら、松田近くのなだらかな丘陵地帯は今が黄色いイチョウの最盛期でこの秋を締めくくるように最後の彩りをそえていた。今が紅葉の最盛期なのだろう。
そこからの国道246号線の登りはフロントガラスに風に流された落ち葉がビュンビュン飛び込んでくる。いやはや冬将軍のお出ましのようですナ。
箱根連山を横目に見る御殿場の地は、当然湘南地域とは風の寒さも大違い。
ご同胞の知り合いの場所まで行こうとの話で、大きな研修施設を訪れたのですが、そこは隣がなんと自衛隊の富士練習地だったのでした。
がらんとした施設は休館日のため誰もいないようで、それに付随する公園や松林にも人影がほとんど見当たらず閑散とした光景に、自由に好きなところを駆け回ったのはせめてもの慰めでしょうか。
目の前の富士山は、西からの強風で東側に雲が張り付き、スッキリ・クッキリとはならず、「ちょっとだけね」と山頂の一部が見えるのがご愛敬。そして施設横の公園内にあった赤いモミジ1本だけが我々を楽しませてくれたのです。
なんだ御殿場へ行っただけじゃないかとのご指摘もあろうかと思いますが、まさにその通りなのです。

富士は強風のため全景見えず

最後のモミジが綺麗でした
TOPページへ

湯河原の紅葉めぐり

2017年11月27日

朝のNHK番組で熱海梅園の紅葉中継をやっていた。
この地は海際だから今年は台風の塩害でダメだろうと思っていたが、映像で見る限り、意外や意外それなりに赤く色づいている。
これでは熱海には観光客が殺到するだろうと、隣町の湯河原に向かった。
休日後の閑散とした真鶴道路を順調に通過し、午前中の湯河原の旅館街はまだ寝ぬけ模様でぼんやりしている。
箱根に抜ける有料道路(湯河原パークウェイ)入り口近くで、真っ赤に色づくモミジの群落に突き当たった。そこにはモミジの郷との旗も立っていた。この時期、赤や黄色の葉がトンネル状となり道を覆いつくしているのだ。
やっぱりこの湯河原にも素晴らしい紅葉を見られる名所があったのです。

そこからちょっと外れた場所に梅林で有名な幕山があり、久しぶりに訪れてみた。
昔、娘を伴って、この山でふうふう言いながら急傾斜の道を登ったことが懐かしい。
改めて麓から眺めてみるとポッコリとした独立峰で、今の体力ではとても上る気力さえ沸いては来ないが、全山を彩る黄色の彩りが秋深しとの感を抱かせる。
この秋は近隣とはいえ数多くの紅葉地を訪れたことが、とても大きな充実感となっている。

昼食は湯河原の駅近くにある、WESTという洋食屋さん、地元では有名な老舗なのだろうが、ゆったりした食堂は大正・昭和の懐かしい雰囲気を濃厚に醸し出す素晴らしいお店で、当然食事も大満足の味なのは言うまでもありません。
紅葉と美味の組み合わせは、場所を問わず何度行っても飽きることはないのです。

奥湯河原もみじの郷

奥湯河原もみじの郷

奥湯河原もみじの郷

奥湯河原もみじの郷

幕山の秋

湯河原駅そばの洋食店WEST
TOPページへ

ハワイにバスで行く

2017年11月20日

我々3人組の長年の思いをかなえるべく、常磐ハワイアンセンターへの無料バスに乗ってツアーに出かけたのです。
それにしても出発集合場所の渋谷に着いても、再開発の著しい駅前で現役時代の土地勘を取り戻すのがもう困難で、行きつ戻りつのアタフタ騒ぎを繰り返しやっとバスに乗り込んだのでした。
渋谷10時出発で現地到着は13:30とエガッタ、エガッタの道行き。
若い人なら早速着いたら温泉スパなどの遊戯施設に飛び込むのではずが、我が老体では「まずはお茶でも飲んでね」とただただ温泉とごろ寝の時間つぶしに明け暮れる天国気分なのでありました。
温めの温泉で体がふやけきった後、バイキング会場で豪華絢爛な食事を食べ、折しもボジョレーヌーヴォーを見得で頼んだのは成り行きということでしょうか。
そして、今日のハイライト・フラダンスのショウ見学と相成りました。
若いピチピチの30名近くの美女を見たのは昨今では久しく無かった快挙。
合間に行われる若者のタイマツ・ショウなどさっさと終わらせて引っ込めと念じたにもかかわらず、そうはならなかったのが残念。
開業当初は近所のお姉さん・おばさんを集めてのセミプロショウだったはずが、今や宝塚もハダシで逃げ出す美形・美女の大軍団で、ただただおじいさん方は口を開けっ放しで「空を見つめて数珠拝む」との「なんまいだあ・なんまいだあ」の世界に昇天したのは致し方ありません。
それにしても訓練しつくした踊りの所作や、笑顔を絶やさぬ表情など見ると地元茅ヶ崎のお姉さん方フラダンスとは月とスッポン、いやはや感激だけの恍惚な時間を楽しみました。
次の日ものんべんだらりとぼんやり時間を過ごし、まるでハワイに行ったようなお土産を抱え込んで、15:30現地を出発し、新宿着が19時過ぎとなりました。新宿は小田急デパートの傍に着いたにもかかわらず、目の前のJR駅にたどり着くことさえ、あたふたする始末。
いやはや都会で行くのが大変な時代となりました。年取ったなあ。。。。。


宿舎はハワイとはいかず田舎の風景

レイだけがひと際キレイ(記念写真撮影用)

ホテル玄関ではハワイ気分を演出
TOPページへ

運慶展を見に行く

2017年11月16日

だいぶ昔ではあるが、東京で運慶の様々な仏像は見た思いがある。
印象的だったのは円成寺の若々しい大日如来坐像で、みなぎる若さが他の仏師を圧倒していることに強い印象を抱いたものだ。
その時、関東にも素晴らしい運慶仏があり、横須賀の浄楽寺というごくごく近所に鎮座ましましていたことにビックリ。
だってこの時代でも奈良・京都にしか有名仏像は無いと思っていたからだった。
さりとてその時は浄楽寺の運慶さんでも特別な感慨は沸いてこなかった。
しかし、今回同じ阿弥陀三尊を見ると、穏やかなお姿にもかかわらず、内から湧き出る気力・迫力に目を見張るものがあり、どうして見た時期によってこんな印象が変わるものかと我が目を疑ったのである。

昨今は何かというと「何をするにも、気力・信念」と言い続けていることもあり、 当方の心情が見た目を変えつつあるとのことであろうか。
穏やかに我々の願いを受けてくださるとの温かい仏像が多い世の中で、仏像そのものからオーラが発せられ、攻撃的にも見える運慶さんの仏像が鎌倉武士に人気があったことに、「なるほどね」と思えた展覧会でありました。

国立博物館運慶展チケット
TOPページへ

道志川を行く

2017年11月13日

紅葉もそろそろ終盤の時期。どうせならと今まで全く踏み入れたことのない道志川をさかのぼることとした。
いつもながらの伊勢原から宮ケ瀬ダムに出る道は交通量も少ない快適な山あいの道。
そして今年は何回行っても水の量が情けないほど少なかった宮ケ瀬湖が最近の大雨続きですっかり面目を一新し、ビックリするほど湖が大きく、今を盛りの紅葉も従えて、晴れ姿をみせてくれたのです。

宮ケ瀬湖を車で相模湖側に10分程度進んだ先から道志川に沿った道が山中湖まで40キロメートルも続く国道413号線。
裏丹沢と呼ばれるこの地域は、谷も深く、急に深山に分け入るような光景にびっくりしながらの運転で、首都圏から山梨県に踏み入れたことを実感。
折しも山全体が錦に彩られる季節に遭遇し、我が茅ヶ崎の台風でいじめつくされた枯葉の干からびた色とは別世界。もう10日も経てば枯れ木だけが残る冬模様となる今が一番良い時期なんでしょう。
それにしても信号機が無く人影もほとんどないうえに、昼食をとりたいのですがドライブインのかけらさえも見当たりません。
それでは道路沿いの看板で知った日帰り温泉施設なら食堂ぐらいあるだろうと谷底に降りて行った先にあったのが道志川温泉「紅椿の湯」でありました。
思ったより大きな温泉施設はX字型の谷底に狭苦しそうに建っていたのですが食事だけでもOKとのことで、山梨に来たならば「ほうとう」でしょうとさっさと注文は腹がすききった証拠か。
座敷に座り込んで見る目の前の道志川は思った通りの澄み切った清流で、木々の彩りに囲まれながらの食事は贅沢の極みでありました。
温泉に入らなかったのはちょっと心残り。でも久しく見なかった全山紅葉の美しさが目に焼き付いた1日でありました。

宮ケ瀬湖畔園地

紅葉の宮ケ瀬畔園地

宮ケ瀬湖の紅葉

道志川温泉にて

食堂からの眺め

谷底の道志川温泉
TOPページへ

満開のザル菊を鑑賞する

2017年11月7日

11月と言えば菊開花の時期。お城や公園に行くと菊人形展真っ盛りのはずが、そんなメジャーなとこなど行かない我々が、ひっそりとザル菊の盛りを見させてもらった。
場所は足柄平野の最奥部の御殿場線の山北近くで矢倉沢と言いました。
普段の時期なら鄙びた集落で、車なら通りすぎてしまうような小さな山村に、この時ばかりは村中のテントを総動員して、臨時駐車場と接待所ができているのです。
おまけに自治会婦人会の方々がうち揃ってのお出迎え。
今年の天候不良のせいだろうか秋の花々は元気が無いようにも感じていたのに、咲き誇るザル菊はいやはやピッカピカの豪華絢爛絨毯模様を形作っていました。
なんとなくうれしくなったせいで、アイスを食しミカンを買い込み、草餅まで買い込んだのは興奮の証か。
そして畑を回りながらザル菊鑑賞をしっかり行いました。(念のため)
同行さえたお方が「ザル菊とは苗にザルをかぶせて育てるのですか」と私に聞くのです。
この菊はねえ。。。黙っていてもまん丸い姿にお育ちになるんですとやさしくお答えしました。
矢倉岳を望む小さな集落の秋をいつくしむ旅でもありました。

満開のザル菊

山合いのザル菊

臨時出店のテント
TOPページへ

パイプのけむりを読む

2017年11月5日

“古いアルバムめくり”とは涙そうそうの冒頭のくだり。
当方も50年前の若かった自分を思い返す、団伊玖磨さんの「パイプのけむり」を読み返す。
えらい博学でとんでもない知識人の代表でもある彼の随筆は、ユーモアいっぱいの楽しい文体なのでありました。

世界八景との命題で彼のお父さんとの会話が。記されている。
「近江八景。その八景を全部言って見給え」と言う。そして、こんな事は日本国民の常識だよ。君。と済ましている。
そこで、こちらは日本国民から追放されては大変だと思って、一所懸命に琵琶湖の向う側のことを考えながら近江八景を思い出した。
「堅田の落雁、矢橋の帰帆、粟津の晴嵐、比良の暮雪、石山の秋月、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、瀬田の夕照。たしかこれで八景でしょう」
「そうだ、それなら、何故それは八景なのか、その理由を言って見給え」
「それは、支那の真似だからですよ。支那の瀟湘八景と言うのを模して近江八景は決められたんですから」
「そうだ、それなら瀟湘八景を全部いって見給え」
父親は楽しそうに追い詰めて来る。

中略

「よく覚えておられますね」
「僕はね、役に立つことを覚える興味は全然ない。役に立つことを覚えるのは他所の人にまかせることにしている関係上、役に立たぬことはちゃんと覚えている」

彼の博識だった理由が、垣間見れる楽しい会話。そして昭和のにおいがどこはかとなく感じられる品のあるやり取り。
葉山の御用邸を超えた高台に住んでおられた団さんを改めて懐かしく想うのだった。

懐かしい「パイプのけむり」
TOPページへ

やっぱり弘法山でしょう

2017年10月31日

今日は良い天気のはずでしたが、やっぱり雲が上空を覆いつくす今年の秋ならではの1日。
日向薬師の再訪を済ませ、秦野郊外にある弘法山に出向いたのです。
国道246号線を伊勢原から松田方面に進めると一山超える感がする場所が弘法山。
地元では当たり前の場所なのでしょうか、標識も見当たらない中、こっちのほうらしいと見当をつけて高みに向かう。
たどり着いた駐車場からは急な階段をふうふう言いながら老体を鞭うつのは日頃の運動不足解消には絶好のチャンス。
でもねその脇には羊さんがのんびり草をはんでいるのでした。
なんとなく穏やかな気分で、話はこの羊食べちゃうんだろうかなどと不遜な話題で息を弾ませやっと尾根道に出、そこから10分程度緩やかな登りの先に弘法山の展望台はありました。
夕日を浴びて近くに見える丹沢の山々はやっぱりこの秦野が丹沢の山懐に囲まれていることを実感するのです。
残念ながら富士山は雲に隠れ、箱根の山並みが辛うじて見えたのですが、おそらくこれからの時期はその絶景が美しくみられるのだろうと思います。
木々の間からは相模湾と江ノ島がずいぶん近く感じられたのですが、それは湘南地域がこの秦野から真近な場所にある証なのでしょう。
手の届きそうな丹沢の山々を眺めながら、この秋改めてこの近隣を散策する楽しみを満喫する我々なのでありました。


弘法山展望台

羊が草食む先に丹沢連峰を眺める
TOPページへ

中川温泉を行く

2017年10月24日

台風一過秋晴れと思ったら、そう長くは続かない。でもね、今まで雨ばかりだったから降らなきゃ儲けもの。
神奈川でも山深い丹沢山塊のどん詰まりに出かける。
それが御殿場線・山北から更に北上する丹沢湖を通過し、細いくねくね道を渓流沿いにさかのぼったドン詰まりが信玄隠し湯として有名な中川温泉なのであります。
秘境なのでしょうか、行きかう車はめったに出くわさず、おまけにクマに注意などと心細さに大丈夫かとも思われる心境は秋深い旅路のおなぐさみ。
温泉は最近十分味わったので、温泉街を軽くかわし、我が車は更に更に渓流沿いに奥をめざしました。
もうこれからは無理かも思われる場所に、十数件のバンガローとともに広場を伴ったキャンプ場(ウェルキャンプ西丹沢)があり、そこでお昼ごはんを食べたのです。
こうなりゃカレーとその他手が掛からないメニューでしたが、それはそれでおいしいもの、自家製のパンも併せて食し、キャンプ気分の百分の一程度は味わったと感激いたしました。
一昨日の台風で大雨が降った、この一帯はそこら中、山からの小川が勢いよく流れ下る本流は不思議なほど透明で、これがこの川の特徴でもあるのです。
まだ秋の気配は感じられないものの、数本の赤く色づいた紅葉が「ああ、奥深くまで来たな」と思わせ、とてもとても遠くを旅したと感じるドライブでした、

奥丹沢の紅葉
TOPページへ

三井寺にて

2017年10月17日

京都日帰り旅行に出かけた。
午前中、大津の滋賀県庁での所用を済まし、山裾にある三井寺を訪れた。
今仁王門から入る境内は緩やかな上り坂の正面に山内一の大伽藍・金堂がどっかと構えている。檜皮葺の建物で品格がある上にいやはや大きいのです。
中には各時代の仏像類が本尊を囲む大きな厨子を取り囲むように並んでいて私が注目したのは、五六体の円空仏で、そうそうたる阿弥陀仏などの中で、異空間を感じさせる親しみがひときわ心に残った。
金堂の直ぐ傍にこの寺の名となった天智天皇などの産湯をつかった泉が沸く。
雨が続いているせいで「ごぼぉごぼぉ」と響く湧き水の音があたりに響きわたるのにはびっくり。
大師堂、三重塔、灌頂堂、一切経蔵、など重要文化財のお堂がずらっと立ち並ぶ光景は、ここが歴史ある天台宗の大御所であることをいやがうえにも思い知らされる。
最後に琵琶湖展望の眺めで有名な観音堂は西国十四番札所として、一転庶民的な安らぎを感じた。
休憩に立ち寄ったお土産でいっぱいの茶店で、ぜんざいを食べながら「京都の土産は飽きたので、この大津ならではの土産物を買いたいのだが」とお姉さんに聞くと、待ってましたとばかり、名物の三井寺力餅と弁慶引き摺り鐘饅頭を薦められたのです。
我ながら馬鹿だなあと思ったのですが引っ込みがつかずしっかり買い込みこの地を後にしたのです。
でもね、自宅の女どもには美味しいとすこぶる好評でした。

大津名物・三井寺力餅
TOPページへ

羽田沖洋上ツアーに行く

2017年10月12日

いつものお仲間3人組で羽田沖洋上ツアーに参加した。
集合場所は羽田国際線ターミナル2階の国際線到着ロビーとのご指定。
こんなビルの中からどうやって船に乗り込むのだろうかと不思議に思いながら、とりあえず電車で羽田へ。
突如国際線ロビーについた我々は、物珍しいやらうれしいやらでまずはビールで乾杯。
それにしてもツアーの集合場所とおぼしき地点が見当たらず、インフォメーションの方々にも聞いてみたが用を得ない。
そして集合時間の15分前、3時45分にやっと添乗員さんの小旗がひっそりと旗めいたのであります。
船へは歩いて20分ほどの多摩川べりから乗船と告げられ、なんとなく物悲しい気分。そして用意されたお船は39名の参加者でいっぱいのかわいらしい小舟でありました。

まずは空港の沖合から飛行機の発着を楽しむのでありますが、世の中には鉄道好きがいるように、飛行機マニアもいるらしく、隣の3人組は興奮して騒いでおりました。
そこから京浜工業地帯の工場夜景が続くのですが、TVやパンフレットのような光輝くスペクタクルとはいかず、本日はお日柄がちょっとよろしくないようでと添乗員さんも言い訳がましい。
そして2時間近くの船上ツアーの最後こそ、おとぎの国横浜ベイエリアの一大スペクタクル。
これが、今回ツアーのハイライトで無事終了したのでありました。
なお、当方の感想は羽田の沖合が更に埋め立てられ、いずれ更なる空港拡張が行われるのであろう姿を見ながら、「東京湾って広いなあ」と感激したのでありました。

川崎沖

横浜ベイブリッジ遠景
TOPページへ

運動会っていいもんだなー

2017年10月8日

秋晴れの好天気の中、この地域全体での恒例「第55回松林地区大運動会」が赤羽根中学校校庭で開催された。
昨年は雨にたたられながら、なんとか体育館内ではしょったプログラム進行と寂しい想いで終わったが、今年はピッカピカの好天気。
それにしても昔ながらの地域対抗運動会というのはもう珍しい部類に入るのかもしれない。
参加自治会は十数自治会で、わが新宿(あらじゅく)自治会は近年高年齢化が目立ち、いつもビリ近くの低空飛行が続いていた。だから参加することに価値があるなどとオリンピック並みのモラルが続いていた。
しかし、今年はどこから現れたか30歳前後の若者の活躍が大活躍し、男子リレーでは2位、女子リレーでも3位の好成績。その他玉入れ、綱引きなども上位入賞が続いた。いやはやビックリである。
そのせいで我が自治体テント内はボルテージが上がりっぱなしで華やかな歓声がひときわ目立つ。
当方、最後まで居られなかったので最終結果は判らなかったが、今年こそ、ベスト3位の中には入ったと思う。
地域の絆はこのような感動を共用することが、連帯感を強めるのであろう。
楽しい楽しい運動会であった。

会場全景

我が自治会テント

玉入れ

綱引き

女子リレー

男子リレー
TOPページへ

小田原一夜城跡にて

2017年10月3日

小田原の城を落とした豊臣秀吉が陣を張ったことで有名な一夜城跡は歴史を知る人には有名な場所ではあるが、城が現存しているわけでもなく、急ごしらえの仮設城址では大したことはなかろうと思っていた。
しかし、行ってみると石垣が随所に残るまさに古城跡なのでありました。
小田原から箱根に向かう東海道沿いのミカン山の中に二の丸跡、本丸跡とその広さは本格的な山城ができる十分な広さを有し、積み重なった石垣を見ても、こんな石をどうやってこんな山の中に運んできたのだろうかと不思議に思うほどでした。
いやはやとてもやっつけ仕事とは思えませんぞ。突然一夜にして現れた天守閣にこれでは北条勢も参ったと思うのは致し方あるまいと納得。

しかし、この場所はここだけではなく、すぐそばにおいしいスイーツと食事ができる「ヨロイヅカファーム」が有名で、そこを訪れる観光客が多いとのこと。
私のような歴史好きのじいちゃんはまったく知りませんでした。
更にこの経営者の奥様が亡くなった川島なお美さんであることも人気に拍車をかけている理由。
残念なことに火曜日定休で食事はかなわず、小さなファームを見学しただけだったが、そこに川島なお美さんの自筆の碑が花に埋もれてたたずんでいた。
碑には彼女の好きだった蝶々が刻まれていて、折しも大型のアゲハ蝶が花の蜜をさがし、碑の周りを飛び回っているから、まるで彼女が蝶となって今ここに降りてきたようにさえ感じるのでした。

たくさんの花に囲まれた碑は華やかだった彼女を髣髴させる光景で、眼下に望む相模灘をバックに、短いとは言え幸せな人生を過ごしていた証でもあるようにも思えたのです。

一夜城二の丸跡

ヨロイヅカファーム

川島なお美さんの碑
TOPページへ

わが身の近況を語る

2017年10月2日

週1回のリハビリ通院を行っている。そして月1回の診察も義務化されている。
もう脳梗塞で入院してから1年4ヶ月、心待ちにした退院後からも1年を経過した。
今月の診察では病院の先生もそろそろ治療の卒業時期だなとも話される。
いよいよ長かった通院生活からも解放される日が近いのか。
なんの心配もなかった昔の状態には程遠いが、実生活に復帰してそれなりの回復はうれしい限り。
長くベッドでの生活で衰えた筋肉を、これからも少しづつではあるが付けられればと願う。

先週は久しぶりのカラオケを「さてどうかな」と思いながら歌ってみた。
自己採点は元の8割ぐらいは戻ったかな。音域がまだ狭く、また音程もどこか頼りない。いちじはこんな調子じゃまったく歌えないと覚悟したが、良くなる兆しがうれしい。ちょっと自信が付いた。
そして、不自由な右手で字を書けるようにもなってきた。まだ小学生並みの拙い筆跡ではあるが、年賀状を自筆で書くのが夢ではなくなってきた。
手帳に書き込んだ月間スケジュールが埋め尽くされるようになってきた。
9月末からは大船に出向いての週1回のホームページ・スマホ対応講座にも参加する意欲が戻ってきた。

この年になったらいつ倒れてもおかしくないはず。喉元過ぎれば熱さを忘れると戒めて、浮かれることなく動き回れる喜びを大事に日々過ごしたいと思うこの頃である。

紫の花・秋を彩る
TOPページへ

津久井湖へ足を延ばす

2017年9月26日

秋もいよいよ本番か、うっすら木々が色づいてきた。
そんな中、茅ヶ崎から伊勢原を通り山道を宮ケ瀬湖に向かう。
それにしてもこの湖は平常時より大幅に水位を下げたうら寂しい光景が悲壮感さえ感じる。
今年の空梅雨の影響は夏が過ぎても、水事情を一向に改善される気配がなく、黄土色の痛々しい湖底が傷口をぽっかり露呈するのは、観光地としての風格を大きく失っているようにも思えるのだが。
それでもこの地は週末となればおおぜいの観光客が溢れかえる人気の場所でもある。

それではとばかり、その先にある津久井湖に足を延ばす。宮ケ瀬湖からは30分ちかく奥に行ったところ。
相模川の上流でもある津久井湖は、見た目には水量も豊かでいつもの湖岸近くまでたっぷり満たされていた。
「そうそうこれでなくちゃ」と地元では有名な「津久井せんべい」やさんで、湖畔を見ながらのランチを楽しむ。店の外にあるテラスでの食事は空気も綺麗で、ちょっと遠くに来たなとのうれしさが心を浮き立たせるのであろうか。
このお店は「ブランディせんべい」という、生地に洋酒を練りこんだおせんべいが名物で、意欲的な女社長がさまざまなトライアルを繰り返していると同僚から聞いた。
往復のほとんどは山に挟まれた狭い道ばかりで、行きかう車も少ないひなびた人家を通り過ぎて行く。とても東京近郊とは思えない山里の景色。はるか遠くに旅したような秋の日でありました。

津久井せんべい(1)

津久井せんべい(2)
TOPページへ

お彼岸を想う

2017年9月22日

今年の彼岸花の開花はちょっと時期が狂ったか。
毎年、9月の20日過ぎにまるでお彼岸を先導するように真っ赤な花が野辺を彩るはずで、不思議なほど律儀な季節感に感心していたが、今年は14日に近くの公園で咲き出し、それは例年より1週間は時期が早い。
その1週間後に同じ場所を通り過ぎてみると、真っ赤な花などまったく見えず、よく見れば咲きがらが茶色に変色し、雑草の中に埋もれ、往時の華やかさはまったく消えてしまっている。それにしても一瞬の輝きだったのである。

書斎から読み直しにと向田邦子の「森繁の重役読本」をひっぱりだす。
若い時ラジオで聞いた森繁久彌の話芸が光る台本を1冊にまとめたもので、 この当時の社長さんの裕福なご自宅の様子、お手伝いさんや運転手が身の回りをお世話する時代の懐かしいエピソード。
昭和世代を鮮やかに切り取った話の数々に良き時代のお父さんの姿が垣間見える。家族というまとまりが厳格に位置づけられた世代でもあった。

文章を書いたら秀逸の天才である作者の向田さんは、台湾での航空事故で若くして亡くなられた。
多摩墓地にあるお墓には、森繁さんがその才能を惜しんで次の文字を刻んだという。
花ひらき はな香る
花こぼれ なお薫る

今日は我が女房とご先祖さまが眠る多摩墓地にお参りした。
今日も心に残る良い日だった。

咲き始めた彼岸花(9月14日)
TOPページへ

子猫いっぱいの震生湖

2017年9月19日

秦野は盆地だそうである。湘南海岸地帯から丹沢山塊に至るほんの短距離に一山があることはどう見ても納得できない。
しかし、この震生湖の周辺に立ってみると、明らかに秦野は目の下に広がる盆地なのでありました。
そもそも震生湖とは関東大震災の時に突如現れた湖として有名になったもの。
湖とは名ばかりでちょっと大きめの池といった塩梅。
平日の湖畔はヘラブナ釣りのおじさんばかりが目立つ閑静なたたずまい。
どう見ても若者が集う、きゃきゃとした観光地ではありませんでした。
もう閉店したのでしょうか売店と思われるきたない建物の横で、せめてジュースを買うことぐらいしかできません。
そして、住み着いていると思われる貧弱な子猫が10匹ほどはいたのでしょうか、想い想いの格好で寝転んでいました。
なんとなく悲惨な光景。うらぶれた観光地だなあと思ってしまいました。

台風一過さわやかな晴れのはずが、ムワッとする夏のなごりが残る昼下がり、秦野盆地は立ちはだかる丹沢の山々。
まだ熟していない柿の実、青なりのミカン、本格的な秋を迎えるためのしばしの休息期間のような気がしました。

初秋の震生湖
TOPページへ

「イギリス繁栄のあとさき」を読破する

2017年9月17日

台風が押し寄せる不穏な天気の中、珍しく硬派の文庫本を一気に読破した。
それは「イギリス繁栄のあとさき」という講談社学術文庫の1冊である。
これからの日本はイケイケドンドンの世界から、ゆるやかな下降線をたどるであろうから、その先輩でもあるイギリスの処し方を知りたいとの動機で本をめくった。

世界が密接につながり経済活動が営まれるなか、一国だけの事情で経済は動くものではない。
イギリスの繁栄は18世紀末に起こった産業革命によって、大きな成長路線に踏み出したと言われるが、その経営者が時代を引っ張る原動力となったかというと、実は大地主の上流貴族(ジェントルマン)がその原資を使い世界中に投資を行い、そのせいでイギリスに富が集中したのであった。
つまり戦略的に国家を動かしたのであり、その弊害として富める国イギリスと、対に搾取される植民地(例えばカリブ諸島)での奴隷労働力を使った砂糖生産などが構成要素となっている。
開発途上国がいつか全部先進国になっていくかは、もしそうなったら資源の圧倒的な供給不足になり、世界の成長は行き詰る。
つまり成長路線に乗れる国と、あくまで側面から支える国に2分化されるのはいたしかたない。
日本は幸いにも世界的に見ても富める国の一群になったが、イギリスの静かなる下降線は19世紀末から言われ続けてきたことであり、日本も同じように緩やかなる下降線をたどるであろうと結論づけている。

いままで世界経済を動かした国は、オランダのアムスルダム、イギリスのロンドン、そしてアメリカだけである。
そろそろ影が薄くなってきたトランプさんの アメリカ第一主義はアメリカそのものの下降線への先駆けであろうか。

イギリス繁栄のあとさき
TOPページへ

劔埼灯台を訪れる

2017年9月11日

長年一度行ってみたいと思っていた場所に三浦半島突端にある劔埼灯台があった。
この春城ケ島は制覇したものの,その傍にある劔埼へは脇道をほんのちょっとで着けるものの足が遠のくのは気力の不足か。
それならばと最初からこの灯台めがけて行くこととした。
三浦半島突端のスイカ畑、あるいは三浦大根、そして春キャベツの広がる高台の果てにこの灯台は威厳が感じられずに立っていた。
灯台の先は確かに切り立った断崖となり、その下は太平洋なのだが、畑の先に唐突にそびえる灯台は遥けくきたとの感がないのが拍子ぬけさえする。だって灯台は生活臭が無いのが原則だからだろうか。
東京湾の入り口として明治の初めから建っている重要な灯台なのだが、行く道も車1台がかろうじて通れる一本道で駐車場もなく、観光地という風情はまったくない。とりあえず見るのは見ることとして早々に退散。

それならばと、すぐ近くの漁港で食べたご当地名物「松輪のさば」が心に残るのは致し方あるまい。
湘南とは思われないどちらかというと外房の漁村との風情を残す江奈湾の中にグルメでは名が知れた、「地魚料理・松輪」があたりの光景には不似合いの立派な建物として燦然と建っていた。
灯台近くでもほとんど人に行きかうこともないのに、このお店は20卓もないテーブルが満杯状態で、どこから現れた人たちかと目を疑う。
安手の食堂とは違い、東京湾を行きかう船が見えるガラス窓いっぱいのオーシャンビューで、それなりの食事は「ああ、幸せ」の一言に尽きる。
昼のひと時、青い空、そして青い海で味わうビールはうまそうだったなあ。
当然、しめ鯖の定食としたのは言わずもがな。
とても遠い漁村でうまいものを食べたと感じる劔埼灯台行は、「まずは食べ物」という旅行のイロハを改めて思い知った小さな旅となったのです。

劔埼灯台

サバの定食

対岸の房総の山々を望む
TOPページへ

洒水(しゃすい)の滝を見る

2017年9月5日

御殿場線の山北駅からほど近いところにある「洒水の滝」へ行った。
箱根のご近所とは言え、平日の昼近くでハイキングに歩いているひとは10名程度だろうか。人気観光地から一山越えればどうなったのだろうかと思えるほど人けが少ない。

足柄平野のどんずまりに急激な傾斜を持つピラミット型の矢倉岳が鎮座するその脇にその滝はあった。
それほど水量も多くない渓流に沿い、渓谷をさかのぼった先の駐車場で降り、歩いても5分程度だから、伊豆の浄蓮の滝を思わすせいぜい10メートルを超えるこじんまりした滝を想像したのだったが、狭い渓谷の最奥部に69メートルもの高さでちょっと斜めに滑り落ちる姿は「あれま、びっくり」の感動的な名瀑でありました。
折しも最近この山北町は突然の集中豪雨で避難指示が出た地域。そのせいで水量が豊かだったのかもしれませんが。。。。。

世が世なら観光バスが連なって訪れる名所と思うのだが、平日でやる気があるとは思えないうらびれた販売所がひっそりとあるだけ。案内の看板は苔むし、斜陽との言葉がぴったしの地味なお姿にもったいなさを感じたのでした。

山北・洒水の滝
TOPページへ

出雲恍惚旅行記(完結)

2017年5月19日

出雲の神様方には充分なる誠意を示しながら、神仏の仏様には一瞥もくれないとのご指摘もあり、最終日は大山(だいせん)に寄り、お詫びをすることとした。
本日も快晴でお山も見晴らしが良好。緩やかな登りを車は飛ばし、天台宗の古刹としても有名な大山寺に到着。
えらい急坂の先にある本堂は度重なる火災により近年再建されたものではありますが、立ち並ぶ石碑には、多くの歴史が積み重ねられていることを物語っており、ここが修験道の霊場であることを強く感じます。
時期外れの平日とは言え、門前にはちょっと寂れた土産物屋が並び、支える檀家が無いので、ご寄付のお願いというのがこの寺の難しさを示しているようでした。
そしてちょっと寄り道で大山の全容が美しく眺められる枡水高原へ。このお山の5合目と言ったところでしょうか、今にも頂上に手が届きそうな近さに全容が見られ、スキー場でもあるこのスロープは、若葉溢れる高原地帯。
ヤッホーの叫ぶ声では無く、エガッタ、エガッタの大合唱で、このおじさんたちの旅の締めともなったのです。

米子空港を起点に松江、玉造温泉、出雲大社、大山と3泊4日の豪華旅行は 天候に恵まれ、おいしい食べ物に満足し、温泉で疲れをとる、これこそ 冥土に良い土産となった極楽旅行でした。
いつまでもこの元気を持ち続けたいものです。

大山寺山門

本堂は落ち葉焚きで煙模様

枡水高原より大山全景
TOPページへ

出雲恍惚旅行記(6)

2017年5月18日

出雲大社から車で30分も切り立った海岸線を行った先に日御岬(ひのみさき)灯台は聳えていました。
改めて想えば大社の裏山は日本海の荒波を遮って、風雨を鎮めたのでしょうか。
宍道湖のシジミちゃんなどがいる茫洋たる湖とは違い、この荒海が打ち寄せる日本海にどうだどうだと東洋一の高さでがんばる日御岬灯台。
早速、全国の灯台はすべて登り切ると豪語するOさんは、そそり立つ階段をファイト一発で登り切ったのであります。
それにしても済んだ空気も幸いし、先日の美保岬では見られなかった、隠岐の島影さえしっかり見ることさえできました。

そこから、歩いてでも行ける距離の小さな入り江に日御岬神社がまるで京都の八坂神社を想わせる優美な姿で建っていました。
こんな辺鄙なところにどうしてこんなみやびな建物を建てるんだろうと不思議な気がしますが、海からすぐの竜宮城を連想する朱色が鮮やかな本殿などは、江戸初期に建てられた重要文化財なのです。
出雲大社に代表される白木の簡素な神のやしろを多く見てきた今回の旅で、別格の感があるこの神社は印象がひと際大きかったと感じました。

東洋一の高さを誇る日御崎灯台

朱色あでやかな日御岬神社

神社は日本海の間際に鎮座していました
TOPページへ

出雲恍惚旅行記(5)

2017年5月18日

今回の出雲行きはOさんのご両親が出雲大社でご結婚なさった場所で、ぜひ訪れてみたいとのご希望をかなえた旅行であります。
当方はと言えば、大和民族に対抗できる巨大勢力を持ちながら、静かに消えて行った出雲の神々の名残りに強い郷愁を覚えたのです。
その象徴としての出雲大社は、大きい、大きい、立派、立派と感激は隠せませんが、近年その近くに建てられた古代出雲歴史博物館にある荒神谷遺跡で発見された358本もの銅剣、加茂岩倉遺跡で発見された39個の銅鐸とを総合的に思うと、日本そのものの起源を想わせる壮大なパノラマを見る思いでした。

大社で感じたのは、大社の後ろに奈良・春日大社を想わす自然林が山となって立ちはだかっていたこと、また、この地から遠くない場所に日本海が迫っていたことです。
訪れた日はおそらく年に何回もないだろうと思われる、さわやかな晴天であったこともあり、燃え立つような新緑に囲まれた出雲大社は壮大な出雲の聖地との印象が強く胸に残りました。
そしてそそり立つご立派なポールに掲揚された日の丸の旗こそ、我々の心にしっかり刻まれた象徴かもしれません。

余談ではありますが、古代出雲歴史博物館の受付嬢のひとりが天平時代の絵に描かれた美人の代名詞の下ぶくれの福やかなお顔をしており、
ちょっと大陸を思わす印象に、この地が異国との交流地点のひとつとなっていたように思えたのでした。

出雲大社・拝殿

出雲大社・本殿はともかく大きい
TOPページへ

出雲恍惚旅行記(4)

2017年5月17日

出雲に行くのだから、ご本社様だけではなく、御親戚一同もしっかりご挨拶をせねばとの気持ちで、今回の旅行企画担当マネージャーは、古事記の本など調べながら、プロ仕様の訪問先をしっかり入れ込んだのは当然の責務でしょうか。
@神魂(かもす)神社
松江近郊の自然豊かな丘陵地にある、現出雲大社より昔から建っている大社のおじいさんに相当するちょっと年季の入った建物。
本殿は現存する大社造りの社殿のうち最も古く、国宝に指定されている割りに見た目には疲れ切ったこ汚い建物にも映るが、
もうちょっと気合を入れて修理したらと気の毒に思った。
神社の管理人とおぼしきお姉さんが我々の参拝をしたあとに到着。これではなあ。。。
A八重垣神社
神魂(かもす)神社から近く、若い人には大人気の恋人占いでは有名な神社。
説明文では、神話「八岐大蛇(やまたのおろち)」で、大蛇を退治した素盞嗚尊(すさのおのみこと)と稲田姫(いなたひめ)が新居を構えた場所であることから、縁結びの神社として知られています。
宝物殿には、2人の姿を描いた壁画があり、神社の障壁画としては日本最古のものといわれています。
稲田姫が自分の姿を映したといわれる「鏡の池」には、硬貨を紙片に浮かべて早く沈むほど早く良縁に恵まれるというコイン占いがあります。
我々には恋占いなどと青っぽいたわ言のは興味も無く、ただ鏡の池でお札を浮かべている恋人らしき若者をコンチキショーと嫉妬したのが、せめてもの成果といえるでしょう。
B美保神社
境港から近い美保岬の傍にある由緒ある神社。説明文では、出雲大社の祀神・大国主命(大黒様)の子である「えびす様」の総本宮です。
出雲大社・美保神社の両神社に足を運ぶ「両参り」が良縁を結ぶと言われています。
本殿は美保造りと呼ばれ、大社造りを2棟並べた独特のものです。国の重要文化財に指定されています。
我々はここの前のお土産やさんに入り、今年のイカ漁がいちじるしく不漁で、仕入れも高くなって困るとの地元有力情報を手に入れたのでした。
その対価として、お店のばあさんからイカの丸焼きを購入し、松江城の大手門近くで、おいしくいただいたことを報告いたします。

まとめ
太古の大勢力がこの出雲に居たことを目の前で感じさせる素晴らしい神社の数々。
ご堪能いただけのではないかと思っているのですが、そんなことより、不老・長寿への効き目がどうなっているかが課題と反省しております。

国宝・神魂神社

八重垣神社の鏡の池

美保神社のご本殿
TOPページへ

出雲恍惚旅行記(3)

2017年5月17日

松江城はこの地域一番の観光地。駐車場も満杯で、しばらく待機の状況。
そんな中、当方はひとり車を降り、城の登り口に立っていました。しかしながら、ごった返す観光客の大半は韓国、中国の団体客で、ピーチク・パーチクうるさいったらありゃしない。
国宝になったばかりの松江城は現存する城郭として山陰では唯一のお城で、威厳さえ感じられる黒板塀の重厚なお城。目の前に立つとどっかと構える面構えが、横綱のような自信を感じるのでした。
今回の旅の目的の一つはこの松江城を見ることにあったのです。やっぱりおじさんがたはこんな昔の建物に吸い寄せられるのでしょうか。

お城の傍にある観光案内所兼お土産センターは、いやはやすべて縁結びに結び付けた膨大なお土産類の数々で、観光客にはひとり残さず買って帰っていただきますとの固い決意さえ感じました。
おびえ切ったUさんは愛妻にと縁結びの勾玉をご購入されたと語っていましたが、私など出雲そばをちょちょっと食べて、さっさと逃げ切ったのは旅慣れた対処方法だったのでしょう。

松江は昔の格式が色濃く残り、お茶がたしなみとしてしっかり根付いていると聞き、それではと武家屋敷の佇まいが残る高台にある茶室「明々庵」を拝見。
小奇麗な茅葺きの茶室に隣接する、寺院の応接間のような眺めの良いお部屋で おばさんのうんちくを聞きながら、お茶をいただいたのであります。
本日は平日のためお客も少ないのでしょうか、ご説明には建物の由来、掛け軸の解説、出てきたお菓子の由来など、おばさんの気が済むまでお話を聞かせていただきました。
ゆったりした旅のせいで、時間を気にせず、これも一興と余裕で対応できたのが、松江の思い出でもあります。

国宝・松江城

お茶室・明々庵にて

松江城のお堀で
TOPページへ

出雲恍惚旅行記(2)

2017年5月16日

玉造温泉は山陰屈指の名湯で、我々3人組はここに3泊することとなったのです。
日頃、コストパフォーマンスをすべての優先としてきたのにANAの格安パッケージツアで選択した「松之湯」はこれでどうだとばかりの一流旅館で格式も高く、食事ももうこんなには食べられませんと言うほど豪華・絢爛に用意がなされていました。
おかげでお刺身、すき焼き、生ウニのイガイガ付きお造り、イカ、カニ、のどぐろの焼き魚、鯛のカブト煮、浜ナベ、など毎日手を変え品を変えて攻め続けられ、おいしいお酒も手伝って毎夜8時を過ぎるとバタンキュウ。
しかも美白になると言う名湯玉造の湯は、我々年寄りにはおぼつかない足元でちょっと滑りやすいことに気をつければ「ウウ、極楽極楽」とただただ念仏を唱えるように、このままでも昇天できるありがたさが実感できました。

到着日にはベテランのお姉さんが部屋と食事会場での面倒をみていただけました。
そんな夕食の談話では、Oさんがこの5月20日で結婚50周年を迎えることとなり、この旅の帰宅が19日なので、奥様に充分な心の余裕をあげられなく、悪かったとのやさしい発言があり、日を変えたほうが良かったなどとの軽い話題も持ち上がったのであります。
そんな話を聞いていた係のお姉さんが 突如、それではおめでたい話と一包みの記念品をOさんに手渡ししたのです。
しかしながら次の日も、その次の日もそのお姉さんは我々の部屋にも食事会場にも表われず、どうしたもんだろうと心配し続けたのであります。
その結果、おそらく旅館のお客様用プレミアム贈答品を許可なくOさんに渡してしまったため、上層部で問題となり、責任を取って辞めざるを得ない事態に追い込まれたとのではないかと結論付けたのでした。
我が旅に一つの汚点を残したのでは、返す返すも残念ですね。

川の傍に湧く源泉

ゆっくりお入りなさい
TOPページへ

出雲恍惚旅行記(1)

2017年5月16日

出雲の国へは飛行機にて1時間強で到着。
正確には着いたのは隣の県で有る鳥取県・米子空港で、ほんのひとっ走り境港を出ればすぐ島根県・出雲なのであります。
米子空港でレンタカーを借り、まずは「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な境港ヘ。
今日はお休みの店もあり、不承不承ばかにノボリ旗が目立つ元気一杯の食堂で、私とOさんはイカどんぶり、Uさんはカニラーメンを注文。
店内ではお嬢さんお一人で受付・調理・レジ対応まで対応しており、これではそこそこの味とあきらめていたのですが、新鮮なイカいっぱいのイカどんぶりと「日本海にきたらカニでしょう」とカニ満載のカニラーメンに、予想外のパンチを受けた大満足の昼食でありました。
街中の中心街は200メートル程度の古い街並みで、マンガのキャラクターが並び立ち、これぞ水木画伯のふるさとを実感したのですが、個人的にはブームもピークを過ぎたように感じました。

米子空港は自衛隊の美保空軍基地と共用しているためか、目の前の山上にはレーダー基地が配備され、
時節柄北朝鮮に近い緊張感が漂っているようで、 我が3人組もこんな浮かれた気持ちで日本が守れるのかと安部首相のような気持ちにもなったのでした。
美保岬はイノシシ注意のある寂しい海岸沿いを走ること30分の高台にひっそりとたたずんでいました。
灯台横の展望の良いビュッフェで日本海を一望しながらの喫茶は、改めて「遠くに来たもんだ」と感激したのであります。
今日の日本海は波穏やかで、紺碧の海は荒海・強風渦巻く演歌の世界とは別世界。
北朝鮮からの密航者がたどり着いていないかと急に防衛省役人のような厳しい視線を注ぎ、
原爆許すまじ、断固竹島を守れなど、正しい日本人の意欲をかきたてられたのでした。

パンも鬼太郎でした

鬼太郎一家勢ぞろい

美保灯台は可憐でした
TOPページへ

真打は大山かな

2017年5月13日

この1ケ月の間に神奈川を駆け巡ったけれど、でも丹沢の本家・大山が抜けている。
しかし、雨降り神社のある大山の中腹までは行かず、その代わりとは言っては何だけど、リニュアルしたと聞いた日向薬師を訪ねることとした。
大山はケーブルの下で引き返したが、それでも伊勢原市内からそれほど離れてもいないのに宿坊の並ぶ古風な坂道は、急に大田舎に来たように感じるから不思議。
これだけでも、東京からそんなに離れていないのに、深山の奥に来てしまったと嬉しくなる。
急坂のところどころから遠く相模湾が見渡せるのがご愛嬌か。
ちょっと泊ってみたくなる不思議な魅力を感じるのは私だけかな。
日向薬師は大山に向かう脇道を走り回った先に静かにたたずんでいた。
ここに来たのはもう10年前にことだろうか。苔むしたカヤ葺の同堂の屋根は近年きれいに拭きかえられ、ことのほか立派にどうだと胸を張っているように感じる。
それにしてもこの本堂は大きい。 有名な十二神将を囲む仏像類はしっかり拝観したが、残念ながら中央の鉈彫りで有名な秘仏は今回見ることが出来なかった。
それにしてもこんな片田舎に関東屈指の仏像が、ひっそりたたずんでいるのは嬉しいかぎりである。

大山ケーブル下

きれいになった日向薬師本堂
TOPページへ

緑のシャワーに浸る

2017年5月05日

箱根からちょっと離れた松田の近くに日帰り温泉施設があるとのことで、連休後半のごったがえす箱根を避けて、車を飛ばす。
最乗寺はこの早春にも訪れた天狗さんのおわします壮麗な寺院。
その目と鼻の先にある温泉施設には大雄山線の終点駅・大雄山駅までは苦も無く行ったものの、そこからは細いクネクネとした坂道ばかりで、農家の鼻先を通りながら、どうやらここらしいと山の奥に入って行く。
あんまり行き交う車も見当たらない山道を走ること10分くらい。
新緑の美しい「オンリーユー」に無事到着。
今回は温泉には入らず、自然食のランチを楽しむのが目的だが、その会場は目の前に一面明るい緑の木々で覆われた、大きな窓ガラスの広々とした食事会場。
まるで森の中にいるよう。
こんな雰囲気は”軽井沢で味わう開放感かな”なんてとても嬉しかった。緑の中で食べる食事はおいしさだけではなく、心がさわやかになったように思えるから不思議。
”今度来るときには絶対お風呂もね”と心に決め、ちょっとその雰囲気を味わう休憩場を一瞥しながら、後ろ髪を引かれるように後にしたのだった。

オンリーユー玄関

木立の休憩スペース
TOPページへ

遠い遠い観音崎

2017年5月01日

地図で見ると東京湾の真ん中近くに観音崎はある。
それなら車でひとっ走りで着くと思っていた。しかし、横須賀からでさえ、ずいぶん先があるのだ。
我が茅ケ崎からは、江ノ島・鎌倉を海沿いに進み、逗子・葉山から三浦半島を横断して横須賀にたどり着く。
そこから東京湾に沿って、横須賀から更に奥へ奥へと進むのであるが観音崎は更に突端に向かう。
人口減少に激しいこの町は海岸のすぐ傍まで丘陵が迫り、スイスも真っ青のような急傾斜地に昔からの住宅が並んでいる。
これでは老人は生活が成り立たないだろうと余計なお世話を言いたくなるのはいたしかたあるまい。
他方横須賀はさすが軍港の関係で関係者の高級住宅地が埋め立てられた海岸に沿って続き、防衛大学校などの豪華絢爛の建物が並ぶその先に目指す観音崎の周りが小さな漁村としてここだけは昔の風情を残して場違いの風情を感じるのだった。

しかし、岬近くの海岸に立ってみると、目の前は東京湾を挟んで千葉の工場地帯、そして真近かに横浜のランドマーク地帯と、この観音崎の小さな岩場を除く、周辺は都会地に飲み込まれたような光景だけが印象に残る。
我々は浜大根が乱れ咲く岩場で、思ったより強く吹きつける海風を受けながら、東京湾の水もきれいになったものだと感心しながらこの場を後にした。


これぞ観音崎灯台

浜大根の咲く浜辺
TOPページへ

緑したたる丹沢の山懐で

2017年4月29日

この5月連休は晴天ばかりで、行楽には絶好の天気。
美しい新緑を堪能したいと友人の車にお願いして、丹沢に出かけてみた。
同じ神奈川に住みながら、箱根は良く行くが、丹沢はとても遠い感覚がする。
しかし、我が茅ケ崎からはほぼ一本道で伊勢原・秦野には行けるのだ
そして、私が若い時に行ったことのある大倉キャンプ場への道すがらにある戸川県立公園は秦野市街からそれほど遠くない丹沢山塊の入り口にドオーンと吊り橋を揃えてお待ちしていたのです。
ここまで来ると前面に見える丹沢は思ったよりずっと高く立派で、急激な傾斜を揃えて屏風のように前面に立ちはだかる。「いやあ、ワイルドだなあ」などと登山初心者はこれだけで感激。
吊り橋の下はきれいな水が流れる水無川の上流部で、子どもたちが水に足を付けながら石の間を駆け回っていました。水量がそれほどでもない河岸はバーベキューなどのお楽しみには絶好の遊園地。この日も多くの家族連れが河原で和やかな時を過ごしています。

私メは言うと駐車場から見上げるように坂道を登りながら吊り橋にフウフウいいながらやっとたどり着いたのでした。そしてその吊り橋を往復して、すっかり深山を堪能したように錯覚しながら帰途についたのです。
でも、新緑に包まれた丹沢のすがすがしさには、とても感激したのでした。
エガッタ!

立派な吊り橋が出迎えてくれました

記念撮影をどうぞ
TOPページへ

どんどん変わりゆく孫娘を見て

2017年3月20日

我が家に来て早3年となる我が孫娘は5歳を超えた12月ごろから見る見る間に幼児から児童に変身した。
良い子良い子と可愛がってきたつもりが、もう分別の利く一人前の少女になるから不思議。
この数カ月で話し方もすっかり大人びてくるから、当方はただただ驚くばかりである。
今は人形遊びが好きで、保育園から帰ると居間は足の踏み場が無いほどお人形さんを並べ、その隙間に洋服ダンスから自分の服を引っ張り出し、その真ん中に収まって、お人形さんとの対話を続けている。
ママが居ないと泣いていたちょっと前の姿とは大違いで、世話は要らないのだが自分の世界に没頭中。
外に行っても、友達が見つかれば「おじいちゃんはどこかに行っていて」と文句さえ言われる。
一時も離れなかった昔が思い出される。
来年は小学校入学となるが、目の前で繰り広げられる孫娘の成長は嬉しくもありさみしくもある。

どんな女の子に育っていくのだろうか、今は溢れる愛情を注ぐことしか考えていないのだが。。。
気持ちの素直な子として大きくなって欲しいな。

お気に入りの人形に服を着せている

ヒツジのショーンちゃんも服を着せられている
TOPページへ

テッツィアーノ展を見に行く

2017年3月10日

この春はテッツィアーノの絵がどうしても見たくて、上野に足を運ぶ。
まずは同時に開催中の春日大社展も見たのだが、病後の後遺症か気力が集中出来る時が続かない。いつもなら最初から最後までひとつ残らず見ないと後悔するのだが、ちょいちょいとポイントを見るのが精一杯。
国宝、重要文化財が並び立つ展示なのに、我が体調では気になった品は前評判高い強烈な赤と彫金技術がすばらしい大鎧の名品のみ。
そのせいかどうも全体的に地味な展示だと感じた。
疲れた気持ちで東京国立博物館の広い域内でベンチに座ってみると、目の前の荘厳な本館、そして丸いクーポラが印象的な別館の眺めは、ここが日本に居る事さえ忘れさせる豪華な光景に感激したのだった。

別会場の都美術館で開催されているテッツィアーノ展では見たいのは有名な「フローラ」の1点に絞っていたが、それでも美術全集に載っている品々だけでも4〜5点が気にかかる。
ベネツィア派の特徴は輪郭の明瞭さがフィレンツェの画家とは違い、どこかぼんやりしていることかな、などとボッティチェリの絵を思い出しながら考えた。
「フローラ」はフィレンツェのウフィツィ美術館でこの作品も見たはずであるが、名品ばかりを並べられ、深い印象が無いだけに、じっくりその作品と対峙する時間の幸せ感が心に浸みていった。
豊満な女性があふれ出る色気を押えようも無く佇む瞬間の美を表しているようで、“いろに出にけり我が恋は”を思わす押え方がこの絵の魅力なのであろうか。

改めてこの上野の地で感じるのは、来場される女性方が品の良い和服姿であったり、センスの良いファッションを身につけた方々が見受けられることだろう。
非日常の時間はあっと言う間に過ぎ去ったが、帰途の電車ではこっくり、こっくりの病み上がりに逆戻りとなったのはいたしかたあるまい。

テッツィアーノのフローラ
TOPページへ

WI−FIのコース変更が成功しました

2017年2月28日

ネットで機材を申し込んだ後、数日後に荷物が届いた。
ふと嫌な予感がして、開梱が次の日にずれ込む。
そして、恐々と接続作業を開始する。
現在使用中低速WI−FI機材は、ともかく常識通りの接続で、後はそのまま使えたと記憶している。だから取り扱い説明書に首ったけとの記憶が無い。
しかし、今回はそれなりに接続したにも関わらず、セキュリティーコードを 入れろとの指示がどうしても解決しない。
いろいろ入っている説明書は文字が小さく、パスワード、ユーザーID、プロファイルなどのさまざまな文字が入り乱れる。
やるごとにおじさんは疲労困憊。いくらやっても一向に進まない。
これは素人には無理と結論づけ、折しも今日開催のパソコン教室を訪れる。
そして、地獄に仏のごとく先生にご指導をいただき、無事新規高速回線は接続できたのだった。

これだけなら、困ったおじさんの話で終わるが、その後FMを聞こうとすると 聴くための使用ソフトがうまく入って行かず(インストール出来ず)、
結局聴く環境設定を(ネットスケープからグーグルに)代えて、やっと聴くことができるようになったのである。(だいぶご苦労をかけたのです)

いずれにしても環境設定は素人にはまったく出来る作業では無いことだけが悲しい現実として記憶された。
世の中に付いて行けないのだろうか。

良くわがんねえす!!
TOPページへ

そしてWI−FIのコース変更を試みる(後篇)

2017年2月23日

それではと気を取り直してネットでの申し込みとする。
ある程度電話で申し込み内容を確認してあるから大丈夫。
S社の案内画面は字も年寄り向けで大きくイラストが多く、うんうんとうなずきながら申し込み内容を選択する。
しかし、イチャモンをつければコース変更の際、画面では「高速モバイルのみをご利用中の方コース変更」としか選べないが、
当方は遅くて遅くて困っていのだから高速などでは無く、低速コースも該当すると書いて欲しい。
でも他の選びようがないのだから、割り切って選択を進める。
おじさんにはクレードルの購入を聞いてきたが、別に通信に粉のスープなど不要で何のことかといぶかったが、
写真をみると専用の台であると判明した。
外国語の表記は無用な混乱をまねくことを念のため記しておく。

気が収まって平静を取り戻した途端、いよいよ申し込みに際し、IDとパスワードを聞いてきた。
あまりの久しぶりな作業で、よく天気予報で50年に一回の異常現象と解説するが、今回はパスワードなどとんと覚えがない。
その記載葉書を探しようにも、家の中のものが今ぐちゃぐちゃだから、探しようが無く新規登録をすることとした。
新規をお願いすると確認のため、画面から「普通電話で指定の電話番号に電話するように」と案内。しかも画面入力後2分以内との指定さえある。
2階の部屋でそばにぼんやりと横たわっている女房に突然「紙に電話番号を書いてくれ」と叫ぶのだが、女房どのは突然の依頼に、
紙などありませんと慌ただしくチラシの断片を取りだすのだった。
あまりの突然に、とりあえず携帯で指定番号にかけて見たが、これではだめそう。
パソコン作業中の2階から工事中の1階固定電話まで駆け込んで通話する。
いやはや大騒動である。
ここで気を抜いてはなりません。その後も画面では嫌と言うほど確認が続き、辞めてしまおうかと感じる直前で作業は終了した。

誰を責めるべき話しではないが、イライラは後々まで続くのだった。

気にいらないのだ!!!!
TOPページへ

そしてWI−FIのコース変更を試みる(前篇)

2017年2月22日

やはり、そこで困らなければ面倒な手続きなどしたくない。
とりあえず、インターネットでS社を検索し、それらしき回線高速化の目星がついた。(ちゃんと調べているなあ。。。えらい。。。。)
しかしながら信頼できない。こんな低価格ではろくな通信速度など得られないのではと信じていたが、なんとなく素晴らしいギガ放題でほんの数百円の価格をプラスで済むとのご案内。
おじさんは、「ここでだまされてなるものかと身構えた」
だからネットで申し込むなどの危険はせず、ネットでの案内電話の番号に電話をかける。
そこには電話で相談・申し込みとしっかり書いてある。
そして電話をかけたのであるが、混雑中とのメッセージのあと、気を鎮めようとクラシック音楽が流れている。おじさんは待って・待って・待ってやっとS社担当者とつながった。
たどたどしく変更の動機など語り、念のためこんな料金差で信じられないほど高速になることを確認し、それでは申し込むと、私は技術担当で申し込みは別の担当者だと言うではないか。
そしてその窓口が混雑で繋がらないと返答する。

おじさんはついにキレた。馬鹿にするんじゃない。死んでしまえと思った。
体に良くない。。今日はここまで。。。

おのれ!!!!!
TOPページへ

様変わりしたオーディオ環境(3)パソコンでFMを

2017年2月22日

我が家は改装中で、足の踏み場もないほどで家の中は混乱状態。
TVは見られないし、ラジオさえ聞けない。
せっかくFM放送を聞けるようにと、わざわざFM用のアンテナさえ電気屋さんに頼んで増強したのに、聞ける部屋も今度は変わるからどうしようと、
頭は「うに」の状態。
ふと、目の前のパソコンでNHKを検索して、ラジオの欄を見てみると、放送を聞くとのボタンがあるではないか。
とりあえずやってみるかと、こわごわボタンを押すとなんとなんとパソコンからFM放送が流れてくる。
おじさんはただただ感激したのでありました。
「生きていて良かった」
しかも放送されている音楽の曲名さえ、画面に現れる。
NHMのお偉方が、どこかで盛んに放送と通信の融合と叫んでいたが、今ここにその一端を「ああ、そうか」とちょっと判ったのでした。
時代は変わったのである。

午後1時からの「歌謡スクランブル」でおじさんが好きな演歌を流していると、 時々その音楽が途切れ、しばらくするとまた音が流れる。
NHKもこんなこともあるのかと、ちょっとなら許してあげるからねと寛容な精神を発揮する。
しかし、時間を追うごとにその途切れが頻繁に起きる。おかしい!
これは、別の問題があるのではと頭をよぎる。
そして、当方の通信はWI−FIでは有るが、低額で人呼んで電話回線並みと揶揄される超スロー回線のせいと勝手に結論づけたのである。
何をやるのもそんな簡単ではないのだ。

嘆かわしいがラジオがパソコンで聴けるのだ
TOPページへ

夢の世界にいざよう

2017年2月17日

そして横浜での観劇後、思うところが有って鎌倉の某宅に伺った。
それは14日の舞台で見かけた女優さんにそっくりの美人おかみは、 最近連絡が滞りがちで、ことによったらこちらの方にアルバイト出演をしているのではないかとの疑惑がぬぐい去れなかったからだった。
背格好と言い、立ち振舞いと言い、どっかでお見かけした方だと、そればかりが気になる。
舞台終了後の演芸場出口では、触れるほどの近さでお逢いできたので、じっくりその彼女を拝見したのであるが、どうも別人のような気がした。
白日の下で見ると、お化粧を塗った様子が生々しい。

それにしても暗い照明に置かれて見ると、どの人もとんでもない美人に映るから不思議。
我が家の家族では濃いお化粧をする人が居ないから、「ちょっと、待っててね。お化粧してからお話しましょう」との七変化を体感する幸せが無い。
化けを装うとの現実は、良いのか悪いのかが判らない。

薄塗りの鎌倉美人は、細工を施さなくてもそのままお出ましになられ、その日は地元商店街の会合に出たとご説明なされ、ご丁寧に最後には「お孫ちゃんにね。。。。」などと一対のお雛様までいただく対応に、いたく感激して帰途につきました。
折しも春一番のポカポカ陽気で、霞の中で夢を見たような快い一日でした。

キツネにつままれたか澤村○○さんですが、本当は????
TOPページへ

三吉演芸場に舞台公演を見に行く

2017年2月14日

20年以上は軽く超える会社同僚としての付き合いが今でも続く仲間うちと、今回は横浜・坂東橋にある三吉演芸場に真昼間から2月公演を見に行った。
出し物は劇団「春陽座」のお芝居と歌と踊りが乱舞するグランドショー。
3時間の熱演が2200円とは安いじゃありませんか。
出演者は澤村と名の付く劇団員で座長、子役などと聞くと、それなりの格式を感じるから不思議。
会場には50名を超えるおばさんばかりで男性は1割程度か。会場には300名収容可能と言っていたが、満員御礼にはほど遠い。
それでも舞台空間では今しがた八百屋や蕎麦屋、和菓子屋さんなどがひしめく昔ながらの商店街を越してきたとは思われない異空間。
いきな着流しを身に付けた男優さん方や、遠目にはあでやかな女優さんたちが さまざまな照明で浮きたてられながら乱舞する。
当方がすこぶる感激したのは、踊りの最中に観客に向けて見せる男優の色目。
遠くを憧れるように見つめるその視線は、昔どこかで経験したことがある。
そうだ、20年前ごろだろうか。 大阪の宗右衛門町のおかまショウに連れて行かれた際、前振りに出てきたお兄さんが、たしかこんな目を披露したことを思い出した。
その筋では稽古の入門編でもあろうか。日常では決して見ることが出来ない所作は、「あれだ、あれだ」と思い返した。
異次元の夢世界をかなでる俳優さんの目線を見ながら、昔を思い出すのだった。

歌丸さんで有名な坂東橋商店街

これです、澤村座長の色目です
TOPページへ

「フクシってなんだろう」地域福祉交流会を見に行く

2017年2月12日

2月11日茅ケ崎市役所で表記のようなイベントが開催された。
当方の目的は地元の福祉に関する自治会活動をどう表現すべきかの参考として、 福祉と言う定義を聞きたかったのだ。
それは私も70歳を過ぎ、どうもそのサービス該当者として位置づけられそうだからだ。
福祉の対象者は障害をお持ちの方、お体が不自由な方などが対象と思っていると、交流会での中学生の意見発表を聞いているとただの“おとしより”が不幸にも対象のように感じられた。
でもなあ、我が老人会でも養護施設に訪問して音楽を演奏したなどと聞くと、元気な老人とそうでない老人がいるのだが。。。
そして9月の老人の日近くには、自治会主催と社会福祉協議会、おまけに老人会主催の計3回もお祝いをしてくれる。
老人が元気になる活動が福祉と呼べるかが、当方の聞きたかったことだったが、 残念ながら良く判らなかった。

それにしても今回は養護施設やボランティア団体のどちらかと言うとその関係者の集まりで、福祉の専門家だから当然“福祉とはなんだ”などと聞き直すこともない。
しかも活動が市全体には良く知られていないなどと嘆く発言があったが、こんなことでは当たり前だろうと思う。
我々のような団体も身内ばかりで固まってはならないことに気をつけねばと反省ばかりで重い足取りの交流会見学であった。

服部茅ケ崎市長のご挨拶

居並ぶ地域福祉活動計画推進委員の方々
TOPページへ

突然「ぱーでんねん」を思い出す

2017年2月11日

狭い6畳間での団欒が増え、でも心はちょっとブルーの日々。
しかも今はTVもつかない。
そんな中、昔お茶の間で一家揃ってのTV視聴時代では、バライティ全盛時代のたけし、さんまの人気番組で「タケチャンマン」が大喝采。
横目にはドリフの全員集合も華々しく話題をさらっていたが、競うように週末の夜はデビルマンなど次々に○○○○マンが新登場した。
次の新しい○○○○マンは何と言う命名されるだろうと毎週楽しみにしていると、なんとなんと意表をついて「ぱーでんねん」が誕生。
○○○○マン期待を見事にひっくり返す。
大阪の柔らかい語感で私は「パーなんです」と茶化し、しかも「ぷわー」と手を広げつぶやくのだった。
なんたる変節、意表をついた発想だろうと皆笑い転げた。
笑いのためには何でも有りだと言っても、番組作り手のサービス精神に大喝采。

思えば良き時代だった。そして勢いがあったナ。
床に就きながら、「ぱーでんねん」とつぶやきながら、一人で笑い転げている。
楽しかったなあ!と、こんなしょぼくれた部屋で突然頭に浮かんだのだった。

昨日10日の雪で近所の畑は真っ白
TOPページへ

いこいの村あしがらに泊る

2017年2月4日

我が家は大幅な改装工事のため、2階建の1階は工事中で昼間居ることができず2階で寝起きしている。
工期は2カ月近くかかるので近くのウイークリーマンションなどでの一時避難を聞いてみたが一杯ですとのこと。
そんな事情から、夜の団らんは退避荷物一杯に囲まれた6畳一間で一家4名はちょっと窮屈な団欒時間を過ごしている。

そこでこの週末は大井松田に近い「いこいの村あしがら」に泊りがけで行くこととした。この茅ケ崎からはすいていれば1時間はかからず車でひとっ飛び。
丹沢や富士の眺めが素晴らしい丘陵地に、この施設は温泉付きで建っていました。
ちょっと公共施設を思わす簡素な佇まいで、1万円強で泊まれるのだから、それなりの食事かなと思っていると、なんとなんと食べきれない量の豪勢な夕食が用意されていた。(うれしい)
今自宅では台所での調理がかなわず、コンビニ弁当で過ごさざるを得ない不自由な日々なので、この食事には皆感激しきり。
そして、風呂に入ってバタン・キューの贅沢は、ここにきての不自由な日々を払しょくでき、大満足の時間を過ごすこととなった。

宿の傍の公園では満開のスイセンに菜の花が咲き誇り、咲き始めた河津桜が 早春の色どりを添える。
孫娘はブランコに夢中で花どころではない様子。
そして足柄平野の奥に雪をいただく富士山がやっぱり日本一です。
エガッタ!エガッタの週末となりました。

公園展望台は花盛り

咲き誇る河津桜
TOPページへ

大磯の城山公園

2017年2月3日

大磯の東海道に沿って、昭和の大首相・吉田茂さんの邸宅があり、その道の反対側に県立城山(じょうやま)公園がある。この公園には三井財閥の別邸が建っていたが、今は建物が壊されてその後は土台として残っているだけである。
大きな岡一帯を様々な建物が全国の寺社古材を使って建築され、ちょっと三渓園を思えば良い。今はその「後かた」さえ無く、残念さが心を射つ。
岡の頂上には展望台があり、わずかにその面影を偲ぶだけだが、眼下に箱根から伊豆半島が一望できる素晴らしい展望。「う〜ん、絶景ですね」と感激するのだが、当方はへそ曲がりだからそんなことが言いたいのではない。

三井の別邸は時の首相・吉田茂さんの目の前である。つまり現首相・安倍さんの自宅の前に三井財閥の接待場所が鎮座していたのだ。
「ちょっと、相談があるのだが」と言えば、ははっと駆けつける。
これこそ大型商談の必殺技ではないか。 今の時代にそんなことをしたらマスコミが談合と大騒ぎ。
国を作る時期の特権か。それにしても、こんな風にして国が動いていたのだろう。
キツネとタヌキの生臭い風が吹きすさんだ大磯の地は、今はつわものども夢の後として、歴史の流れに押し流されつつある。
寂しいではないか。。。。。

公園展望台から箱根方面を眺める
TOPページへ

一皮剥けたかな。。。。

2017年1月30日

6月の脳梗塞で倒れる前の4月にその前兆はあった。それは朝起きて歯磨きをしようと洗面所に行くと,利き手の右手が言うことをきかない。
だから左手でたどたどしく歯を磨く。
そして孫娘を保育園に送った際、孫娘の名前をノートに書こうとするのだが、思うように字が書けない。
そんなこんなで午後市立病院に行くと即座に脳梗塞の症状が出ていると診断された。
その時は次の日に字も書けて、歯磨きも普通に出来たので、とりあえず様子を見ましょうと音沙汰なしとなった。

そして本震は6月に起こったのである。入院は3カ月半でその後は病院に週2回リハビリに通うのが昨今の状況。
リハビリのメニューはひたすら右手と指を動かす単純作業。碁盤の目に空いた穴に木のピンを押し込むのだが、思った場所に腕が動いてくれず、「よっこらしょ」と運ぶのはとても疲れてしまう。
でも不思議ではないか、4カ月も同じことを切り返した結果、本日右手でたどたどしくも歯磨きが出来るようになった。6月からは7カ月近くも経ったのである。

リハビリの先生に、よく一皮むけると言う言葉があり、今回のようなリハビリでは薄皮を剥ぐように少しづつ良くなると言われるが、この薄皮と一皮の相関関係(つまり一皮は薄皮何枚分なのか)はどんな関係ですかと質問した。
先生は「う〜ん」と返答に困った顔をされた。変な患者だな。。。。。

春近し・菜の花が咲く
TOPページへ

老婆心ながら

2017年1月29日

我が家に女房の母が来ている。女房の妹宅とで行ったり来たりの世話で現在まで続いているのだ。おばあちゃんはおん歳95歳でかろうじて家をうろうろできる体で、寝たきりでは無いので、終日家の椅子に座って静かにしている。
でも健康なのだろうか、良く食べるし、朝早くから夜遅くまで椅子に座って寝ることが大嫌いのようだ。
寒がりの体質で、我々の2倍くらい着こんで暖房が入った部屋でも寒い、寒いと感想を述べる。
家には5歳の孫娘が保育園から帰ってくると、家の衣装入れから洋服をかたっぱしから取り出し、人形さんを並べて部屋は置き場が無いほどちらかし放題で、 これが孫娘の今の遊びなのだろう。お人形さんごっこなのです。

目の前で繰り広げられる孫娘を見ながら、おばあちゃんはパンツ一丁で駆け回る姿に心配なのであろうか、「寒いからズボンをはきなさい」と何べんも何べんも繰り返す。でも孫娘はまったく聞く気もない。
おばあちゃんはもう信念なのであろうか。いつまでもいつまでも同じ言葉をかけ続けるのだった。
そして孫娘は部屋を走り回る。その度に「ストーブがあるから気をつけなさい」 「椅子があるから危ないから止めなさい」「お人形さんが踏まれていてかわいそう」と心配を連発する。うるさいったらありゃしない。
そして最後には「散らかったものを片付けなさい」と、これも連発するのだが当然言うことを聞かない。
毎日の孫の行状に慣れきっている我々は、おばあちゃんの忠告はごもっともの点もあろうが、残念ながら有難迷惑なのである。

ふと老婆心と言う言葉が、心配する親切心の他に、聞く方からすると有難迷惑ですと言うメッセージが含まれているようにも感じた。
歳を取ると一旦思ってことはいつまでも思い続け、解決が得られないとそこから抜け出せないと言う頑なさが一層ひどくなる。
私もその一群であろうか。。。。。>

TOPページへ

飯泉観音まいり

2017年1月17日

この早春に近郊の寺社参りを友人から誘われ、同行することとなった。
場所は小田原の近郊にある飯泉観音(いいずみかんのん)とも言われる勝福寺(しょうふくじ)。
国府津から箱根に向かう一本道の巡礼街道のどんずまりで、どちらかと言うと鴨宮から近いのだろうか住宅地の片隅にある穏やかな佇まいのお寺ながら、坂東三十三箇所第5番札所として近所の村社とは大違いの由緒あるお寺なのであります。
明日の縁日を控え、今日は境内に数人しか見当たらないが、きっと明日は賑わうのであろう。(ちょっと残念です。。。。)
江戸時代のこじんまりした本堂はちょっと鎌倉の小さな寺社を思い出す。薄暗い本堂の中には鮮やかな彫刻が欄干を飾っている。そんな装飾を眺めながら有名寺院のような華やかさが感じられないが、地元で大切に受け継がれてきた信仰の力に素晴らしさを感じた。
場所柄、小田原の有名人である曽我兄弟と二宮尊徳との縁があると言われているが、そんなことより時代を経た鄙びたお寺はなにか我々をほっこりさせる。
こんなお寺もいいなと正直感じた瞬間でもあった。

飯泉観音本堂

本堂の中の華麗な装飾
TOPページへ

どんど焼きがお正月行事の締めかな

2017年1月15日

この14日の午後、小雪が舞い散る中、正月行事の締めくくりとして「どんど焼き」が近くの熊野神社で行われた。
正月の飾り物を集めてだけなのだが、驚くほどの量が会場にうず高く積み上げられている。そんな大きくない会場は大きな炎で燃えあがったら近くの木々に燃え移らないかと心配が先に立つ。
幸いこの地域特有の西風も吹かず、知り合いの方々が世話をやいているそれなりの「どんと焼き」となった。
ひとしきり勢いよく火がもえあがったあと、その残り火がお目当ての木に刺したおだんごを焼く、恒例のお楽しみ。
我が家の孫娘も真っ黒に焦げた木の先に梅の花が咲いたようなおだんごを持ち帰ってきた。
地元のこのような小さな楽しみは子ども心に大きな思い出となって育って欲しいと願う。
思えば当方は東京育ちで、こんな心温まる経験が無い。夏にはこの地域でも盆踊りが盛大に行われるのだが、これも年々開催される場所が少なくなって近隣ではここだけになってしまったとの悲しい現実。
それにしても「どんど焼き」会場での、お元気なお年寄りのがんばりが印象的。
さあ、今年もがんばるぞ!

燃え上がるどんど焼き

孫娘が持ち帰った黒焦げのお餅
TOPページへ

様変わりしたオーディオ環境(2):USBをAVアンプで

2017年1月12日

昔のオーディオと今のオーディオでは音質が格段に良くなったらしい。
それにしても昔のオーディオ機器にはピン端子は有ってもUSB端子などかけらもなかった。なんと情けないことになったのだとおじさんは嘆くことしきりである。
良く判らないおじさんはそれなりの値段を出せば、すべては自動的に対応出来るはずと、思い切ってソニーのCMT−SX7を購入しようと心に決めた。
とりあえず藤沢のビッグカメラの売り場でUSBに録音した音楽データを試しに再生してもらったのである。
売り場のお兄ちゃんはいかにもオーディオが得意そうで、近隣ではこれだけ高そうなハイファイ機器を揃えている所は無く、それなりのマニア相手にうんちくを語りあっていた。
だから私のような素人にも優しくご指導いただけると踏んだが、並んでいる機器によってもUSBの接続は様々であり、音楽データが再生出来ないものがあると不安をかもしだすように話すではないか。
早速のお試しでもある機種では全面USB端子の音楽を再生できたが、別機種では裏面にあるUSB端子では再生ができず、USBの初期化がメッセージとしてでてきた。
パソコン環境とはこのように信頼できないものであるが、店員も良く判っていないのか、当方の勉強不足も有るらしい。
店員の話に「こりゃだめだ!」と悟った私はインターネットでソニーに製品の説明を調べ、神に祈りながらこの製品を他店で購入した。
その結果、お願いが通じたのであろうか、何の不具合も感じることなく、パソコンとCMT-SX7で音楽のやり取りができたのだった。
エガッタ。。。

それなりに高かったSX−7
TOPページへ

やっと行けた上野の美術館

2017年1月9日

1月6日の通院で午前中にリハビリが終了したあと、そのまま辻堂から上野に直行することとした。
未だに体力に不安を抱える中、この1月の中旬で終了する美術展に行ける最後の機会として国立西洋美術館のクラーナハ展と東京国立博物館の滋賀擽野寺(らくの寺)の仏像展を見に行った。いずれもどうしても見たかった展覧会で今まで体力的に無理とあきらめていたが、とりあえず片方だけでも見ようと決心した。
クラーナハ展はどう言うわけか行列に並ぶことも無く、会場内も拍子抜けするようなガラガラの状況。
日本でクラーナハ展が開かれること自体意外な感がしたが、透けるような薄いベールをまとった裸婦像で有名なクラーナハであるが、細身の体は西洋絵画の常識であるルーベンスを代表とする豊満な体からは、いたいたしいほどのひ弱さが感じられ、異端さを印象づけられた。
その上、顔の表情がちょっと若い女性の割には、どれも不気味さがにじむものが多く、残念ながら日本人の好みには合わないだろうなと思う。
当方は見たかった作品のウィーン美術史美術館にある「ホロフェルネス首を持つユディト」で有名なこの1点だけでも充分満足。油絵独特のギラギラ感は照らしだす光線で、絵具が盛り上がっているのが良く判り、首を飾る宝石がまるで本物が埋め込まれたようにも臨場感が感じられた。
目の前で身近に観賞できた幸せは来て良かったとしみじみ思った。

次に東京国立博物館に向かうのだが、普段ではそう遠くない距離なのに現状では、とても遠く感じられ、やっと思いで入口にたどり着く。
会場は博物館内の小さな空間に、平安時代の仏像が20体と中心に大きな十一面観音像が鎮座するこじんまりとした展示。
滋賀県の仏像は代表的なものをほとんど見たと思っていたが、甲賀地方にこれほど立派な仏像があるとは思ってもみなかった。この場所が隠れ里と呼ばれる辺鄙な位置にあるからだろうか。
でも、どの像もどこか野暮ったさがあり、洗練された奈良の仏像とは一味違った味がある。平安時代のおだやかな仏像群は恋い焦がれた恋人にあったようななつかしい想いを胸に刻んで上野を後にした。

クラーナハ展

平安の秘仏展
TOPページへ

72歳の誕生日を迎えて

2017年1月7日

今年72歳の誕生日を無事迎えることが出来たことにひときわ深く感慨を感じる。
それは昨年人生で初めて入院生活を体験し、なんでもない健康の有難さを骨身の浸みて体感したからである。
脳梗塞の後遺症で、現在でも右足のバランスが今一歩で、利き手の右手はハシの操作がまだまだたどたどしく、字を書くことができないでいる。
それでも、近所の方々からは「普通の方」とお見受けできると御世辞を言ってくれるのだが、自分の体調は自分が一番良く知っている。
現在はリハビリの継続で薄皮を剥ぐように少しづつ良くなって行くと言うが昔の自分にはまだまだで、我ながらもどかしい。

でもここまで回復出来た幸運を前を向いて感謝したい。昔から「いつ死んでも悔いは無い」と充実した人生を過ごしてきたと自負していたが、これからもこの気持ちを持ち続け、更なる地域貢献が出来るよう活動できればと思っている。
改めて、今年の抱負はと言われれば何も起きないことを祈念としたい。

この新年のおだやかな茅ケ崎海岸
TOPページへ

様変わりしたオーディオ環境(1):CDからUSBへ

2017年1月5日

今から数十年前のことになろうか。AV機器はそれなりに元気で、電器店でも大きなコーナーを占めていた。それが年を経るにつれ、売り場は減少され、今や携帯やパソコンコーナーに大きく変わりつつあるのは何ともさみしい。
たまにそのようなオーディオコーナーを覗いて見ると、昔はマニアと思われるご同輩が困ったように歩きまわっている。
それはテープの時代も終わり、その後MDさえも生産終了となる中、録音なるものがどうしてよいのか判らなくなったせいであろう。
当方長年NHK−FMのラジオ放送を楽しみながら、そこから気にいっていた曲を録音しながら楽しんでいた。媒体はMDだったのである。
その上、最近のオーディオ機器ではアナログ信号のままでの録音・再生機能が備わってはいないように感じられる。そうなのだ、録音媒体がハードディスクに代わってしまったのだった。と言うことは何が何でもパソコンでの音声加工技術が判らないと音の録音ができなくなったしまったということか。
これこそがご同輩がオーディオ売り場で困ったように歩きまわる原因でもあろうか。

手始めに、パソコンに内蔵されているCDドライブで音楽CDからパソコンへのデジタルコピーを試みた。結果として出来ることは出来るのだが、パソコンの初心者にはちょっと難関。それはパソコンの設定を読み込み処理の時プロパティーを使って変えなければならないのだ。
パソコン内蔵のソフト「メディアプレーヤー」を使って音楽の取り込みを設定する。それに際し、上記のプロパティー設定が必要となる。
デジタル変換はMP3で変換。 CD約80枚がこの作業で4GBのデータとして保管されることとなった。
ここまでくれば、パソコンにヘッドホーンをつなげば、音楽が自由に選択できる。しかもハードディスクで保管したデータはUSBに転送できる。
でもパソコンで音楽を聴いても音質はどうもなあ!

我が家のCDはこのUSBに入ってしまった
TOPページへ

恒例の箱根マラソン

2017年1月3日

ひとびとが吸い寄せられるように浜須賀海岸のほうに歩いて行く。 空にはぶんぶんとヘリコプターの音が響き渡る。
そうなのだ、いま箱根マラソンの選手がこの茅ケ崎から東京へと走り続けているのである。
何年振りかでその姿を見ようと、自転車でその現場に駆け付けた。

それにしても選手の姿は目の前をあっという間に通りすぎる。
テレビで見るより、選手の姿は小さく、一人ひとりの表情などは良く判らない。
でも、時間をおいて選手の姿が見えるたびに旗と振った歓声が立ち上る。
一位、青山学園そしてずいぶん時間が経って二位の早稲田大学に姿が現れ、その後はばかに間が離れて三位の選手が走り去る。
「ああ、これでは青山の独走だな」などと一人評論家として体で感じてしまう。
テレビとの違いは現場の臨場感なのだろうか。
今年も正月恒例の行事を見ながら新しい年を迎えたことを実感するのだった。

カメラワークが悪く選手が良く写らない
TOPページへ

村の鎮守様

2017年1月1日

今年の正月は本当に穏やかなお天気に恵まれた。
冬特有の西風も気になるほどは吹かず、ポカポカ陽気の三が日となった。
実は最近、弱った足腰を少しは回復しようと近所を歩きまわっているのだが、 今まで気が付かなかった地元の鎮守様にひとしお懐かしさが感じられるのだ。
その場所は砂丘がちょっと高くなったのだろうが、絶好な富士山の展望場所ともなっていて、まさに昔からの村の守り神になっていたのだろう。
この元旦には久しぶりに家族でお参りに行った。
日頃、閑静なこの神社も今日ばかりは、参拝するのにも人の列が出来、ざわざわと人いきれが感じられる。知り合いの町内会の方々が忙しく立ち振舞うなか、 我が家も襟を正し参拝をした。(甘酒のふるまいは既に無くなっていて残念)
江戸時代からある村の鎮守様は、いまでもこの地域の重要なコミュニティーとして存在し続けていることに改めて気づかされる。
そんな我が家のお正月はとどこおりなく過ごすことができたのだった。

我が地域の鎮守様
TOPページへ

鎌倉宮の万灯みたままつり

2016年5月21日

5月の21日に日頃静かな鎌倉宮で境内一杯を小さな灯で埋め尽くす「万灯みたままつり」が開催された。
この時期は夕闇が遅く訪れ、午後6時からの神事はまだ日が落ちるのは時間がある。神官一同がずらっと揃い、神を迎える様々な所作が行われたが、白装束に囲まれた烏帽子姿は日本古来のおごそかな雰囲気で絵巻を見るようだった。
紙コップにろうそくを埋め込んだだけの素朴な明かりは、200〜300個ぐらいごとに渦巻き状に並べられ、それが会場に何箇所も蛇がとぐろを巻くように会場を覆う。
ろうそくに灯を入れる人たちはあじさいの手入れで見知った人たちばかりで、 当方も数年前に他界した母と女房の妹の名前をそれぞれ書いてその渦巻きの中に並べる。
暖かいろうそくの灯を見ていると、だんだん夜のとばりに溶け込んでくる鎌倉宮の森からさまざまな思い出が飛び出して来る。
鎌倉はいいな。。。。。 こんな時間も大事なんだと改めて心に思った。

鎌倉宮にて
TOPページへ

心地よい刺激「かまくら学府」に参加

2016年5月21日

知の刺激などこの歳になって今更の感がある。
しかしながら成り行きで引きづり込まれた感があるが、鎌倉でミニ大学形式をとる鎌倉の知識人が集まっての勉強会「かまくら学府」に参加した。
今回のテーマは万葉集で、それこそ当方の興味の一番外にある門外漢の領域。
ではどうして参加したのかと問われれば今回の講師、大沢さんとちょっとお知り合いだったからかな。
講義は妙本寺の社務所で行われたが、下界と違って通り抜ける風は冷たささえ感じる贅沢な環境。
有名な万葉集が都で編纂され、万葉がな(漢字)で作りあげられたが、その後鎌倉の妙本寺でその寺の僧・仙覚律師により漢字からひらがなに書き換えられ、それが我々が手にする万葉集の読み方の原型となったと話す。
万葉集は629年ごろから759年ごろの天地天皇、柿本一麻呂、大友旅人、 大友家持などそうそうたる歌人が歌を詠み、その時は全部漢字読みとなる万葉がなで書かれたものを、1246年ごろ鎌倉幕府第4代将軍「藤原頼経」の命により、仙覚律師が校勘を行い、様々な読み方があった文をひらがなに書き直したものと説明された。
また、万葉集の中の「防人のうた」に関し、これは東国の一般人を北九州地域の防衛要員として集められた人が防人で、それらの人が家を離れ旅する辛苦を歌にしたものと解説される。
そのころ都の場所から離れた東国では、まだ文字文化が出来上がっておらず、声で語られた内容を都の人が文に書き改めたそうである。
「防人のうた」はさだまさしの歌しか印象が無かったが、そんな解説を聞くととても心に残った。
講義のあと、妙本寺本堂横にある、仙覚律師が住んでいた僧坊跡地を示す碑を見学後、今回の講義を閉めることとなった。 日頃このような専門性が高い講義など聴く機会なども無く、このような静かな寺院内部を訪れることも少ないのだが、この鎌倉のこの地で歴史に残る文化活動が行われたことを知り、久しぶりに高揚感がある時間を過ごすことができた。

妙本寺本坊

万葉集の碑(集の字が珍しい)
TOPページへ

春来たる

2016年3月30日

毎年我が家の春は「ハナニラ」の白い花が一面を覆うときから始まる。
この花は自然に株が増え、見る見る間に庭一面に増えてしまった。
しかし花は1日しか持たず、最盛期は1週間程度だろうか。
それにしても真っ白な花が夜目にも鮮やかに咲きそろう姿は色鮮やかなチューリップ畑とは違う日本の美である。
同じ庭には葉に先駆けてピンクの花だけが造花のように咲く「玄海ツツジ」や 大輪の黄色が印象的な「スイセン」が色を添え、近年勢いを増した「ムスカリ」が白い花の中で紫いろを目立たせる。
どちらかと言うと整然とした庭とは思えず、好き勝手に咲いているこの庭は長い期間を経て、それなりの景色となってしまった。
もうこの家では40年も手入れをしたのであるが、「ハナニラ」などの宿根草は地味ながら庭を全面占拠。
そしてこれが我が家の庭なのである。

庭一面のハナニラ
TOPページへ

突然のお別れとなる

2016年1月22日

新年の恒例行事が続く中、ごくごく近所の自治会の副会長が自治会の手伝いで近くの小学校で行われた「餅つき大会」に参加後、その搗きたてのモチをのどに詰まらせ、倒れた際に後頭部を打ったことが追い打ちとなり、あっと言う間にお亡くなりになった。
ご夫婦御二人で仲良く自治会活動に携わり、また近所で犬を連れて散歩する際よくお話をする近所のお仲間であった。
また、この3月の役員改選に伴い、これから自治会活動を少し減らして自分の時間を増やしたいと語る自治会の役員仲間でもあった。
葬儀は自治会が主体となり、近所の自治会役員が手伝い、盛大に行われたのはせめてもの慰めではあるが、憔悴した奥様の姿が痛々しい。
奥様はとても明るい性格でご主人ともども自治会活動を引っ張っていたので、 改めてご自宅に伺ったときでも「また、何が何だかよく分からない」と実感を語る。これからがさみしさを実感するのだろう。
それにしても近所のお仲間がみんなで気をかけてくれる環境は羨ましい。
悲しみはしばらく癒されないだろうが、こんな地元の力をうれしく思えたのがせめてもの慰めでもあろう。

元気だった自治会副会長さん
TOPページへ

下部温泉へ日帰り旅

2016年1月16日

ふと、ママの「一人で出かける」との発言を受けて、それでは私も「付いて行きます」とまるで主体性の無い話。
昨年の年末にはママの実母が我が家で静養をさせたいと都内から呼び寄せていた。95歳にもなり、多少ぼけも始まっている実母は、腰も悪く外には出られない。よってべったりの寄り添いは心身共に疲れる毎日となったのはいたしかたない。この1月の中頃に病院に行くからと一旦自宅に戻ることとなった。
そして孫娘の世話で明け暮れる毎日が、親子でディズニーランドへお泊りに行くと、この14日から16日まで出掛け、我が家は久しぶりに二人住まいの静かなひと時を送ることとなった。

ポカっと空白状態の我が家は待ってましたとばかり、ママから「ちょっと旅をでますから時刻を調べてください」と頼まれる。
それは2年前となろうか。東海道線から身延線で甲府に出た後、中央本線から相模線経由で自宅に戻りたいとのちょっとマニアックな要望。
日頃、便利な東海道線に乗って出かけている関係上、一歩ローカル線に乗ると 接続がとても大変で良く調べて行かないととんでもない無駄な時間を過ごす経験が今回の時刻表を見ておく訳でもあります。
行く場所は身延線の下部温泉に浸かって帰ると言う日帰り旅。
まずは、熱海から静岡方面に行く電車を探し、その後身延線で下部へ。
めったに走っていない身延線は富士から下部まで普通で2時間近く、特急では1時間ちょっとで着くのであるが、10時14分富士発の「ふじかわ3号」で 下部温泉は11時20分着。それしか行く電車が無いから東海道線・辻堂駅8時20分、熱海乗り換えで富士に着いたのだった。

下部温泉は鄙びた温泉をそのまま絵に描いたような山あいの渓流にへばりついた昔ながら温泉宿が30軒近く並んである。
とりあえず昼食を近くの宿でとり、川沿いを歩いてみたのであるが、真冬の金曜日はといえ、宿は寝静まったように人がまるでいない。
昔からの宿屋が多く、川沿いに継ぎ足し継ぎ足しで蛇のように連なる宿は、趣き深いとも見れるが、今は往時を思い出す遺構とも感じ、さみしささえ感じるのであった。
実はママはこの温泉に一度友達と来ていて、もう一度その時の温泉に入りたいと語る。それは簡素な町営施設で、山の温泉と言う素朴さが良いと語る。
「それではとそこで」とゆっくり時間を過ごす。これが今回の旅の目的でもある。午後2時を過ぎると山あいでは日が陰ってしまうのにびっくり。
それでも一人だけしかいない湯船に浸かるのはぜいたくであろうか。
傷を直すことで有名な下部の湯はぬるめの柔らかなほんわりした温泉でした。

帰りは15時19分下部温泉駅を出る特急ふじかわ10号で富士が16時25分、富士から東海道線熱海乗り換えで辻堂には18時30分着。
身延線の特急は全線徐行運転のようなのろのろ運転で、どこが特急かといぶかったが、富士から熱海に向かう東海道線は普通電車でも身延線特急を遥かに超える快速ぶり、改めて下部の遠さを思い知った一日でした。

下部温泉街
TOPページへ

新春もちつき大会を見に行く

2016年1月10日

お正月と言うものは良いものだ。地域のつながりを象徴する伝統的な行事が開かれるのがこの時期。
我々の町内会でも新年会はいくつも開催され、飲めや歌えやの大騒ぎが続いたが、10日にとなり町内会の「新春もちつき大会」を見に行った。
我が町内会でもこの16日には同じようなもちつき大会が開かれるのではあるが、我が家の孫娘が保育園の友達と遊びたいと出かけて行った。
「牛に引かれて善光寺まいり」ではないが、おじいちゃんは孫の姿を見るのが半分、そして知った方々が多く居る町内会の皆様の活躍ぶりが気になる。

会場はおなじみ町内会テントが設営された東小和田公園と言うスペース。
そこには近隣の子供連れのおかあさんやおとうさんがびっくりするほど集まっていた。その中心には町内会のおじさん・おばさんが忙しく立ち振舞っている。
大きな臼を囲んで子供たちがきねをたどたどしく振り下ろす。そこをお母さんがたの撮影隊が取り囲み、サポート役のおじさんたちが立ちまわる。
会場にはコマや凧揚げの遊び道具が揃えてあって、それを使って子どもたちが駆け回っている。

地域のみんなが子供たちを見守る日常を垣間見たこんな行事を見ると、町内会組織の元気さを改めて感じる。
そしてみんなとても楽しそう。
当方は言えば、市民活動のあり方など議論百出の中で真剣な議論をしているが、 想えば地域住民が仲良く、隣近所の連携でその町を元気にするのが目的なのだから、こんな柔らかい仲間たちの姿に感激するのみであった。

おまけに「よく来た」と突きたてのお餅さえいただく始末。自治会長さんありがとう。。。。。。

子どもの餅つきはほほえましい

2015年を振り返る

2015年12月31日

1月に70歳を迎え、孝行爺さんで過ごせる時期に入ったはずであるが、 終わってみればあまりにも人の我がままに振り回された1年でもあった。
相変わらずの市民活動ではあるが、想いの強さには霹靂する。 と言っても当方も同様な一員なのだろうが、「人の振り見てわが身を正せ」で 今年ほど身にしみたことは無い。 それも自分自身の成長の証と取るべきであろうか?

大きな成果としては、地元町内会組織で進めてきた辻堂駅前再開発に伴う、 「辻堂西口YU−ZUルーム」と言うコミュニティー施設を管理・運営する 一般社団法人を立ち上げ、その理事に就任したことである。
鎌倉では長年運営してきた「鎌倉NPOセンター」では制度疲労が蓄積して、 どうにもならない状況に追い込まれただけに、新しい人たちでの制度設計は楽しみが湧いてくる。

一昨年突然、娘が孫娘を抱えて我が家に来てから、静かな我が家はいっぺんににぎやかになった。すぐ傍にある保育園への送り迎えが日常となった当方は、 娘のおじいちゃんとのかわいい園児から御指名をいただき、すっかりおじいちゃんを実感しているこの頃である。
もともと子供好きである当方は、娘だけでなく子供たちに歓迎されるのは嬉しい日々を続けられ、これも充実の毎日となっている。

もうこのくらいの年になると、元気でいるのが不思議な時代に入った。 さすが、夏の鎌倉での草刈りはご遠慮いただくようなったが、自宅近くの公園での花の手入れはなんとか無事に終わらすことができた。 そんな毎日が元気の元なのだろう。 これで良いのだ。これが本年の実感でもある。

地区運動会にて 町内会の参加もすっかりなじみとなった

佐渡が見える温泉で大騒ぎ

2015年11月25〜26日

今年の老人会(湘南小和田会)で新潟への1泊旅行があり初参加となった。
総勢は32名で19名が女性と女性優位の体制だが、若いピチピチギャルが来るわけでもなく、文字通りおじいさんとおばあさんの親善旅行と相成った。
天気予報によれば、雨の確立は100%とバス旅行とは言え、気持ちもイマイチ。茅ケ崎から外環道をひたすら新潟に向かう。
おばあさんの団体はトイレが頻繁で、しかも時間がかかる。
それでも7時出発で、「ヘギそば」の魚沼には11時と順調に着いた。
ヘギそばは当方ひさしぶりで会社で出張の際いただいて以来だから20年ぶりの再会。そして美味しかったですよ。
近くの禅宗寺院に立ち寄って、寺泊の宿には15時に到着。雨の降りしきる中、夕食時まで日本海の見える大浴場で「あ〜〜〜〜極楽」とビール三昧の時間を過ごす。
日本の正しい旅館の過ごし方は、このように風呂・ビール・畳に寝転ぶの3点セットが当然なのです。
そして、夕食は松葉蟹1匹の豪華な和食御膳なのですが、このようなツアーでは、細い足しかないカニちゃんは苦労の割には成果の少ない残念な感想が多く寄せられました。
それなりに宴会は盛り上がりカラオケが響き渡る会場では皆楽しそう。。。。
これでいいのです。これが老人会の実力というものでしょうか。

朝起きて窓の外には昨日見えなかった佐渡島がすぐ目の前に見える。
7時過ぎのまだ薄暗い日本海にはなんと月が沈もうとしているのだが、黄金色の満月では無く暗赤色で、「おいおい、これは月なのか」と夕陽を見るようななんとも不思議な光景にみんな唖然となる。(天変地異が起こらねば良いが。。。。)
この日は午後から雨模様となったのだが、この寺泊から見える佐渡は目の前にあるように大地の色がはっきり見える。
こんな良く見えるのは珍しいとホテルの人は語るのだった。 それは冬本番を告げるしばしの絶景で次の日からは寒風吹きすさぶ北の日本海になったのでした。
ホテルを出発して白鳥の飛来地「佐潟」ではお食事出発前のぎりぎりでご尊顔を拝し、「ああ白鳥だ、白鳥だ」と興奮が冷め止まぬ。夜になれば5000羽近くの大集合地になるそうな。そして幸せ感が湧いたのですから白鳥の威力はすごいと言うことですね。
朝からお酒が廻される車内で次に向かったのが「宝山」という酒蔵。弥彦山近くの小さな酒倉で、更に利き酒の接待まであるのです。美人女将の説得力ある宣伝に競い合って購入合戦となったのが、これも良かったのでしょう。
弥彦神社は雨の降り出しで「ちょっとだけよ」とさっさと済まし、有名な寺泊の魚市場で昼食とお買いもの。
わざわざ、この寺泊に都心から買い物ツアーとして訪れる人もいると聞いたが、北海道産のサケだったり、ロシア産のカニがあったりで日本海産の魚が目立たなかったのが残念。当方は原産地表示ばかり見ていました。
それなりに買いこみ、バスは一路茅ケ崎に。13:30に寺泊を立ち、茅ケ崎到着は18:30と帰路はおじいさんがたの熟睡時間となったのでした。 親戚・近所に大量のお土産を買いこみ、それが楽しみの老人会ツアー。
今評判の爆買いとまでは行かなかったのですが、老人パワーのすごさをひしひしと感じたバスツアーとなりました。

白鳥のお姿に感激

10年前の秋の日には

2015年11月4日

写真の整理をしていたら10年前のバスツアーに出かけた場面が出てきた。
そうだ、この時期は会社生活を卒業し、その開放感を最大限に楽しんでいた時期でもあった。だから11月の初旬には富士五湖と奥多摩の周遊バスツアー、そして下旬には遠州三山を回るバスツアーとバカみたいな旅人生真っ盛り。
この時期は、どこも紅葉の見ごろで天気さえ良ければ「うそうそ、ほんと」の感激が続く。楽しんでいたんだな〜と懐かしさを感じるのだ。
そして、10年を経った今、そんな急いでどこへ行くとのだらだらの毎日と相成った。老人会はそれなりにいそがしいし、鎌倉通いも定期券を買っても十分活用できる日々が続く。
その時々で熱中している内容が変わってきているのだ。 ふと、ふらっと旅に出たいと思える気持ち(の余裕)が湧いてくればと焦りさえ感じる私で有りました。

河口湖からの富士

金木犀が匂う季節です

2015年9月26日

近くの公園の手入れをしていて、昨年はほとんど全滅だった金木犀がみるみるうちにつぼみを付け、ふくよかな香りが漂うようになってきた。
この公園では草花手入れ係の私と、樹木専門の佐藤さんとで分担して作業をしているが、桜の季節とこの金木犀の時期は佐藤さんの丹精がうれしく思える。
この時期は草花にとっては端境期で、いつも買いに行っている大船の花屋も何の商品も並んでいない。
菊にはちょっと早く、パンジーの売り出しはあと1カ月経ってからだろうか。
となれば、しばし土の休息時間となるのだろう。 この金木犀が近所の人を和ませ、その花が道に落ちて、金色のじゅうたんになる時を楽しませようと心に決めた。

香る金木犀

古いアルバムめくり。。。。。。

2015年7月18日

昔からカメラが好きだった。おかげで押し入れ一杯の撮り貯めた写真がアルバムに残っていると書きたいところだが、それなりの整理をし続け押し入れ1段程度まで整理をしてある。
これでも当方の世代が終わったら、おそらく大型ごみとして捨てるしかないだろう。幸い同居している娘の子ども時代の写真が大多数だから、ポイポイとはならないことを期待している。
最後の抵抗として印画紙での写真を全部スキャナーでデジタル化し、データは パソコンに保存しながら、その中から選ばれた写真だけアルバムに残すこととした。
それにしても手間がかかる。終日パソコンの前で作業をしても1日50枚程度が最善。理由はその1枚1枚が思い出深く、デジタル画像が残るとはいえ捨てるのに抵抗が有るからである。だからこんな作業をしているとぐったり疲れる。
最後まで残るのは2割程度となり、10冊のアルバムは2〜3冊まで纏めることができた。
でもね。おそらく、、孫の世代に残すためには、更に10分の1程度まで整理すべきなんだろうな。
思い出を整理すると言うことは大変な気力がなければできないと実感するこの頃でした。

83年2月の南房総白浜にて(カラーが抜けてきてぼんやりしてきている)

成田山にて日本の良さを想う

2015年5月30日

今回のギリシャ旅行は、集合が朝7時半に成田空港となっていたため、大船からの始発特急でも成田空港には間に合わないことが判り、急遽成田の街中に前泊することとした。それならば、せっかくだから有名な成田山へ行こうと決め、さっさとお昼ごろには成田駅に降り立った。
5月の末とは言え、日差しが強烈で30度近くの炎天下となり、観光も体力勝負。ちょっと浅草の門前を想定していた感覚からは、昔ながらの門前町を今に伝える古風さにはちょっと驚いた。地元鎌倉の街並みでもそれなりに風情があると自負しているが、江戸の時代の門前町を感じさせるお土産さん、うなぎ屋さん、そして宿屋さんなどが密度高く並んでいた。
これなら海外からの空港での乗り継ぎ客に対しても、ちょっとした時間を利用して立ち寄る場所としても、「これぞ日本です」と感じる絶好のロケーションでもある。
そして成田山新勝寺は節分の豆まきが有名だから、体育館の少し立派な建物だろうとタカを括っていたのであった。確かに巨大本堂はコンクリート作りの 実用本位にしたお堂でした。しかし、その境内には江戸時代の三重塔や、釈迦堂(旧本堂)、光明堂などの時代がかったお堂が残っていたのだった。 特に本堂横の三重塔は最近お色直しをしたのであろうか、軒下の大波模様が絢爛さを一層引き立たせ、日光の東照宮を彷彿とさせる。
京都などでのこのような塔も昔はこんな風に絢爛豪華だったのではないかと考えさせられた。(じいちゃんは感激。。。。)
歌舞伎の衣装を彷彿させる成田山の絢爛たる建物を見ながら、私は花道を悠然とギリシャへ旅立ったのである。


成田山門前町大黒屋さん

成田山三重塔

首相官邸に行ってきました

2015年3月30日

東京では桜満開とニュースで流れるこの年度末に、「かまくら緑の会」の桜見学バスツアーに参加。事故で電車が遅れ、私のせいで15分も遅れて鎌倉を8時20分に出発し、バスは一路東京へ。そして10時前に千鳥ヶ淵と目と鼻の先に有る靖国神社に到着。
今年はここ数日で開花から満開に達する急テンポだったのであれよあれよと言う間に花見の時期となってしまった。でもそんな絶好の期間にここを訪れたのだから幸運と言わなければならないだろう。
残念ながら千鳥ヶ淵はバスの中からちょっと見ただけだったがそれでも充分。
そして、国会議事堂へ。しかも最初はなんと首相官邸の見学からスタート。
えっつ!!首相官邸って我々でも入れるのと、それだけでも感激ものです。
金銀がきらめくベルサイユ宮殿とは違う豪華な中にも簡素な日本独自の和を感じる室内と、竹を植えた中庭、そして自然石を使った和風庭園はやっぱり日本の美を象徴しているのでしょう。
テレビで見る組閣の際並ぶ閣僚たちの階段では全員で写真撮影を行い、官房長官が定例会見を行う記者会見室では自分が官房長官になったつもりでマイクの前に立ち「うそうそ、ほんと」の世界を味わいました。
国会議事堂ではタイミング良く衆議院本会議を見学。この日は補正予算の採決があり、安部首相や閣僚全員がテレビで見る通り、ちょっと遠目では有りますが、しっかり見ることができました。議題はこのほか委員会審議の承認作業のため15分程度で見る方も飽きずに済んだのは幸いといえましょうか。
阿部首相、麻生さん、石場さん、みんなちょっとリラックスしていたのが印象に残りました。
国会議事堂は古い建物で見学も体力勝負。だからカレーライスの昼食はとても助かりました。見慣れた議員さんたちが支持者たちのおじさん・おばさん方に愛想を振りまく姿が、これも日本なのでしょうね。。。
午後は今回ご案内いただいた山本ともひろ議員が文部科学大臣政務官と要職なのでこの政務官執務室で鎌倉の世界遺産についての話を聞きました。
帰路は池上本門寺に立ち寄り、ここも満開の桜見物となったのですが、鎌倉には5時過ぎに帰還。
ちょっと忙しかったけど、うれし、うれしの1日となりました。

首相官邸で組閣(?)メンバー記念撮影

ママもついに70歳となる

2014年10月28日

誕生日はおめでたいものなのだろうか。
年を経ると誕生日は、ついにこんな年になってしまったとさえ感じるものなのである。
さて、女房が70歳を迎え、娘たちと誕生ケーキを近くのケーキ屋さんで購入した。当方ももうすぐこの時期となるのだが、女房は「初めて誕生ケーキをもらった」と素直に喜んでくれた。
孫娘に囲まれ、それなりに楽しい日々を過ごす女房には感謝、感謝の日々なのである。
おばあちゃんにはどう見ても見えない若さをいつまでも保ってほしいと思う。

誕生日ケーキです

近くなった軽井沢

2014年9月12〜13日

相模川沿いに茅ヶ崎から八王子を通り、鶴ヶ島まで圏央道がもうすぐ開通する。
残念ながら茅ヶ崎近くの一部道路が完成しておらず、自宅からすぐ高速道路に乗れたわけではなかったが、それにしても海老名インターから軽井沢まで、2時間を切る時間で到達することが出来るようになった。これなら東海道線を乗り継いで長野新幹線で行くのと変わらない。
今回の旅は、娘と孫を連れての1泊旅行で、何かを見に行くと言うより、軽井沢からちょっと浅間山麓に向かった浅間牧場で「うさぎちゃん」に触りたいと言う孫娘の欲求を満たす旅となってしまった。
大人だったら広大な牧場地をハイキングするのだろうが、孫娘はその牧場入口にあるウサギとヤギのちっちゃな小屋の前をいつまでも離れず、餌を与え続けるのだった。(おかげで入場料として大きな散財をしたのだが)
私はと言えば、入口から目の前にそびえる小高い丘に登ってみた。秋の草花が咲き誇り、展望台からは雄大な浅間山を中心に上信越の山々が360度広がる。
これだけでもこの場所に来た喜びを感じる。 宿は浅間山麓の別荘地にある旧会社保養所で、それにしては安っぽい山小屋とはレベルが違う金がかかった高級感が漂う。そしてお部屋は和室とベットが2つ並んでいる洋室を1フロアに収めるスタイルで、孫娘は大きな部屋を嬉しそうに駆け回る。こんな非日常が旅の醍醐味なのだろう。
私もすっかり世間並みのおじいちゃんを楽しむ環境となった。「それも有かな」なんて孝行爺を受け入れる私でありました。

ウサギの傍を離れない孫娘

湯元温泉にて

2014年7月29〜31日

今回の宿は日光湯元温泉の「ほのかな宿 樹林」というちょっと素敵な名前のホテルでした。
私にしては珍しくインターネットで予約したが、ホテル情報を全部ネットで調べるのは初めての経験だった。
このホテル自身は「日光グランドホテル」との名で高級ホテルとして長く継続されてきたが、時節柄経営難からリーズナブルな価格設定が求められ、時代に合ったスタイルにサービスが見直されたように思える。
そのため1泊1万円強の価格で豊かな夕食、朝食が楽しめる。素材はマグロやカニの大ふるまいと言った旅館独特のメニューではなく、ごくごく普通の食材を1手間かけて「オヤッ」と思わせる楽しみがうれしい。
部屋は前面がガラス張りで夜はホタルの飛ぶ姿が山奥に来たことを実感できた。 ホテルの係員は食事要員以外ではめったに見ることができず、それも充分熟年のお姉さんだった。このような時勢では経営上人件費の切り詰めを行わなくてはならないことを十分理解するのだが、痛々しく見えるのは余計なお世話かな。
もう、30年近く前にこの地に行った記憶が残るだけだが、温泉全体の勢いは往時に遠く及ばず、放置された温泉旅館が随所にみられ、、どこでもあるはずのお土産屋さんがまったく無い。時節柄林間学校の子供たちの声が随所に聞こえたが、団体客であふれかえる良き時代は遠くに過ぎ去ったのであろう。
その中で生き残る努力を痛いほど感じた湯元の温泉でありました。

ホテル玄関は素敵な雰囲気

避暑地奥日光湯元温泉

2014年7月29〜31日

最近の夏は標高が高くなければ涼しい気候は味わえない。 東京では30度をゆうに超えても、標高1600メートルまで登れば、まずは大丈夫とずっと一度行きたかった日光湯元温泉へ2泊の旅行に出かけた。 昼過ぎ宿に着くと思わず涼しいと妻はつぶやく。これで先ずは合格。
湯元に来た理由は戦場ヶ原の草原を心行くまで散策することだったが、夏の花が咲き誇っているはずの大草原地帯はアレッと言うほど花々が少ない。 この草原を彩るはずの日光キスゲはまったく咲いていないのだ。 噂では聞いていたが、これも鹿さんの被害だろうか。
湯の湖を半周して、湯滝に沿って滝壺に下りて、湯川に沿ってしばらく歩き続けた後に突然視界が開け戦場ヶ原の草原地帯に出る。そこには淡いピンクの「しもつけそう」に良く似た灌木が広い草原を一面に覆っているのだ。 紫のあざみやオレンジの色が目立つユリのみであの日光キスゲはまったくと言っても見当たらないのだった。 カンカン照りで長くはとどまれないのではあるが、さすがに戦場ヶ原の大草原は心地よい。竜頭の滝まで歩いた後は、大昔ちかくの菖蒲ケ浜のキャンプ場に来たことがあるので、思い出を確かめたいと女房殿と来て見たのではあるが、そんなことは良く覚えていないとすげない。
ホテルはリーズナブルな価格で泊まれるちょっと高級感あふれる宿で、夕食と朝食が食べやすかった。決して高価な食材を使っているわけではないが、調理に工夫がされていて、努力の跡がひしひしと伝わってきた。 そして硫黄のにおいが漂う露天風呂に大満足。湯に浸ったあとがこの真夏でも寒いなどと言える贅沢を味わった日光湯元温泉でした。
これで、これからの夏の避暑地は決まりだな。。。。


湯の湖より男体山

湯元温泉の源泉

若者は何を想うか

2014年6月24日

NHKクローズアップ現代で若者が四国88箇所を回るお遍路さんとなり、 地元の暖かい接待を受けることによって人とのつながりの大切さを学んだと まとめていた。
一方、あるミニコミ誌では「ニートになりたい子供」との記事があり、 裕福な子弟のなかに将来の希望を持てない子供たちが増えてきたと警鐘を鳴らす。
豊かなる戦後日本のこの先を心配する声は、我々戦後の経済上昇期に会社生活を過ごした経験では計り知れないのであろうか。
筆者は英国人の例を引いて「しっかりしろ」と叱咤するが、情けない若者に対する怒りは、まことに同感である。
おじさんは嘆いているのだ。。。。。

毎日夫人7月号より

本の処分に苦闘する

2014年6月23日

久しぶりに本を整理しようと本棚に立ち向かう。
永年愛着を持って保存してきたのだから、簡単に捨てるには忍びない。
それにしても最近購入の本は少ない。改めて(大昔の)雑誌「太陽」を見てみると全体に黄ばんでいて、いかにも昔の本ですねとの感がひしひしと迫ってくる。
雑誌は世代の代弁者だから、その中の広告を見ているとその当時の空気がよみがえってくるのだ。そうなるとますます捨てられなくなる。
昔通った上野の美術館で買った美術展の分厚い図録を最後にパラパラと眺めながら、後ろ髪をひかれながら捨てることを決断する。
思いのほか疲れて処分した雑誌、書籍は1日5冊程度。
1週間かけても本棚全体では「何かありましたか」と思われる残念な結果。 買うことはさっさとできるのに、捨てるとなると体力勝負となるのだった。
あ〜あ。。。。。。

太陽75年2月号も捨てる

家族同然の「ブブ」ちゃん天国に

2014年6月11日

もう20歳を軽く超えるおばあちゃん猫「ブブ」が天国に旅立った。
数週間前から目が見えなくなり、4〜5日前からは食事も受け付けなくなった
「ブブ」ちゃんは点滴を受けながら、その直後は一瞬元気を取り戻しそれなりに家の中を動き回るガンバルお猫ちゃんなのだった。
そんななか、6月5日の朝、ちょっと早めの起床(5時20分)となり、階下の 居間に降りていくと、一瞬かすかに首を上げた。
ママは「ブブ」ちゃんの姿をみた途端、これはだめだとつぶやく。
しばらく「ブブ」をママが抱えていると小さな痙攣をおこしている。苦しむようには見えず、眠るような静かさが漂う。 ママは「ブブ」を抱えたまま、外の庭に出ていたが、そんなに時間を空けない時期に今「ブブ」が息を引き取ったと言う。がくっとする感覚があったと話す。時間は5時25分。我々二人を待っていたように旅立ってしまった。 ママは「ブブ」に向かって苦しまなくて良かったと涙する。
それにしても我が妻のそんな姿をみながら、本当に良い女房に看取られ「ブブ」ちゃんは幸せだったと思う。この猫は自宅のすぐそばに捨てられ、最初は隣のお宅で飼っていたのだが、当方宅と往復をはじめ、ここ10年ぐらいは我が家がねぐらになった。健康優良ねこ「ブブ」は常日頃とても元気でよぼよぼなんかしていない。お医者さんのウソでしょうとびっくりする。だから大往生なのである。
でも寂しくなった。娘が嫁に行っても「ブブ」ちゃんがいたからだ。
「これから猫を飼うの」とママが訊きながら、「でもこれから20年お猫ちゃんが生きたら、我々が先に逝くのよね」と話す。 いやはや、我々も準備を始めなければならないのだ。それにしても女房に惚れ直した瞬間だった。

しあわせそうなブブちゃん

平成25年を振り返る(2)

2013年12月31日

12月の中旬に上智大学の学生から鎌倉の世界遺産登録についての活動を聞かれたことがある。
それにしても予想外の結果だった。鎌倉は世界遺産登録にはならなかったのである。そして富士山が世界遺産に登録。
報道は5月1日の朝で呆然と聞き入っていた。
しかしその後がいけない。混乱状況だったとしても何の説明も行われず結局11月をもって世界遺産登録推進協議会は解散となった。
12月の末日鎌倉市長に世界遺産登録推進協議会の仲間で面談。行政が敷いた路線に意思表示するのはこれが精いっぱい。
上智大学の学生は、当方がこんな現実になってもあまり落ち込んでいないのを不思議に思ったようである。 私にとっては、これも市民活動での一つの取り組みだったからだ。 私なりに精いっぱい格闘したことに充実感がある。

ドイツ バンベルグ市庁舎(世界遺産)

平成25年を振り返る(1)

2013年12月31日

本当に色々なことがあった。
何よりも近親の葬式が3件もあったことだろうか。極めつけは女房の妹が、この春あっという間に旅立ってしまったことだろうか。
亡くなる数日前、それでも元気に話していた妹。「これスイスで買った帽子ね」 と話したのが最後であった。夜の3時に妻から亡くなったと電話が入る。 それからは、あっという間の葬儀の時間が過ぎる。
その2か月後、今度は母が病院で亡くなった。葬儀、納骨と慌ただしい時間が通り過ぎていく。 それにしても後処理が大変。お金の始末だけでも田無、新宿、茅ヶ崎、藤沢の市役所を回ることとなった。 女房は4キロ痩せて、一時は食欲さえ減退する。私も同様に4キロ減となった。
最後は、父の兄弟のお嫁さんで、長年かわいがってくれたおばさんだった。
葬儀に慣れるというのは嬉しいことではない。でもそれは我々の世代が年をとった証拠なのだろう。私も天に呼ばれるのはそう遠い先なのではないかもしれない。

鎌倉十二所にて

やっと旅行ができる心境になりました

2013年9月17日

相次ぐ葬儀とその後始末で、すっかり楽しもうなどと考える余裕さえなくなっていたのですが、やっと1泊旅行に行きたいと女房が言い出したのです。 そこで近くの緑に囲まれた場所をと箱根仙石原に行きました。
箱根フリーパスなどと言う便利なツールを使い電車、ケーブルカー、ロープウェイを乗り継ぎ4時過ぎにはホテルに到着。 ホテルは2階建てのちょっとロッジ風な素敵な外観。 嬉しかったのはホテルの前が芦ノ湖に向かってなだらかに傾斜する芝生の庭園だったこと。ホテルの椅子に腰かけさわやかな風にゆだねる快感は何とも言えない。折しも台風一過の乾燥した空気に囲まれた、この地は身の心もリフレッシュできたのが、エガッタ!! 当然、露天風呂も気持ち良かったし、ディナーも朝食のバイキングもうれしかったのですが。。。。。 女房殿は芦ノ湖で海賊船に乗りたいと前から騒いでいたので、それも次の日に実現。
小さな旅だったけど、これでちょっと吹っ切れたと思えた我々夫婦でありました。

仙石原のホテルにて

大涌谷からの富士

御存じ温泉卵の取り出し

秋の兆しの中で

2013年9月20日

この夏は予期せぬことが重なり、家族中振り回されました。 第1弾はこの4月女房の妹が急死したのです。女房は3姉妹の長女だったせいで後処理に追われ、おまけにその妹が一人暮らしのアパート住まいだったので、生活用品の処分、預貯金の始末など毎日のように役所やアパートを駆け回る日々が続きました。おかげで女房は体調まで崩し、4キロも体重が減ったと嘆いていました。
そんな多忙な日々がやっと一段落しかけた7月に今度は私の実母が亡くなったのでした。1か月以上の病院生活の末でしたが、90歳を超える元気な母で、眠るような最後だったのはせめてもの救いでしょうか。 葬式、納骨、遺産相続などこれも待ったなし。追われるように日々が過ぎ、この9月に入り、一応のめどはついたと今になってホッとしています。 当方も、この夏の暑さのせいもあり、4キロ減量で体調もイマイチです。
まもなく彼岸の時期。さて、元気は戻るといいのですが。。。。

鶴岡八幡宮ぼんぼり祭り
小山賢太郎さんも出ていました

なんと北滋賀へ一人旅に

2013年4月7〜12日

国内の一人旅なんて若い時以来の50年ぶり。 それは旅行会社のツアーで米原近くの長浜で5連泊と言う企画。
何もしないでボォーと(太閤)温泉につかりながら静かな時をすごそうと考えたのですが、行きの新幹線から同行の方々のテンションが極めて高く、通の方々ばかりが参加したことに驚きました。
決して交通の便が良くないこの地から岐阜の「薄墨桜」を見に行く方、信楽に行きたいと語る方、米原から私鉄に乗り換え「八日市」に行き周りの寺院に行くという方。京都の奥地に「しだれ桜」を見に行くと方などとびっくりするほど多彩な訪問先ばかりで唖然とするばかり。
ツアー全員では50名を超える方々が参加したのですが、なんと同年輩のおじさん・おばさんがたの個人参加がそれぞれ10名近くも居るではありませんか。
となると、食事時は我々独り者ばかりが盛り上がる始末。
通常のご夫婦ばかりの中に、申し訳なさそうに一人旅の参加者がひっそりする姿とは大違いの光景となりました。

長浜から伊吹山

余呉のベンガラ座

ベンガラ色の住まいが並ぶ集落

2013年4月7〜12日

新幹線が米原近くを通るたび、車窓から見るその集落の美しさに引かれていた。 瓦もようの屋根に赤褐色に塗られた柱や軒先などが、奈良などとは違った景観を形作る。
浅井長政の活躍した「小谷城」の近くにある、古橋の小さな集落では満開に桜に彩られたこんな山里の景色がうれしい。
それにしても手の込んだ大工仕事で、日光東照宮のようなけばけばしいばかりの装飾とは異次元の無彩色の細かい細工を見るとさぞかし大工さんの手が要ったのであろうと思う。
赤い玄関など品格など無いと思えるが、その美しさにいやはやびっくりである。

高月にて

 高月・高野大師堂の集落にて

桜満開の海津大崎

2013年4月7〜12日

東京ではとうに桜が散ってしまったのに、この北滋賀の地域では長浜が今満開時期になった。更に4〜5日遅れて琵琶湖最北端の海津大崎はその時期となると聞いているので、滞在の後半で出かけようと考えていた。
太平洋と日本海の天気がちょうど混じり合うこの地方は、天気が定まらず太陽はすぐ雲に隠れることが多い。
午前中には京都に近い近江富士と言われる「三上山」にふもとにある「御上神社」を訪れる。さすが国宝にして指定される優雅さが素晴らしい。
滋賀にはこんなすばらしい神社が随所に静かにたたずんでいるのだ。
今日の天気は午後から雨と言っていたが、雲ひとつない晴天に急遽琵琶湖西岸を「湖西線」に乗って海津大崎に向かうこととした。
電車の本数が無く、タイミングを失うと宿泊地「長浜」に帰ってこられない。
時刻表を穴があくほど見比べながら、野洲から東海道線の山科で乗り換え、 琵琶湖西岸に沿って北上する。
海津大崎のある「マキノ」は大賑わい。自転車を借りて琵琶湖に沿って海津大崎を目指すわけだが、年に一回の華やいだ村々は車で一杯。
桜もすごいけど車の間を縫って「大崎観音」に向かう。 心配したお天気も上々で、桜はほぼ満開のこの地は桜桜桜の豪華絢爛にただただ心躍る時間を過ごしたのでした。

海津大崎にて

琵琶湖随一の桜並木

長浜の街づくりパワーを知る

2013年4月7〜12日

歴史上有名な地方都市といっても琵琶湖近辺の1都市「長浜」が観光客であふれかえることは考えにくい。
長浜の街中を歩いてみると、大学と共同で活性化をめざす町屋や市民が集まった「まちづくり役場」など、街の活性化を懸命に支援する拠点が目につく。
聞くと、一時はシャッター街になった町の中心をいかに活性化するかで大変な苦労があったとか。 それを救った最大の魂は祇園祭の鉾のような、立派な「曳山」を擁する長浜祭りの存在だ。町内の心を一つにする地域の宝物を大事にする気風が、ともすれば町内全体のまとまりを阻害するいがみ合いを無くしたとのこと。
折しも、我々の帰った翌日(4月13日)が、その長浜祭りの当日なのであった。
鎌倉と比較しながら、「なんとかせねば」と考える地域と、現在で充分と考える環境の差は、あまりにも大きいと感じざるを得なかった。

竹生島のダルマさん

長浜市内のお菓子屋さん

狩野派展と彦根屏風を見る

2013年4月7〜12日

京都の国立博物館で狩野派展を行っていると聞き、絶好の機会と長浜から駆けつける。長浜と京都は「快速」にて1時間で着くのだが、我が東海道線のスピードとは見違えるほど早いではないか。まるで特急電車のように、そこのけそこのけと突っ走る。我が湘南地域でもこの速さがあったらなーと思う。
さて、この狩野派展は狩野派の「山楽」「山雪」に限定し、寺社から集めた屏風を中心に展示がなされていた。桃山時代を代表とする長谷川等伯や狩野永徳のような豪快・絢爛さが一歩後退し、一般庶民の姿が垣間見れる軽さが印象に残った。だからなのであろうか、個人的には物足りない感覚でした。
旅の最終日に彦根の国宝屏風「彦根屏風」の本物は期間限定で展示されると聞き、新幹線の出発時間に合わせ、午前中に彦根を訪れる。
彦根城博物館にはいつもはコピーが飾ってある部屋に、本物が飾っていった。美術書で見るより少し、金箔もくたびれていたし、薄汚れていたが、お初めておめにかかる本物はやっぱり凄い。
群衆の中で押し合いへしあい見る東京の美術展とは違い、早朝の事でもあり人気がない会場は、わざわざこのために訪れた甲斐がありました。
彦根城の桜が華を添えたこの「彦根屏風」は、この旅の最終を飾る素晴らしい贈り物となったのです。

京都タワーが新鮮でした

桜満開の彦根城

やったぞ、上野美術展3館制覇

2013年3月8日

老いてもますます盛ん。3月のポカポカ陽気に誘われて朝一番から上野の美術館を回る。 どの美術館の入場に大変な時間がかかると覚悟したが、平日の朝だったからだろうか 全3館を回って3時間で終了。 その後はアメヨコ近くの焼き肉やさんで昼食もいつものこと。 満足の1日となりました。

やっぱり素晴らしかったラファエロ
イタリア・フィレンツェには素晴らしいラファエロの作品があった。 有名なウフィツィー美術館ではなく、アルノ河対岸にある宮殿を美術館にしたピッティ美術館がその場所。 それは「小椅子の聖母」と「大公の聖母」と言われる聖母子像で、 宗教画より初々しい母子だけが浮きあがってるポートレートのように見える。
上野には何年か前に「小椅子の聖母」が来日し、今回「大公の聖母」との再会となった。 思ったより大きなその絵は伏し目がちのマドンナがやっぱり素晴らしい。 この会場にはラファエロが描いたいくつかの肖像画があったが、この何事も許すように感じるマドンナ像 の魅力には、ただただ見入るばかりだった。
宗教画の多くは「どうだ、まいったか」と思われる仰々しさがあるものだが、見るほうに穏やかな安心感を 与えるこの絵はラファエロの真髄と思うのだが。。。。
遠くイタリアまで行くことをせずとも、この日本で思い焦がれたこの「大公の聖母」像への再会はともかく嬉しかった。 入場料1500円はそんな視点から安いとも感じた。

ほっとする円空展
上野の国立博物館にそんな大きな規模ではないが、こじんまりと円空佛が並んでいた。 高山の千光寺近辺の仏様を集めた展示とのこと。
同じ仏像展でもきら星のごとく重要文化財が並ぶ芸術性高い仏像群とは違い、この円空さんの作品は 田舎の小さなお堂に並んでいる土の浸みこんだ匂いがする仏様だ。 もし、こんな仏様が小さなお堂に何気なく置かれていたら、間違いなくポイと捨ててしまうだろうな。
以前開催された興福寺の阿修羅像の展示でも感じたが、このような彫刻作品は光の当て方次第で大きく印象が異なる。 全体は照明を控えた会場に、天井から仏像に上部からスポットライトを当てることによって、仏様が浮かび上がるような 手法が素晴らしい。
子どものいたずらとさえ受け取れる簡素なノミの入れ方を見ると、その気にならなければその素晴らしさは 判らないように感じるからだ。
それにしても、こちらから近づかなければ仏様は答えてくれないと想う何気なさがこの円空佛の魅力なのではないだろうか。 だから、自念仏にしたら最高。
「ラファエロ」、「エル・グレコ」の芸術性が高い美術を見た後では、「日本のほとけさま」をとりわけ感じた時間だった。

めったにお目にかかれないエル・グレコ展
ルノアール、ピカソ、セザンヌなどヨーロッパ有名人の美術展は珍しくもないが、 グレコさんの展覧会は珍しい。 会場には、スペインのトレドから大型の絵画が送られて来たようだが、これも意欲的な企画だ。
グレコ独特な色彩感と引き延ばされた人物像は一目でこの作家だと判別することができる。 近くで見るととても筆の使い方が荒く、やはり祭壇画として遠くから仰ぎ見ることを意識しているのだろう。 当方、キリスト教に親しみが無く、今回の目玉の「無原罪のお宿り」もちょっと心の震わせ度が低かったのが残念。 今回の展示の中では素敵な貴婦人を画面一杯に書いた絵が一番印象に残った。
スペインの空気でなければ書けない絵画、それは民衆のマリアさまへの熱烈信仰がその大きな源泉なのだろう。 さまざまな絵を見ながら、マドリッドやトレドの光景が思い出させる。
「行きたいな、スペイン」と感じた展覧会でありました。

久しぶりの渋谷文化村

2013年2月8日

横浜で所用を済ませ、ここまで来たならばと東急文化村で開かれている白隠展を見に行く。 近頃は格調高い「どうだ、まいったか」と言うような国宝級絵画などより、もう少し親しみを感じる美術に興味が 引かれるようになった。
江戸時代の禅僧「白隠」は、京都の禅寺に行けば必ず売っている達磨像色紙を書く変な坊さんなのである。 だから狩野派のような絵を描く際の決まり事などにはまったく気にしないようで、 近所の檀家さんに頼まれれば絵を差し上げますと気軽に引き受ける絵好きの坊さんなのだろう。
だから絵も字もとても伸びやか。 見ていても当方が緊張を感じることなどない。 好いよなあ。。。。。。こんな好き勝手に書けるなんて!と感嘆するのみ。
書かれた観音さんやお釈迦さんも威厳などありゃしない。 普通このような美術展を見終わるとどこか頭がくたびれるものだが、 この展覧会はどこか緩やかな空気が流れていたため、そんなことも無かった。
美術館を出れば、そこは渋谷のど真ん中。東急本店内のゆったりしたスペースは 「お金持ちしか相手にはしておりませんので念のため」と言っているようで(貧乏人の私には)居心地が悪い。
更に通りに出れば若者ファッションが台頭する街並みに、伸びやかなおみ足を自慢げに見せつつ闊歩するガールズには 田舎から出てきたおじさんは場違いの感さえしたのでした。

大雪の出来事

2013年1月14日

1月14日は関東地方で大雪になる。天気予報が大外れで、ことによるとちょっと雪が降るとの予報は、朝9時には ボタン雪が降り出し、あっと言う間に外は銀世界。 午後にはちょっと勢いがなくなったが、東京で8センチの積雪とニュースが知らせる。
我が女房殿は、こんな日は夕食が作れないと、午後4時半にはアツアツの豚カツ弁当を買いこみ、すぐに40分発のバスに乗り込む手筈だったが、 バスがまったく来ず5時10分ごろ「やっとバスに乗り込んだ」とあきらめ顔で電話があった。(バス停では寒かったろうな。。。。)
私は雪の道は時間もかかるだろうと、それでも6時前に家で暖かい弁当を食べられると期待したのが大間違い。
6時になっても、女房殿の姿は現れず、だんだん空腹が高じてくる。こんな時は一刻、一刻がとても長く感じるのだ。 そして、なんと、なんと7時20分にやっとご帰宅とあいなる。
普通なら混んでも20分有れば我が家までくる帰路は、なんと乗るまで30分とバスの中で2時間以上もかかった計算となる。
それでも、ともかくお腹がすいたと、まずは「食べようね」と言うことしかできなかった。 ほんのり温かさが残っているお弁当は、なんとも複雑な気持ちが行き交う食事となったのはいたしかたない。
このもやもやをどのように解消できるか、この天気ではいたしかたないなと思いながら浴槽に身を沈める私でした。

雪に凍える葉ボタン

ご先祖様の地、彦根(3)

2012年11月7日

我が曾祖父は彦根藩主井伊家の親族だそうである。それを確かめようとこの地彦根にきた。それを調べるには、彦根城にある彦根城博物館に行けば何らかの資料があるはずだと聞いた。 早速訪れて係りの方に聞くと、旧家系ごとの資料があると教えてくれる。
曾祖父は明治維新後の方針で「武節貫治」と改名したが、その前は「河手主水」と名乗り、井伊直弼亡き後、藩主(直憲)とともにお家の再興をはかった家老なのである。
にわかに信じがたいが、錦の御旗を建てて江戸に進んだ東征軍には彦根も加わり、その彦根藩代表として「河手主水」が実際に江戸攻めを取り仕切ったと書かれている。
しかも、その「河手主水」は彦根藩家老の「新野左馬介」の二男(敦次郎)として生まれ、成人後、井伊直弼からの命により河手家の養子の名のもとに河手家を再興した。
その「新野左馬介」こそは井伊家11代藩主「直中」の十男である。(いやはやややこしい)
これで曾祖父が井伊家と血がつながったのは間違いないことが判った。
※井伊直弼は「直中」の十四男である。
ここまでたどり着くのには、この彦根博物館で「新野左馬介」の記載がある「侍中由緒帳2」を買い、どうして彦根藩が徳川幕府から薩長軍に鞍替えしたのかを調べるために「幕末維新の彦根藩」を買い込んだのである。
それぞれ立派な本だから、価格はいずれも5000円前後でお財布もすっかり軽くなり、この彦根で買いこんだ本の重さがずっしりする中、急勾配の彦根城をまわる事となった。

彦根城博物館にて

彦根城本丸

ご先祖様の地、彦根(2)

2012年11月7日

古い町の特徴は高い建物が無く、見上げる空がとても広く感じること。 そしてどこか人間臭さが強いことだろう。
そんな中では寺院の大きな屋根ばかりが目立つ。
そのひとつ大きなお寺、圓常寺を訪れる。快慶仏があるお寺として有名だそうである。内部を説明していただけたが、この本尊さまの近くにたくさんの小さな仏像がぎっしり詰まった仏間があった。
説明される方のお話しでは、明治維新の後、武士制度が廃止になったことより、生活に困る方が多くなり、たくさんの方から仏像をお寺に置いていただくように依頼があったそうだ。だからとてもすばらしいものもある。
更には、梁には槍などが掲げてあり、これも同様な理由なのだそうである。
市内のどのお寺にも大きな墓地を抱え、江戸以前からある由緒ある立派なお墓が並んでいるのだが、そこここに「このお墓を知っていらっしゃる方をお知らせください」との立て札が目立つ。
この地を離れ、都会に移っていく流れの中で取り残されるお墓のさみしさをしみじみと感じるのだった。

古い街並み

宗安寺にて

ご先祖様の地、彦根(1)

2012年11月7日

当方は父が早く亡くなり、ご先祖さまの話を聞く機会が無かった。その父の兄がある時親族を世田谷の豪徳寺に参拝する機会を作ってくれ、そこで曾祖父が彦根の井伊家に仕えるお侍さんで、しかもかなりの地位を得た方であったと話すのだった。いやはやびっくりである。
今回はその足跡を訪ねる目的で彦根を回る。
全国に名が知られた「ひこにゃん」の地彦根は彦根城を中心に昔の風情を色濃く残す城下町。駅前の自転車を借り、そんな町を走りまわる。
まずは、曾祖父が明治初期に地元を駆け回って作った女子高、現彦根西校を訪れ「彦根西校百年史」を購入。なんと、その本は500頁に及ぶ豪華本で今回の目的であった曾祖父(武節貫治)の話が驚くほど詳細に載っていた。
すっかり嬉しくなって、これで目的達成とばかり心が軽くなったのはいたしかたない。
さて、ご先祖様の住んだ場所の空気を感じよう。。。。。

和菓子屋さんショーウインドウ

和菓子屋さん・これも和菓子です

久しぶりの京都(2)

2012年11月6日

伏見に行きたかった。それは風情ある酒蔵の並ぶ街並みを見たかったからだ。
願いが叶い、黄桜酒造では1杯100円の試し酒でちょっと気持ち良くなり、 月桂冠では3種類のお酒をいただく。これだけで元をとった感じがして嬉しい。
伏見は坂本竜馬が殺された「寺田屋」が現存し、驚くことに今でも旅館を営んでいる。当方も修学旅行の生徒でごった返す室内を見学する。
それにしても天井が低く、客間以外の空間がほとんどない昔の旅館は決して快適空間とは言えないだろう。こんな狭い空間で刀を振り回すお侍さんは、大変だっただろうなと同情に堪えない。
酒蔵が並ぶこの地区は確かに美しく整備されていた。えがった。。。。
歩き回ったあと、ふとスターバックスもどきの喫茶店に入り、聞くともなしにとなりのおじちゃん・おばちゃんの会話を聞くと「あのおっちゃん、どなんしてるんや」とか「ボランティアしているおっちゃんはどんな気持ちでそんなことしているんやろか」などの合間に「あの人、どの病院に通っていたはるねん」など、とても格調高いコーヒースペースとは思えぬ会話の連続。
京都の下町を垣間見た瞬間だった。

寺田屋全景

酒蔵群の風景

久しぶりの京都(1)

2012年11月5日

4年ぶりの京都である。ホテルが錦小路だから、こてこての庶民文化に突然組み込まれたことなる。それにしても京都は元気だ。すぐ傍の京極繁華街は、どの店も「売らんかな」の意欲が目一杯感じられ、かっこつけやの関東人には驚きである。商売とはこのように堂々としているべきなのかも知れない。
時間を見つけて下賀茂神社に行く。世界遺産登録になった地域でもあり、整備が続き更にきれいになったと感じる。入口近くにある河合神社には“美しい女性になりますように”とのセールスポイントで新顔の「鏡絵馬」が並んでいた。
女心を上手に商いとするそのさりげなさが観光都市京都のすごさだと思った。
緑に囲まれた糺の森には、雅な下賀茂神社の社殿が並んでいた。
やっぱり京都は良いなあ。。。。。

奉納された絵馬

下賀茂神社にて

水の町三島を訪れる

2012年10月22日

忙しい忙しいと毎日を飛び回る日々が続く中、女房孝行と三島に行くこととした。東海道線は一応熱海までが終点と思っているので丹那トンネルを超えることがは少なく新鮮な感じがする。しかし、我が辻堂駅からは1時間半もあれば三島の地に着くことができるのだ。
まずは柿田川湧水地に。国道1号線のすぐわきから突如大河が湧きだすこの地は富士の地下水のすごさを見せつけられる絶好の場所である。
泉というなまやさしいチョロチョロ水ではなく、ドカンと湧いてすぐ大河を形作っている。この不思議さは行ってみなければ判らないかもしれない。
そんな清流だから自然豊かで、女房殿は枝に止まっているカワセミに大感激。しかも鮮やかなビロードを思わせる青色の羽を輝かしながら水面を飛行するからその姿に酔いしれていた。これでご満足となったであろうか?(エガッタ)
三島旧街道沿いには、これも市内から湧き出た水が透き通るような流れを作っている。その一角に腰をおろし、うなぎのかば焼きの匂いが漂う中、なんと女房どのは「三島女郎衆はノーエとはここかしら」などと、普段とはちょっとトーンが違うご発言。驚いた私でありました。
その後、三島大社から清流に沿って三島駅近くの湧水群で、木のすぐ下や溶岩の隙間から湧きだす水の量に驚き、改めてこの町が水の町であることを実感したのでした。

お久しぶりフェルメールさん

2012年9月17日

9月に入り、イベントなどの準備で駆け回る中、9月13日に思い切って上野の東京都美術館へ行く。マウリッツハイス美術展では人気のフェルメールが展示されていて、しかもその中で最も日本人に人気のある「真珠の耳飾りの少女」が見れるということもあり、開場時間9:30を目指し東京に向かう。
上野駅の中にあるチケット売り場では、すでに50メートル以上の行列で、もうすでにハイテンションとなっていることを実感。
そうなれば急ぎ足で上野公園を横切り、会場に駆け付ける。入場は10時近く。
大混雑の会場では、わたしのようなひねくれ者は画の並んでいる通りに観覧するなどとはまどろっこしく、ポイントになる絵のみに集中して見てゆく。

そしてフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」は上野動物園のパンダを見るがごとく1列に整列後、絵の前を立ち止まることなくガラス越しに通りすぎる形となっていた。
昔オランダのマウリッツハイム美術館では、申し訳ないほどのガランとした館内で、手で触れるほどの近距離で見させていただけに、遠くガラス越しに鎮座ましますご尊顔を拝見すると、「あれまあ、おいたわしいこと」との感さえする。
個人的にはレンブラントの自画像も目的だったが、やっぱりフェルメールは良いなと思った。 同じ美術館内では院展を行っていたが、パワーが無いのであろうか?、これを見る元気が出ない。若くはないのである。

涙があふれてならない

2012年8月30日

我が母は有料老人ホームに入っている。90歳を超えたとはいえ、かくしゃくたる様子を見ながら当方としては安心してお願い出来ているのがうれしい。
その老人ホームでは家族会が年4回ほど開かれ、我々家族が集まってホームの中でお世話している職員さんから、日常の様子やイベントの案内を知らせていただき、その後、そのご家族との意見交換が行われる。
その会場には家族だけではなく、入居者も同席にて意見を言う仕組みも組み込まれている。
意見交換では、圧倒的に食事に関するクレームが多く、「塩分が濃い」とか「甘みが強い」との意見が入居者から聞かれる。その話を聞いていると、まるでひどい味付けのような言い方をする一部の方がいらっしゃるのはいたし方ない。
味覚は千差万別だから、自分の味覚が多くの方々と一緒だとは限らないことをお分かりにならない方もいるのだろう。
しかし、家族のほうからも、その味のクレームを応援するような意見が飛び出すではないか。
ホームの職員はひたすら辛抱強く聞くだけで、なんとなく批難をする家族側とホーム職員の対立のような構図が出来上がっている。
我々の娘のような若い年代の職員が多い中、我がままであろうし、聞き分けのないお年寄りに懸命に寄り添う現場を見ながら、家族会の役割は、ことによったら萎えてしまう若い職員を激励・応援することこそ大事ではないか。
会終了後、片隅で目を赤くしている食事担当者を見た。 涙が止まらなかった。申し訳ない。。。。

高原でまたまた哲学者になったかな

2012年8月18日

温泉三昧の毎日では読書に最適。自宅にあった「般若心経」の解説文をこの地で読み返す。何回読んでも判ったような判らないような宙ブラリンの感が否めない。「色即是空」との有名な一節も、この空(くう)のイメージがいまいち。。。。。
この志賀高原のホテルでは目の前に小高い山が迫り、緑のカーペットに気分がなごむ。温泉で火照った体を涼めようと、玄関先でその冷気を楽しむ。この時の温度は15度ととても涼しい。
山の稜線に沿って湧き上がる雲を眺めていると、その雲は湧いては消え、一瞬たりとも同じ形にはならない。真っ青な青空に次々に形を変えながら流れていく雲を見ながら、般若心経の空(くう)から空(そら)が思い出させる。
青空には通常では雲が湧くことがない。しかしながらそこに寒気や水蒸気が供給されることによって、この水蒸気が雲になり、我々には白く青空に浮かぶ姿が見えるのだ。つまり空は通常青色の透明なキャンバス。そしてそこに水蒸気という環境が入ると、初めて雲が湧く。
我々の心も常に平常心でいられるのなら、悩みなどが湧くことは無い。
しかし、我々には“惜しい”“欲しい”“憎い”など様々な思いが湧いてくる。
真っ青な空にむくむくと雲が湧きあがるように、平常心のなかに“憎い”などの感情が重なったときに、初めてムラムラと心に波風が立つものなのだ。
そして、「色即是空」の空(くう)は本の説明で語られる「からっぽ」と言われることより「青空のキャンバス」、つまり空(そら)と思えば、私にはすうっと入っていけるように思える。
志賀高原の冷気は私を更なる高みに押し上げてくれたように感じた。

うだる都会を避けて

2012年8月18日

毎年のこととは言え、カンカン照りの夏には高原に避難するのが一番。 今年は長年行きたかった志賀高原の熊の湯に行く。 長野新幹線にて東京・長野間は1時間半と昔の感覚とは大違い。(特急でも碓井峠を越えて3時間以上はかかったなよな。。。。)
長野駅からはホテル送迎車で熊の湯まで1時間半。着いた場所は標高1600メートルの涼し涼しの別天地でした。
このような高原に行ったら、若い時は終日野山を駆け回ることばかり考えていたが、その時を遥か遠く感じる現在では温泉ばかりが気になる。
遠い台風の影響か、天候が不安定で晴れたかと思うと、ざっと雨が通りすぎる落ち着かない天気が続く。
霧に囲まれ「寒い寒い」と嘆くのは、この上ない贅沢と言えようか。 温泉三昧の4日間はほんまもんの避暑となったのです。 それにしても真夏の高原は最盛期のはずが、我々のような熟年世代の方ばかりがうろうろするばかりで、若者の声がこだまする機会が少ない。
泊ったホテルのすぐ傍の2軒が休業状態。高齢少子化を痛いほど実感した次第です。さみしい。。。。。。

志賀四十八池

「性」とは生きる心と書く

2012年6月13日

「人間だもの」と相田みつおさんは言う。 残念ながら、われわれはそんな高尚なものではない。 男はいくつになっても「スケベ」できれいなねえちゃんには全面的に降参である。 そして、女性はまるでチョウが飛び回るように、いくつになっても目立ちたがるものなのだ。 それを倫理観だけで罪悪視することはできないものだ。 そんな人間だからこそ、男女の人間模様が数千年の継続を果たしたのであろう。
清廉潔白な正しい人間でありたいと願うことは、できないからこその苦悩の結果と受け止めたい。 「罪を憎んで人を憎まず」との心境に自分は達していないが、人間の「性」がそうさせていると 思うことが、自分の心を軽くする策でもあることを考える出来事があった。
私がこの人生で一番印象に残った本・伊藤整さんの「氾濫」を何十年ぶりに読み返す。 ”日本の近代文学の行きついた果ての人間をとらえた真実が、「人間は真実には生きられず、 偽りの中に生きている」との結論だったことは皮肉というほかない。”とその本の解説は記す。
さてさて、まるでお坊さんのようですねと言われそうだが、この半年はそんな思いを強くした 時期でもあった。そして、自らのいたらなさも思わずにはいられないのだけれど。。。。
まあ、いいや。人間なんだもの。。。

やっぱり昔の仲間は良い

2012年3月30日

会社時代の仲間が集まり、近隣のハイキングを長年継続している。開催が土日になるため、当方のボランティア活動と重なり、残念ながらほとんど参加したことが無い。 今回は3月30日の金曜日がその日となって、本当に久しぶりに参加した。 「おい、ひさしぶりだな!」との声が集合駅の小田急秦野駅に響く。実に数年はご無沙汰の顔ばかり。
今年は桜の開花が遅く、この3月末でも全く咲いていないのが寂しいが、それなりにわいわいがやがや「七福神と鶴亀めぐり」と言う、我が年代層にはぴったりのコースを巡る。 とりあえずの自己紹介など全くしないし、そんな近くでご一緒した方ばかりではないのだが、不思議と会話は十年来のようにかみ合うのだった。 10時から14時半まで小さなお寺・神社を回るコースではあったが、これぐらいが年齢相応のハイキングであろうか?とても心にビタミンをもらった時間であった。
それにしてもそこから東海道線の大船での打ち合わせに駆けつけ、夜は大船の酒場でちょっとシュビアーな憂さ晴らしとなったのはいたし方ないかな。。。。

出雲大社相模分祠にて

護良親王墓を訪れる

2012年3月8日

いつも鎌倉風致保存会のみどりのボランティアで訪れる永福寺跡のすぐ傍に、後醍醐天皇の皇子護良親王のお墓がひっそりと在る。
護良親王と言えば、鎌倉宮にある土牢が有名であるが、最後は刀の切っ先を咥え壮絶な死を遂げたと語られる親王のお墓は、その場からそんな遠くない尾根筋の森に忘れ去られたように置かれている。
良く手入れのされた急階段を100段ぐらい上りきると、その先に苔むした墳墓が眺められる。当然、宮内庁の管轄下であるから、厳重な石の柵で囲まれていて、頼朝さんのお墓とはちょっと違うが、森に取りこまれた神聖な雰囲気を感じる。
ここを訪れるひとはめったに居ないのか、途中ではリスさん2匹に有っただけ。
印象に残ったのはお墓の傍に置かれた大きめのチリ取りで、このお墓を守る地元の方々が定期的に清掃をされていることがうかがわれた。
当方は永福寺跡で桜の植樹に立ち会った後とは言え、この急坂の往復が足腰にショックを与えたらしく、階段を下りた時には足がガクガクになってしまった。
年のせいか、護良親王のお怒りか判らないが、数日膝が痛かったのが印象を深くしたのかも知れない。

スイセンの咲いていない
爪木崎なんか。。。

2012年1月31日

大船駅のコンコースに爪木崎の大型ポスターが貼ってあった。「スイセンの大群落をみたいな」なんて思っていたが、忙しさが一段落し、気分を変えたいと「そうだ下田・爪木崎に行こう」と相成った。寒さが厳しき時期でもあり、平日だから伊豆急行はガランガラン。
下田からバス15分程度で爪木崎に到着。お目当てのスイセンが一望できる小高い丘に登ってみると、めぼしき丘陵地を見ながら「あれ、あれ、あれ」と絶句する。今日はスイセン祭りの最終日とは言え、スイセンの花がまったく見えないのだった。時期が過ぎたのかな?なんて不思議に思っていると、しばらく行った会場入り口にA4の紙に今月の中旬に塩害でスイセンの花が全滅したと書いてあり、「あしからず!。。。。。」と最後の記載が有った。
この地は海に突き出た半島なのだから西風はことのほか強く、潮風なんか当たり前の地域なのにこのありさまに唖然とする。
丘の下の人工的に植えられたスイセン畑に申し訳なさそうに咲くスイセンの群落をせめての慰めとして、目的を達成したと言えようか? それにしても下田から伊東の間の電車からの光景は伊豆七島が手に取るように浮かぶ絶景の連続。これだけでも行ったかいが有るようなもの。 男の一人旅はそれなりに満足した1日で有りました。

新春「箱根マラソン」を見る

2012年1月2日

箱根マラソンを見るのは恒例になっている。我が家から真っ直ぐに海岸に向けた道を行けば浜須賀の交差点に出る。ここは東京から走ってきたランナーが初めて海を眺める位置でも有る。通過時間に合わせ、沸いてきたように次々に人が集まってくる。そして浜須賀交差点に来ると小旗を持った大勢の観衆が今か今かとランナーが来るのを待つのだ。ラジオの実効放送を聞きながらあと5分で来るとか、最近は携帯でTV放送を確認している。
「来た来た」との声が出ると有った言う間にランナーが通り過ぎる。望遠でランナーを撮ろうとするのだが、早くてまったく対応ができない。
TVと違うのは1番目と次の走者が走ってくる時間を身を持って確認できること。ずいぶん間があいたなとの実感は現地でしか味わえない。
しかし、ランナーが通り過るときは皆思わず「ガンバレ」と叫んでしまうのだ。
祭りの中に入った時のわくわく感。これがマラソン見学の良さなので有ろう。 それにしてもどのランナーも蚊とんぼのような細さで痛々しい。

我が愛猫「トラミ」よ!

2011年11月

11月のある日、自宅で寝転んでいる我が愛猫は、「幸せだなー」と何の不足もないように平穏な時間を過ごしていた。そしてちょっと外をうろついてみようかといつものように外に出たのだった。
しかし、その後は2度と我が家には帰ってはこない。
思えば、もう8年にもなるだろうか?小学校高学年の少女が「おじちゃん、この猫」と私の手に子猫を渡す。おそらくお母さんに捨ててくるように言われたからだろうか?我が家は近所でも有名な猫好きだから、来るのはいたし方ない。
小心なメス猫で尻尾が極端に小さく、よく「どうしてこの猫は尻尾がないの」と幼い子に聞かれたものだった。まるで犬のように私の傍を離れず、外出先から帰ると、外で遊んでくれと誘導する。 居なくなるなどとは考えたことも無く、ふと帰ってくると信じたいが、心にぽっかり穴が開いたようになった。不思議なことにそんな時期に併せて、何をやってもうまくいかない。私の幸運まで持って行ってしまったのだろうか?

清里訪問記

2011年8月

私が八ヶ岳山麓の清里に行ったのは、半世紀前の1965年ごろだったと思う。 初めての高原での経験は、入社したばかりの夏休みに人事部門が募集したツアーに男友達5人で参加。バス数台を連ねるまさに社員旅行だったのである。 社員の構成上、圧倒的に(若い)女性ばかりの今から考えると我々男性には極めて恵まれた環境であったが、その当時は何の感慨も無かったのが純真だったんだなー。 場所は清里にある「清泉寮」と言う、広大な原っぱの中のロッジで、その付属バンガローで数日を過ごした。翌日からその場所を起点として「美しの森」や「天女山」のハイキングに行ったのであるが、それ以上はよく覚えていない。 しかしながら八ヶ岳の赤岳を仰ぎ見るスケールの大きな展望と、八ヶ岳山麓の緩やかな傾斜の先に遠く甲府盆地を見下ろしながら、その先には富士山や南アルプスがひときわ高く、聳えていたのが印象深い。
今回、清里のひとつ隣の駅『甲斐大泉』に泊り、バスにてこの清泉寮と清里を回った。清里の俗化は散々テレビ等でも映像を見、まるでおとぎ話に出てくるメルヘンチックなホテル・ペンションの連続だと聞いていたが、そんな時代には毛嫌いをして見向きもせず今日に至った。 そのようなバブルの時代を過ぎ、そのブームを通り越したこの近辺は、そのけばけばしいピンクや白のペンキがはげ落ち、手すりなどにはサビが見受けられる痛々しい感じさえした。往時の華やかさを思うだけに、これからの大変さを想わずにはいられない。 だから歩いているのは、元気なおばさんばかりで、ギャル等は数えるばかり。。。 すっかり様変わりしていたのでした。
そしてあの清泉寮は、その後ちょっとは有名になったとはいえ、昔の面影を残すそのままのロッジで有りました。見渡すと変わらぬ広大な牧草地が広がり、周辺にはコンクリートの建物さえ見当たらず、昔日の面影をしっかり保っていたのでした。 「ここだ、ここだ」とおじさんは大感激で、昔の思い出に浸かりながら、爽やかな清泉寮にて豊かな時間を過ごしたのでした。

絵本に感銘

2011年6月

ちょっとしたきっかけから『生きているってふしぎだな』(著者 やなせ たかしさん)という絵本を購入した。裏を見ると低学年以上と書いてある。これなら私でも大丈夫らしい。 寝ながらこの詩集を読むと、とても印象に残る文があった。 それは、「ふたつのことば」と名付けられている。ちょっと長いので最後の節だけを紹介すると
ぼくらは 小さな命です。
みんなで 小さな命です。
げんきでたのしい 命なら
ふたつのことば いえますね
ごめんなさいと ありがとう
ごめんなさいと ありがとう

この小さな命とは草花を指しているのですが、私には日々の暮らしの中で我々が一番言えない言葉、「ごめんなさい」と「ありがとう」を素直に言えるようになろうとのメッセージと聞こえた。 変なおじさんでもある私は人生を上手に過ごすコツがこんな低学年用の詩集に書かれていることに感心したのである。やなせさんの絶句が聞こえるようである。

名作「こころ」を読む

2011年5月

今頃と言われそうだが、夏目漱石の名著「こころ」を読む。
『私』は、鎌倉の海で出会った『先生』の不思議な人柄に強く惹かれ、感心を持つ。 『先生』が恋人を得るため親友を裏切り、自殺に追い込んだ過去を、その遺書によって明らかにされてゆくのが筋書き。
前篇、後編の2部に分かれるが、最初はどこが名作なんだろうとちょっと期待外れ。
後編になると若い年頃特有の恋の悩みに翻弄されながら、ふとしたはずみで友達を裏切ることになった顛末が、遺書と言う形で語られる。 この小説は新聞に掲載されたとのことであるが、こんな重苦しい内容と、高邁な倫理観を 大衆を相手にする新聞で掲載したこと自身、明治という理想に燃えた時代を感じる。 今ならば、「善悪だけで世の中を生き抜くことなどできない」と理想像を求める風潮に異議を感じる事さえあるだろうし、人気は出ないだろうな。。。
人間がだんだん堕落したのではないかと感じるこの頃であるが、その原因は我々の「こころ」の在り方なのではないだろうかと自戒した作品だった。

吉里吉里人を読む

2011年4月

とってもボリュームが有る井上ひさしさんの名著「吉里吉里人」を再読。それは20年ぶりだろうか? 気合いを入れて読んだとはいえ、百科事典を思わす分厚さは寝る前に読むこことしているので2か月近くかった。 内容は東北の一地方が日本から独立宣言をし、最後には滅ぼされるまでの物語。ズーズー弁が標準語のため、全編この言葉で語られる。 そして、独立を成立させる条約などの専門的な裏付けや国際法の解釈、医療立国を目指す国是により薬や医療の専門的な解説、航空機や戦車など 兵器の詳細などが、ちょっと変なおじさん、おばさんの口を使って語られる。 井上さんと言えども、専門書を読み進め、調査・調査の連続で作り上げて行ったのであろうが、作者の計り知れない知識に感嘆せざるを得ない。 ちょっと、政府に対しては斜めに構えていた井上さんだから医師会の傲慢さを皮肉をこめて、ある薬品の医者からの費用要求数量がその総生産数量を越えたことをさりげなく語る。 このようなとてもお堅い話をちょっとエッチなおばさんとピントはずれの作家が話を進めるのだ。 読むほうも疲れるのだから、書く方こそもっと大変なのであろうか?作家も楽ではないなあ。。。。。。 天国の井上さん、本当にご苦労様でした。

精一杯生きよう

2011年4月

社会人を卒業してから、これからは身の丈に合った生活を過ごすと我が心情も変化したが、 この震災は日本の生き方も更なる変革を目指さざるを得ないだろう。 経済発展こそ大事と言い続けた我々が、それ以上に「助け合い」が大きな力になることを身を持って体感することであろうか? そんな流れを喜ばしいと思う。
震災前のコラムでは有るが、身に沁みた内容だった。

毎日新聞3月から

3位じゃだめなんですか?

2011年3月

この記事の記者はなかなかユーモアが有る人だ。そしてこの記事を許す新聞社もなかなかなものだ。。。。我々の不満を助長するばかりがマスコミと思っていたが、市民の頭を冷やすこともマスコミの責任で有ろう。作家の司馬遼太郎は亡くなる少し前に「残念ながらこの日本は峠を越えた」と話されていた。それは今から15年も前のことであった。だからみんな昨今の状況は判っていたはずである。遠くローマ帝国の滅亡のシナリオを思う。



毎日新聞3月から

正義の味方「月光仮面」なのだ

2011年2月

今年から購読する新聞を変えた。A紙やY誌は世論を操作したいと言う気持ちが強く、批判ばかりしている姿勢に嫌気をさしたからだ。。。 特にY紙の現政権に対する集中砲火はすざまじく、ことに寄ったらどこからかお金が出ているとも感じる。 既得権益を死守したいと言う大きな影をあきらさまに感じる。 さてそんな中、さわやかな論説が載っている。私は年を取ってきて友達連が話す”若者を徴兵に出させ、集団生活をさせる”と言う議論をなるほどとも思う。 だから、決して左派ではないが。。。


毎日新聞2月7日から

村上龍さんのJMMから

2011年2月

残念ながら金融マンや金融ジャーナリストの話を信用する気は全くない。 それはいかなる場合も業界の利益(言うならば業界のエゴ)を無視することが無いからであろうか?影響の大きさから国を潰す元凶にもなることを心していることを望むのだが! そんな中、作家の村上龍がJMM(ジャパン・メール・メディア)と言う経済・金融のスペシャリストから意見を聴くサイトがある。私は斜めに構えて楽しんでいるのだが、時々共感する内容が有る。 今回はその中から転載する。当然共感しているからであるが。。。
なお、サイト名はJMM アドレスは右の通り   http://ryumurakami.jmm.co.jp/index.html

Q.1146 配信日:2011年01月18日
寄稿家: 水牛 健太郎 の回答
インフレ期待が国民の間に醸成されるためには、政府の、どのような経済政策が有効なのでしょうか。
インフレ率が国民の「期待」によって決まるという説は、経済学ではかなり強い勢力を持っています。これは「合理的期待形成仮説」という説で、そこで主に金融政策によってインフレ率が操作できるはずであるという結論に結び付きます。いわゆるインフレターゲットなどがその結論から導かれます。政府・中央銀行が目標とするインフレ率を宣言し、それを目指して適切な金融政策を打ち出せば、人々の合理的な予想とあいまって、実際にそのインフレ率が達成できるはずであるとするものです。  今の日本ではインフレターゲットこそ導入されていませんが、インフレを目指す金融政策は既に動員されています。いわゆるゼロ金利政策がそれです。物価上昇を直接的に目指してのことではありませんが、政府の財政支出も増大しており、これもインフレ要因であることは間違いありません。   しかし、実際にこうした政策によってデフレからの脱却が実現できたという事実はありません。政策が間違っているないし不十分であるという議論はテクニカルにはいくらでも可能です。しかし、これだけ長期にわたって政府・日銀のプロフェッショナルたちがデフレ脱却を目指して様々な政策を打ち出しているのに効果がない以上、常識的に考えて、政策によって国民のインフレ期待が醸成でき、ひいてはインフレが実現できるという前提が間違っているように思います。それはたとえるなら、実際に経済的に成功している社会主義国が存在しない(しなかった)以上、常識的に考えて、経済政策の枠組みとして計画経済は間違っているに違いない、というのと同じことです。  もちろん、田中政権時の狂乱物価のように、インフレの芽がある時に政策の誤りによって物価の暴騰を招いてしまうことはいくらでもあるのですが、インフレの条件がない時に、政策によってデフレをインフレに変えることは、おそらくできないのです。  あるいは「まだできない」というべきなのかもしれません。経済は人間によって形作られる現象ですが、まだまだ人智の及ばないところが多く残されています。人体や人間の精神についても、科学によって解明されていることはほんのわずかだと言いますから、経済について未知の部分が多かったとしても何の不思議もありません。  かつて医学では「しゃ血」と言って、血を一定量抜くのがスタンダードな治療法として様々な場合に行われていましたが、今では治療に効果がないことがわかって全く行われていません。しかしこれも、かつての限られた知識体系の中では合理的な方法として位置づけられていたわけです。知識が広がっていけば、合理的な方法だと思われていたものも意味を失い、新たな方法が考えられるようになっていきます。  そんなわけで、私は現在の知識水準では、政策によってデフレを脱却することはできないのではないかと思います。それなのに現在デフレ脱却が専ら政策の問題として論じられているのは、一度そうした議論の枠組みができてしまった以上、それを否定するのは誰にとっても難しいからだと思います。典型的な「裸の王様」の構図です。「政策でデフレは脱却できる」というのが常識になってしまうと、「できない」というと自らの無能をさらしているように聞こえてしまいます。誰も「王様は裸だ」と言えません。そこで、学者やシンクタンクは「できる」という前提でデフレ脱却策のあれこれを議論し、日銀は具体策を立案し、政治家は「何で脱却できないのか」と日銀をいじめるという不毛な構図がずっと続いていくことになります。


ボランティア礼賛

2011年1月

様々な市民活動に出てみると、体を動かすボランティア活動だけではなく、仲間同士の助け合い、市民を巻き込む文化活動など多様な分野が有ることに驚かされる。 そして、そこに活動している人たちはいくつもの団体に参加し、スポーツも手掛け、趣味も多彩という、エネルギシュに動き回っているのが印象的。だからみんな元気で気持が良い。 私自身もつい何年か前までは寄る年波に勝てず、駅の階段を駆け上がるだけでも息切れしていたが、鎌倉風致保存会での炎天下の草刈りなどで次第に体力がつき、最近では一時に比べ見違えるようになった女房殿が言う。 ボランティア活動は人のために何らかのお手伝いをすると言う一面が多いが、実は自分自身の肉体的・精神的な面への恩恵が一番であることを心しておくべきである。 間違っても俺は人のために良いことをやってあげているとの気持を言い過ぎる事は慎むのが礼儀と考える。そんな元気の効用を記載した記事をご覧あれ。。。

毎日新聞1月9日から
inserted by FC2 system