月光仮面のおじさんの市民活動奮戦記

市民活動と言うと、クレームばかりを言う嫌な市民を思う人もいるだろう。
しかし、それは昔の話で老人会の形を変えたものとなって、どなたも素晴らしい人たちばかりである。
私は鎌倉の市民では無いが、活動の拠点が鎌倉だった経緯より、鎌倉での参加が多い。
聞くところによると、定年後に行き場所が無く、伴侶が困っているとの話を再三聞くが、 私自身はそんなことにはならないのが幸運と言えるだろう。
「小さな親切、大きなお世話」とならぬよう自戒し、今後とも参加することを志したい。


小和田地区まちぢから協議会

まちぢからニュース第50号作成苦闘記(3)

2021年6月7日
悔しいかなここで投げ出すこともできない。
ついては茅ヶ崎市役所の我が小和田地区まちぢから協議会担当者に泣きついてみることとした。
担当者はまだ新人の女性だったが、事情もよく判り課内にあるソフトでトライアルしてくれるとの優しい返事(日頃、親しくしていて良かった!)
結果、無事A4・4枚のパワーポイント画面はA3の2枚に編集されたPDFデータとなって送り返されたのだった、

ここまでくれば初めてプリントパック社の注文画面は、何事もなかったように うまく入力を完成、そして代金をコンビニへ払い込みに行き、無事注文業務が完了した。
おそらくやり慣れた方なら、この場合はこのような原稿とその後のチェックポイント、データの前加工など、一連の工程を見知っているのでスラスラできるのだが、素人が良く判らないまま原稿だけを入れ込むとチェックポイントをうまく通過できないことを痛いほど思い知った。
オンライン編集は事情に精通してこそ、安価で作成ができるのであろう。

本来、数日もあれば印刷がオンラインでできる時代に、なんと納入まで10日以上も苦闘し続けたわが身の実力を嘆きつつも、やはり“餅は餅屋”なのだと自戒が先に立つ奮戦記であった。

まちぢからニュース第50号・2ページ

小和田地区まちぢから協議会

まちぢからニュース第50号作成苦闘記(2)

2021年6月6日
気を取り直して再び挑戦。
そこで休日でも相談ができるプリントパック社に改めてトライしてみた。
ここは現金入金が条件ではないので、パソコンでのデータ入力まではスラスラたどり着いたのであるが、入力したPDFデータにエラーが発生するとパソコンから返事が来る。
それは使っているフォントが印刷業者のフォント一覧には無いとのメッセージ。
当方としてはデータに間違いがないと思っているのだが、どこかでそれらしきコメントを昔印刷業者とのやり取りで聞いたことがあった。
改めて文面の一字一字のフォントを確認すること半日間、やっと英語の1単語のフォント違うことが判明。
更にはほかの原稿でも写真の説明文のみ、フォント指定がなされていなかったことが判った。
この原稿はこのような印刷業務にまで精通した方の原稿だったのである。

やれうれしやとばかり、これでいよいよ大丈夫と思いきやA4の4枚画面からA3の裏表の二つ折り誌面に構成するのは相手側では自動的に行ってくれなかったのであった。
これが判るまでパソコン画面とにらみっこで、どうも入力データを当方で作り直し、A4・2枚からA3・1枚への組み換えが必要らしいとぼんやり判ってきた。
必死になるとは恐ろしいもので、判らないながらもA4のPDFデータ2枚をA3の1枚に横並びさせるPDF結合作業を試みたのであるが、技術が未熟でA4データの縦並びはできても、どうしても横並び画面とはならず、ついにここでお手上げ状態となってしまった。
ここで土日の休日は散々たる結果に終わってしまった。
嗚呼・・・・・

まちぢからニュース第50号・3ページ

小和田地区まちぢから協議会

まちぢからニュース第50号作成苦闘記(1)

2021年6月5日
もう7年近くになろうか。
我が小和田地区まちぢから協議会の会報誌を広報担当としてふた月に1回発行し続け、この6月度の発行にて第50号を迎えた。
協議会の本部機能として、本部の活動を知らせることが目的と、A4の片面仕様で各部会の報告などまことにつまらない記事となり、よってもって各自治会内の回覧形式で白黒片面印刷と細々と発行していた。(配布数500部)
最近になって協議会の中の部会活動も活発となり、地元に皆様にも知らせることができる充実した内容になってきたので、この50号ではA4の4ページとしてカラー印刷の地域全戸配布と意気込んだのである。(配布数5500部)

原稿は各部会からの報告もあり、パワーポイントにてA4の4枚それぞれが揃った。
さてこれからネット印刷の申し込みをしようとパソコンに向かうと、運悪くこの日は業者が休みの土曜であり、ラクスルさん(業者さん)にトライしても、相談ができない状態の悪条件。
このパソコンによる注文は最初に用紙の大きさと印刷数量が定まった段階で、事前入金が条件だから、まずはコンビニに現金を振り込みに行く。
次にいろいろな項目を入れなければならないのだが、配送先の郵便番号を入れる必要があり、自宅ではないためこれだけでも調べるため自宅内をかけまわると何とも情けなさが先に立つ。
(何とももどかしいが)パソコンは入れるべき項目がきちっと入力出来てからでないと次に進めないのだ。
そして、やっとやっとここで原稿入力にたどり着いたわけだが、どうにもA4のPDFデータ入力が入っていかない。 いろいろ入れ直してみたが、どうにもいうことを聞かず、そして相談先も見つからず、悪戦苦闘の末ついに注文をキャンセルすることとした。
この間半日以上パソコンの前で頭を抱え、しかもコンビニまで走り、現金を入金しての大騒ぎをしての結果だったのである。
当方のぐったり来たのはいたしかたないといっても相手が悪いわけでもない。
わが家の女房殿は「あなた、大丈夫」と心配そうに声をかける。

まちぢからニュース第50号。表紙

辻堂西口YU−ZUルーム

再起不能か、YU−ZUルーム

2020年11月2日
何とかYU−ZUルームの再開を目指し、10月の28,29,30日の三日間に貸室利用の申し込みを募った。
申し込みは過去利用の多かった団体に絞り、個別の案内状を出す形でお知らせしたのだが、結果は3日間で3団体の申し込みとなり、いずれも身内に近い方々が来ただけだった。
コロナ対応のため、収容人数が減り、また激しい運動などはできないなど、活動自身に制限も出ていることも大きく影響はあるのだろう。
月1回開催される管理部会では、何とか全面開館を目指し、コロナ対策を取ってでも利用を進めたいとの意向を提案するのだが、もし開けてコロナ患者が出たらどうするのかとの慎重論の壁に最終結果が出ずにここまで来ている。
他の公共施設が7月からは活動再開の状況で、団体活動を計画していた団体は おおかた他施設への移行がなされたのであろうか。

身内の論理と外から考える評価は違いのであろう。
なにかあったらどうするのかとおびえる管理者に同情ばかりしてはいられない。
コロナの環境はどこも同じ環境下なのである。
そんな人たちに引きずられるなら、どうぞご勝手にと感じられたのであろう。
現場でそんなイラつきに身をもって感じているオバチャン連は、やり場のない怒りの矛先を抱え、悶々とする日々が続いている。

弘法大師もマスク着用(茅ヶ崎・浄見寺境内)

辻堂西口YU−ZUルーム

YU−ZUルームの理事会開催

2020年8月23日
コロナ騒ぎで開催が先送りされていたYU−ZUルームの理事会が今期初めて開催された。
折しも理事長の選挙があり、旧副理事長が代わって選任されその報告を主とした理事会であった。
新理事長はこのコロナ騒ぎでボランティアさんたちに頼った運営では、8月現在の厳しい状況下で安心して運営が出来る環境ではなく、当面閉館を続けるとの方針を話した。
理事の中から、地元の自治会や近隣のマンションの総会もこのYU−ZUルームを使うことが出来ず、致し方なく別会場を探せざるを得ない現状を考え、このような自治会や社協などには特別に門戸を開くべきと提案した。
しかしながら新理事長はもしこの施設からコロナ騒ぎが発生したら、責任が問われるため使用はできないと答えていた。

確かにどのような施設であろうが開館のリスクは存在する。
だから開けないというのでは地域の連携に穴が開く。
女性の理事さんの数人に今まで併設されたカフェスペースを再開できないかと聞くと、そんなことをしたら人が寄ってきて密になってしまうではないかと咎められてしまった。
と言うことは「人が集まる行為は無理なんですか」と聞くと「その通り」と答えるのだった。
会議後、旧理事長はこんな議論ばかりが続き、この場を快く提供いただいた関電不動産の方々に申し訳ないと頭を抱える。
地域の連携のためにと作られたYU−ZUルームはコロナ騒ぎの影響で挫折・沈没してしまったようにも見える。
アクセルとブレーキの利かせ具合に正解は無いのだろう。
嫌な理事会となってしまったのが悲しい。

暑さにも負けないニチニチ草(羨ましい!!)

辻堂西口YU−ZUルーム

コロナ騒ぎ余波

2020年7月15日
開設2年を順調に推移した「辻堂西口YU−ZUルーム」は他の公共施設が閉館したようにコロナ騒ぎで一時休館に追い込まれ、この6月地域の公営施設が再開された期に今後の開館日程が検討されだした。
この施設は新設マンションの周辺設備として、市側に寄贈されたものを地元自治会にて無償にて借り受けたものである。
また、同時に隣接して公園が整備され、これも地元自治会にて草刈りなどが行われている。
地域のコミュニティー施設として行政からの金銭的な援助を受けず、近隣住民の手で運営が継続してきた背景にはYU−ZUルームの受付事務、清掃、カフェ運営が無償ボランティアにて行われた結果、維持費がほとんどかからない仕組みが大きな特徴である。

このコロナ騒ぎでYU−ZUルームのトイレ清掃を行っている地元のおばさん連から、不特定市民が使うトイレで感染が移ったらどうするのかと異議が出始め、怖くて清掃作業を継続できないと再開が見通せない思わぬ展開となった。
ついては再開に際し、利用者を顔に見えるYU−ZUルームの利用者に限り、隣接する公園の利用者には使用を許可しないこととしようと結論づけた。
しかしながら公園にはトイレが置かれていないことや、利用者の多くが近隣の親子連れであり、それはあまりにも不親切なのではと異論も出始めた。
無償のボランティアさんに頼る今の体制では、何とか我慢してトイレ清掃を継続してほしいとの強要が出来ないのである。
この機に外部の清掃業者に委託したらとの提案も出て、みんなのボランティアさんの協力でここまで進めてきた運営方針が大きな曲がり角に差し掛かった。
その結果、YU−ZUルームは今だ開館できない状態が続いている。

苦悩するYU−ZUルーム

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉での大役を終えた

2020年6月7日
6月5日の新旧理事引継ぎ会議により、長年続けてきた鎌倉NPOセンターの理事を終えることとなった。
当日は今年から2年間を担う新理事の顔合わせと理事長の選任が行われ、その後旧理事から新理事に対するメッセージが語られ、最後に旧理事に花束が渡された。
こんな花束をもらったのは現役時代の退社時以来の久しぶりの出来事であった。

わざわざ遠い茅ヶ崎から鎌倉の市民活動に手を染め、もう15年以上にもなるが、 とても市民力の高い鎌倉は、行政がいろいろ手を差し出さなくても、自分たちでさっさと団体を作り自主的に活動を行っている。
それを担うリーダーは著名な文化人であったり、ジャーナリストだったりするが、ごくごく普通のおじさんおばさんも負けず劣らず元気なのでありました。
それをコーディネイトする市民活動の先頭に立って、当方も長く活動してきたが、そこで共にする人達もことのほか個性が強く、間違いなく自由人でもあった。
自由闊達とは良いことなのだろうが、組織運営の面からは良識の府とはいかず、思いもよらないことばかりが起こってくる。
“そんなの在り”と絶句する場面も多々あった。
当方もその自由人の一人であったが、長い年月を経て丸く丸くなってきたようで、昨今は理事間の調整役に収まってきた。
我が女房殿は「貴方でもそんなことを言う心境になったのね」と驚く始末。
それなりに成長してきたということだろうか。

とりあえず、肩の荷を下ろしてしばらくは穏やかな時間を過ごしていきたい。
ゆっくりと渦中の解決役から覚めていった後に、沸き上がる思いなど書いていけたらと思う。

あじさい咲き出す

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉さくらの講演会に出席

2019年4月3日
長年お世話になっている「かまくら桜の会」から春の講演会のお知らせが入った。
場所は大船植物園内のホールを使って鎌倉の桜と京都の桜のつながりをお話されるという。
まさに今年の桜満開の時期ともぴったり重なり、目で見て講義で内容を知らしめるという手法で説得力は抜群の効果。
その鎌倉さくらとは遠い室町時代に鎌倉の材木座近くの桐ヶ谷にて咲いていた 八重桜を遠く京都に持ち込み、御所に植えたのが起源とか。
その前までは花と言えば梅の花だったものを、これを機に右今の桜として御所に定着する契機になったと話す。

その別名桐ヶ谷桜は大船植物園の最奥に、まさに咲き始めの初々しい姿で咲いていた。
八重咲で、咲き始めはピンク色がはっきりしていてそれからうす紅色に変わっていくように見えたのですが、日本人好みのほんのりと紅を指す花びらは、その後のソメイヨシノの白さとは別格の優雅ささえ感じられる。
これぞ雅の世界なのかもしれません。
講演会では鎌倉での沢山の知り合いと顔を合わせ、まるで同窓会にもなってしまいました。
残念ながら場所柄お酒を揃えて大騒ぎとならなかったのが、硬派の講演会の良いところでしょうか。

咲き始めの桐ヶ谷桜

つぼみのピンクが印象的

鎌倉市市民活動センター運営会議

玉縄桜に再会

2019年3月5日
平塚湘南平の山裾に玉縄桜を大船の仲間と植えに行ったのは、もう7,8年以上前のことになろうか。
この場所は進和学園という障がい者施設で、その生徒さんがパンを焼いたり、牛乳パックを再利用してはがきを作る姿を見て、心に打たれた記憶がある。
植樹は大船から10人程度が現地の乗りつけ、作業所の横に10本ばかりの幼木を植え込んだ。
その斜面はイノシシが穴を掘りに来るので、土がむき出しになったところもあり、雑草の茂る北向きの傾斜地はけっして足場が良くはなかったが、懸命に穴を掘ったことが鮮明に思い出される。
苗木の大きさは1メートル強で花が咲くには数年かかると言われた。

久しぶりに咲きそろった玉縄桜は、同じ時期に咲く濃いピンク色の河津桜とは違い、桜色の淡い姿はソメイヨシノの系列でこれが本来のさくらの色でもあろう。 どちらかというと樹勢も頼りなさげに、もう数年先からが見てくれも立派になるのかな。
おい、がんばれと声をかけたくなる少年・少女の姿に妙に不思議な感銘を覚えた。
残念ながら大船の桜育成の仲間たちはその後会が解散してしまい、今回の報告はその中のリーダーに写真を送った。
その返事には植えた人はいなくなっても桜の木が残ることになった。いいことをしたと書いてあった。
これから何年かしたら素晴らしい成木となって学園の生徒さんが楽しんでくれるだろう。

記念の名札が残っていました

横1列の勇姿です

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター20周年記念パーティーを終えて

2018年12月1日
この20周年プロジェクトは昨年の秋から始まり、この記念パーティーによって全事業を終了した。
記念パーティーには鎌倉市内の市民活動団体関係者160名を超える出席者となり、鎌倉パークホテルの宴会場は満席の盛況で開催された。
それにしても日頃活動している方々がこれほど多く居ることに、改めて驚いているのはプロジェクトメンバーではないかと思われる。
それはメンバーの多くは実際に市民活動を行っている方が少なく、現場での経験が無い方ばかりだったのである。
市長からは鎌倉同人会の例を出し、街を良くしていこうとの気概がこの地鎌倉では特別強く、その伝統が今でも長く引き継がれていると話された。

この鎌倉は市民活動が特別活発な地域と言われているが、今回の登録団体メンバーの方々を見るにつけ、その思いを強く印象付けた。
そして時代が少子高齢化の中で高齢者の生きがいづくりに傾きかけている市民活動をまっとうな筋道に戻せることに強い自信を持った。

20周年記念パーティープログラム

鎌倉市市民活動センター運営会議

それが鎌倉だ

2018年11月5日
次期指定管理の応募は今回初めて競合団体が現れた。これは我が運営会議が発足以来の出来事である。
それを受けての運営会議の理事会ではプレゼンの内容精査が連日行われた。長年、鎌倉NPOセンターの運営を行ってきた我々は、どこに力点を置いて話すべきかも焦点が定まらない。
また、大幅な理事の変遷もあり、確たる運営方針も見直す機会もなかった不運もあった。
結論として、長年の実績を核にプレゼン内容を組み立てたのであった。
競合団体は鎌倉市内でも元気のあるIT関連を得意とするNPO団体。
ちょっと強豪の相手に我が理事会も戦々恐々であった。
プレゼンは運営会議から10分、そして審査員の質問が5分程度で、大きな問題もなく順調に審査を終えた。

審査結果の内示は11月1日に市の担当課から「合格」との連絡が入ったのであった。
結果を待つ長い期間に、相手側のプレゼンテーターの中に我が運営会議の旧理事長が居たとの報告が入ったのである。
それはあり得ないだろうと理事間では話されたが、旧理事長の今までを想うと モラルの一言では片付けられない執念を感じ続けていたのである。
旧理事長は事務局長としてNPOセンターの運営に長くかかわり“我が鎌倉の市民活動は私が支え続けてきた”との強い自負があったことは我が運営会議の多くの人が認めていた。
また、行動力もあり、多くの団体関係者からも慕われてきた実績もある。
それがゆえに長年すべての運営を彼女一人に任されてきたのであろう。
その結果、彼女自身がすべてを決め、理事会という組織にマネジメントが成り立たなくなってきた。
結果、そろそろ次世代のリーダーに任せたらとの議論で勇退を迫られたのであった。
彼女はそれをバネにして理事長として立候補し、2年の期間を思いのまま運営の主導権を握り、残念ながら運営会議を混乱の中におとしめた末、理事長職を去ったのであった。

見方によっては、逆恨みともとれる戦国時代の戦いさながらの下克上。
そんな中での我が運営会議「合格」の報告に理事一同は胸を撫でおろしたのは当然である。

ざる菊も今年はちょっと傷んでいました(足柄にて)

鎌倉市市民活動センター運営会議

次期指定管理に応募

2018年9月16日
我が鎌倉NPOセンターも次の指定管理応募の時期を迎えた。
開設以来20年、当初立ち上げに携わった方々は卒業し、すっかり運営メンバーが入れ替わった。
想いを持って意欲的に市民活動を引っ張って行こうとの開設当初の高揚感が次第に薄れていき、残念ながらただの施設管理団体になりつつあるのが悔しい。

折しも山口の瀬戸内にある小島で2歳の少年が行方不明となり、近所の方々や 消防・警察が探し続けたが一向に見つけられず、国東から駆け付けたボランティアのおじさんがあっという間にその坊やを見つけ話題になった。
そのおじさんは65歳で家業の魚屋さんを廃業し、その後は今まで世の中の方々に世話になったので、今では少しでもその恩返しをしたいと思って、この坊やの捜索活動に参加したと淡々と語っていた。

当方もそんな大それた気持ちは無いものの、市民活動の最大の心意気は「世の中の人の役に立ちたい」という根源的な意思を持っていることなのだろう。
その象徴が我が鎌倉のNPOセンターであり、参加団体の方々の多様な活動に驚くばかりである。
近隣地域の市民活動センターが生涯学習センターとの区分けが無くなり、市民のいきいきと活動する場であれば、なんでもOKととられる施設に変容しつつある現状を見るにつけ、鎌倉の市民力に尊敬さえ感じるこの頃である。

栗のイガも大きくなりました

鎌倉市市民活動センター運営会議

3回目の理事に就任

2018年6月8日
このたび、鎌倉NPOセンターの理事に立候補し、理事会にて副理事長に選任された。
実は今回の理事選出はなり手が現れず、当方辻堂でのボランティア活動やまちぢから協議会と言う町内会活動に明け暮れていた中、思い切って再選を申し出たのだった。
理事は5名で現実に市民活動の経験者はそのうちの3名、現実を見据えた施策実行部隊となったのはほっと一息といったところ。
機関紙に出す、就任あいさつ文は以下の通り。

センターが出来て20年、市民活動センターとは少しでも地域のために役立ちたいとの想いを持った市民のため、鎌倉市役所の敷地内に無料で使用できる会議室を提供いただいたものです。
そこから全国でも有数な市民活動団体が醸成され、現在でも活発な活動が続いております。
我がセンターの誇るべき資産は、その市民活動団体と長年支援し続けたセンタースタッフの方々です。
運営会議の会員はその市民活動をサポートする会員として、多岐な視点から応援をすることが基本と思っています。
市内の現場で汗をかいている方々の想いを行政に伝える窓口として、改めてこの責務を果たしていきたいと考えます。

自宅の山あじさい色づく

辻堂西口YU−ZUルーム

YU−ZUルームが動き始めた

2018年4月14日
そして毎日の開館が始まった。
ボランティア要員でのコミュニティーカフェと事務スタッフで終日運営がどうなっていくのかと不安いっぱいの旅立ちだからである。
行ったら誰もいなかったとはならなかったし、複数のカフェスタッフの初々しい対応がうれしい状況にとりあえず無事出発となった。
連日おひさまいっぱいの晴天で、マンション住民と思われる子供連れがYU−ZUルームと隣接する公園に溢れかえっている。
これぞ、当初から目標でもあった脱老人コミュニティセンターが成り立つ予感できる。
地域住民で支える施設とのコンセプトは素晴らしいのだが、地域公民館を予感させるアットホームな窓口対応。
一般社団法人とはどうしても思えないおばちゃん方の柔らかな管理姿勢がどこまで通じていくかの心配さえ思える。
「なるようにしかならない」と卓見さえ思うこの頃である。

YU−ZUルーム横の公園は子供たちでいっぱい

辻堂西口YU−ZUルーム

ついにこの日を迎える

2018年4月1日
平成30年4月1日、ついに辻堂西口にできた大型マンションに付随するコミュニティセンターと公園緑地が完成し、その開所式が行われた。
基幹施設「辻堂西口YU−ZUルーム」はマンション住民と地元住民の交流を目的としたコミュニティセンターではあるが、長年自治会との調整でコミュニティカフェとキッチンスタジオを設置したちょっと変わった構成でもある。
開所式では地元まちぢから協議会の新倉会長が万感の思いを込めて、この一帯が関東特殊鋼や松下電池の立ち並ぶ工場地帯から、素晴らしいマンションと公園が取り囲む住宅空間に変質したことに心から喜んでおられた。
午後からは新設された公園で賑やかな「辻堂西口未来フェスティバル」と銘打ち、地元自治会の模擬店の出店やドクターイエローといわれるミニ機関車の運転で、終日人並みの途絶えない賑やかな催事が花を添えた。
エンディングはすぐ傍の自転車屋さんの女の子、でも今は小桜舞子さんと命名した有名演歌歌手のワンマンショウで幕を閉じた。
この地域の素晴らしい変質に何よりも喜んでいるのは長年日陰に置かれた地元住民であろう。
午後のステージで冒頭あいさつした新倉会長がベートーベンの歓喜の歌を歌われたのは、会長自身の心の底からあふれ出た素直な感情であったのだろう。
全国でも名だたる有名地域となったこの辻堂駅一帯がこれを機に大きく変容していくであろうと予感する一日であった。

YU−ZUルーム開所式

未来フェスティバル光景

辻堂西口YU−ZUルーム

ボランティア要員だけで会館運用を目指す

2018年2月8日
この施設は市側からの金額的な支援が受けられず、人件費の支払いができないと決めてすべてボランティア要員で運営することで準備を進められている。
特にコミュニティカフェは喫茶店の運営だから、開館される日からは毎日最低2名程度の人員確保が望まれる。
ボランティアでこのカフェ運営にご協力するとの温かいお言葉をいただき、その方々にできる範囲で応援をいただけるとして、果たして会館のOPEN全日程を埋められるのかどうかに不安が残る。
この2月にはカフェ要員の研修会が2回開催され、その参加者は10名を超えるが、大半が主婦業との兼業で、「なにがあってもカフェに出てきます」とは過度な望みなのであろう。
ボランティアとは難しい言葉である。協力できる時間はいくらでも協力しますと意志は、時によっては自分を犠牲にしなければならないとの覚悟が強制できないからである。
いよいよ開館が近づき、担当理事の焦りがひしひしと伝わってくる。
一体感だけが確実に増してくるが、どうなるであろうか。

柔道の練習もできる特別な畳を敷いた和室

辻堂西口YU−ZUルーム

いよいよYU−ZUルームの建物移管が始まる。

2018年1月31日
思えば、ここまでまちぢから協議会のYU−ZUルーム部会は月2回のベースで会議を続けてきた。そしてこの58回の開催でいよいよその建物自身内の会議室利用に漕ぎつけてのだった。2年を超える準備は何を物語るのであろうか。
それは、この建物自身のコンセプトの危うさなのであろう。
そもそもは、辻堂西口の松下電池工場跡地の再開発に際し、地元自治会との協議から、計画されるマンション跡地に地元住民が利用できるコミュニティ施設をデベロッパ側で作ると決まったことに端を発する。

よって、コミュニティ施設を建設後、市に一旦寄付することとし、市の所有物とすることが決まった。その後その施設を地元自治会(社団法人 辻堂西口YU−ZUルーム)に無償で貸与すること。
そのための一連の手続きは市議会の議決を経なければならないが、地元自治会に貸与する理由をはっきりさせる必要があった。
市は寄付された建物を公平性の観点から特定の団体に貸与することはできないので、貸与先の条件として地元の公益活動を推進する団体に貸し付けると定義し、その活動を行うと我々の団体(社団法人 辻堂西口YU−ZUルーム)に貸与するとして市の議決が通った。

市側から言えば、利用目的限定の建物使用が無償貸し付けの条件だったのである。

カギ引き渡しの説明

鎌倉文化人会議

鎌倉で桜植樹に立ち会う

2017年10月5日
長年目をかけてくださる「日本さくらの会」の高柳さんのご厚意で、新設なった鎌倉文化交流館での桜植樹イベントに参加した。
始めて訪れたこの館は鎌倉駅前から5分程度しか離れていないびっくりするほどの閑静な場所。そしてそこに広がる佇まいは往時の鎌倉を髣髴させる凛とした気品さえ感じるのです。
館の目の前は急傾斜の崖で取り囲まれ、庭は寺社のお庭から更に飾り物を取り払った自然そのもの。でも手は加えられているはずだが少しも嫌味がない。これこそ禅のめざすものの世界でしょうか。

イベントは松尾市長や画家の大津英敏さん、NHK元副会長・今井義典さん、茶道の山田宗偏さんご夫婦など名士が出席し、桐が谷桜2本を植樹。当方もどさくさにまぎれ、土を盛らさせていただきました。
現地で逢った、旧世界遺産推進担当課の中島さんとの再会が昔を思い出しました。

毎日新聞・神奈川版より

鎌倉市市民活動センター運営会議

どう生かすか「市民活動推進条例」

2017年8月22日
8月19日に行われた「かまくら市民活動フェスティバル」では上記テーマで市の担当課を含め、5名のパネリストは参加し、シンポジウムが行われた。
この市民活動推進条例は近隣の自治体ではすでに10年以上前に制定され、鎌倉では遅すぎるとは言え、この秋に施行を目指すとの説明であった。
我が運営会議内でも、他地域では当然運用がなされ、市民活動の重要性を認識する裏付けとして重要視されているこの条例を一刻も早く制定すべきとの議論があったことも承知している。

しかし、現実的な施策の裏付けや予算計上と関係なく、みんなで市民活動を盛り上げていきましょうとの理念だけの条例が、現実に市民活動を行っている団体にどのような応援となり、また、我々のような市民活動を支援することを活動の中心に置くNPOセンターにとってどのような支援ができるのかは、残念ながらまったく判らなかった。
当方が参加する鎌倉風致保存会でも、このような条例が無いことが活動に足かせになったこともなく、また鎌倉で活動する様々な方々からも条例の不足を言われたこともない。

近隣の市民活動推進センターは市民に市民活動を促進する機能を持ち、そのプロモーションをする必要性が高いが、鎌倉だけはほっておいても自主的な市民活動を起こす気風が強く、おそらく全国的にも珍しい都市なのである。
その中には政治的な活動を行う団体もあり、 その是非も絡み、むしろもう少し、自制が必要と感じることもある。
まさに最近の鎌倉NPOセンターはその中で翻弄されつつあるようにさえ感じるこの頃である。
今回のシンポジウムを聞きながら、実際の市民活動の現場からの論戦ではなく、 頭だけで考える素人集団の議論としか見えなかったのが悲しい。
私の危機感はこの条例だけではなく、わが運営会議がどこか現場とは遊離した論点でしか考えられない集団になってしまったことである。
市民活動推進条例のシンポジウム
市民活動推進条例のシンポジウム

鎌倉市市民活動センター運営会議

定年後に楽しい人生を送る人、惨めに過ごす人

2017年8月21日
以下ネットでの投稿からの引用である。
人間はいくつかの根源的な欲求を抱いているが、そのうちの一つに「世のため人のために役に立ちたい」という欲求がある。私はこれを貢献欲求と呼んでいる。
人はこの貢献欲求を満たすことで、自分の存在意義を感じるという性質を持っている。貢献欲求は仕事を通じて満たすことができるが、仕事一筋の人生を送ってきた人は定年退職後、貢献欲求が満たされずに苦しむケースが多い。

もし定年後、運よく再就職ができたとして、大手のブランドの庇護のもとに働いていた人が無名の企業の名刺を渡した時の相手の反応の変化に屈辱感を味わい、自分の本当の信用がどの程度のものだったのかを思い知らされる。
 それでもへこたれることなく、そこから信用を積み上げていくことが求められる。また、「元〇〇株式会社の部長」のような、元いた会社の肩書きは本人が考えているほど武器にはならない。
一方で、大手から中小企業へ転職をし、採用した企業からも喜ばれている事例もある。
ある方は中小企業へと転職した際に、役職をつけてもらうのはフルタイムで工場に入って新入社員と一緒になって働いて、現場のことが分かってからでいいですと申し出て、平社員と同じ仕事から始めているという。
以上ネットの文より

我がNPOセンターも、ここにきて新しい正会員が入って、活発な活動を始めていただいているが、中間支援組織ゆえに上記のような屈辱感を味わう機会が無いのだが、昔の栄華をまずは忘れて「現場で汗をかく」ことを第一にして信頼を得ていくことが大事な視点であろう。
盛況だった市民活動フェスティバル
盛況だった市民活動フェスティバル

茅ケ崎市「小和田地区まちぢから協議会」

YU−ZUルームをどのように使うべきか

2017年8月18日
来年開館を目指す「辻堂西口YU−ZUルーム」での参加団体向け説明会が何回か開かれ、なんとなくその全容が分かってきた。
運営側の意図はこの施設を地域連携の拠点としてほしいと考えてきたが、参加希望の団体は囲碁将棋をやりたいとか、お茶を教えたいとか、どちらかというと生涯学習系統の意向が強く感じられる。
当初から明確な意図を持って参加した団体は「ミモザ」という子育て支援をポリシーとした団体と、同じく「斎藤さんち」という地域で昼食提供をボランティアの方々が行う団体であった。

地域内には小和田コミュニティセンターや本宿自治会館が公共的な施設があり、そこでの施設利用は地元住民が楽しむ設備として、カラオケ設備が備わっているのは致し方あるまい。
また、福祉の拠点としてのボランティアセンターには健康マージャンの教室がある。
公益的な利用を優先したいという市の意向を意識して、どちらかというと市民活動サポートセンターを意図したが、周辺の状況より地域住民が楽しむ活動のどこが悪いのかとの反発もある。
だからカラオケを設置しろとの意見やマージャンをやりたいなどの意見もでるありさま。

特に高齢化が進むこの時代、老人に生きがいを持たす事業が善と考えられるときに、遊びそれ自体が公益事業だとの流れを食い止めることは難しい。
何とかカラオケ設備の設置は拒否できたが大波に翻弄される我々なのである。
全館木目模様の暖かな雰囲気
全館木目模様の暖かな雰囲気

茅ケ崎市「小和田地区まちぢから協議会」

YU−ZUルームの建屋完成

2017年8月17日
来年4月オープン予定の「辻堂西口YU−ZUルーム」の建屋が出来上がり、しばらくマンション建設のための工事事務所となるとの理由で、室内内覧会が我がYU−ZUルーム検討チームを対象に開かれた。
つい数か月前骨組みだけの内部は見たものの、今回は木目模様で作られた床から天井までのパーティションを見ると、その美しさにうれしさが込み上げてくる。
さあ、いよいよこの施設の最終検討段階になることに、実感が沸いてきた。

運営面での危惧は、デベロッパーから市に寄付されたとしても、その後の運営は地元自身で行わなければならないこと。そして運営に関して市側からの資金的な援助は期待できないことを前提に話が進められている。
よって、月々の運営費用の大部分を占める人件費はボランティアスタッフで充足する予定で、そのボランティアスタッフをどう集められるかが今の最大課題でもある。
私はといえば、内部に作られるカフェチームに男性一人組み込まれた関係で、 カフェのお手伝いやランチを作ってくれる応援者はそれなりに人数が揃ってくれる実感がある。それはカフェチームの各人が現場でのボランティア要員としてフォローするとの意思表示がなされているからだ。
ということでここまでなら安心しているのだが、その一方会議室予約や様々な現場での窓口相談に応じる事務スタッフや管内清掃作業など、現場で汗をかくボランティアさんがどこまで集められるかがちょっと不安。

今までの鎌倉で培った「地域のために何ができるか」との想いの実現に向けて、運営に協力できる幸せを大事にしてゆきたい。
建屋が完成したYU−ZUルーム
建屋が完成したYU−ZUルーム

鎌倉市市民活動センター運営会議

20周年記念事業

2017年8月16日
久しぶりの鎌倉での活動再開である。
来年「鎌倉NPOセンター」は開設20周年を迎える。 その記念行事を検討する委員会に参加することとした。
参加人員は新旧会員を入れ18名もの参加者が集結。
事務方からは20周年記念誌の発行、100万円のファンド資金の提示、記念パーティーの開催など、まさに大盤振る舞いの企画案が提案された。
当然記念行事であるから打ち上げ花火の華やかさは必要不可欠なのであろう。
しかしながら、すっかり委員会構成員が変わり、この数年の鎌倉NPOセンターの混乱を知らない方々が多く参加されていることに不安さえ感じる点が多い。
NPOセンターは残念ながらこの20年の経過で、熱い思いを抱きながら市民活動を継続できる方々がだんだん少なくなってきている現状を思い、先細りを危惧する声が多く聞かれる中、どう打開していくかの具体策が見いだせないことへの苛立ちが私の心に引っかかる。

そして時代環境が大きく変わり、行政に物申す市民の集団が必要とされた時代から、人口減少時代で行政側での余裕がなくなり、市民には地域のことは地域内で処理してほしいとの自己責任が求められる環境になったことへの認識が乏しいことに危機感を感じるからである。
とは言っても私の周りには市政の不満ばかり語る方々ばかりなのがさみしい。
ことによったら私自身がこの運営会議の一員として考え方や心情が会の意向とは違ってきているのかもしれないと不安さえ湧いてくる。
それは、旅立ちの時期が来たのではと思うこの頃である。
本覚寺での桜の植樹
鎌倉・本覚寺での桜の植樹

鎌倉風致保存会

私と鎌倉風致保存会

2016年11月17日
この6月長年の怠慢が原因で、脳梗塞を患い三ヶ月の入院生活を送ることとなった。
それなりに忙しく日々を過ごす中、いくつかの会議議事録を作り上げ、送信した直後、腰が定まらないと思った途端自宅で倒れ込んだ。
入院直後は良くなってもネコを撫でながら自宅でひなたぼっこがせいぜいかと覚悟したが、従来切れの良くない頭脳はそれなりに残り、右足右手はリハビリのおかげでなんとか戻りつつあるのは不幸中の幸いか。
と言っても草刈りガマを振り上げる緑のボランティアには当面参加が叶わないのが残念である。
思えば風致保存会への参加は、十数年前保存会事務局に事務手伝いをしたいと言って飛び込んだのが最初で、怪訝そうな小笠原さんらが幹事会で相談して みますと答えた。時期を待たず大佛次郎茶邸公開の際、とりあえず駆けつけると中から「来た来た」との声がかかり、そして会員活動に参加の道が開けた。
残念ながらその経験からどのような団体への参加も最初は勇気がいるものとの声は身を持って体験済みである。
その後は、若かったせいもあり自転車で茅ケ崎の自宅から江の島を見ながら緑のボランティアに毎週駆けつけた。思えば純粋な私だったのである。
近年はさすが鎌倉に自転車で駆け付ける元気はなくなり、また酷暑のせいもあって緑のボランティアはお休みがちとなったのは申し訳ない。

 もう10年は経とうか、市立二中で行われた中学校ボランティアで先頭に立って動き回っていた先輩の佐藤二朗さんに誘われ、大船での市民活動フェスティバルに参加。それが縁でNPOセンターの活動にもかかわるようになった。
さまざまな市民活動団体の活動を見ながら、情熱を持って想いを推進する姿は素晴らしい。こんなに次々に団体が立ち上がってくるのは鎌倉ならであろう。
しかしながら、情熱がほとばしる方々をまとめ上げるのは至難の業。何を決めるのにも議論百出でさっぱり動かない。
ちょっとしたもめ事に巻き込まれ悩む姿を見て、見かねた女房殿から「あなたは鎌倉市民では無いのだからそろそろ帰ってきたら」と暖かい助言さえ飛び出す。
その時期に地元自治会から役員になれとの暖かい手が差し伸べられた。
それは、近くの小川を埋め立てた公園で荒れ果てた花壇を整備していたからであった。自前で揃えた花ばなは費用を自治会に請求するでもなく、好きでやっていますからと話し、草取りにも精を出した。
緑のボランティアに行けない分だけ、せめて自分の気持ちを納めたかったのである。
この夏は傍に有る保育園横に大輪のヒマワリを植え、園児に喜ばれたとの知らせもいただいた。

自治会の活動は該当する地域住民から会費を集めて運営する関係上、活動したならば、なんらかの礼金が支給される仕組みとなったおり、鎌倉でさまざまな無償ボランティアに慣れた私には異文化の世界と感じられる。
でも通学路に立って、毎朝子どもたちの見守りを続けるおじさんら見ると、 行き交う子どもたちと親しげに話していて、それも楽しそうだ。
人さまざまに生きがいを持って日々を過ごす方々が多くいることに改めて目を見張らかされる。
昨今では著しく変容する辻堂駅前にデベロッパーと協力してコミュニティー施設を開設するプロジェクトに自治会として参加し、地域住民の更なる地域連携を目指し、立ち上げの準備に頭を悩ましている。

鎌倉風致保存会で培われた精神は、ボランティアは対価を求めず、また奢る気持ちを持たず粛々と活動すること。そしてこれらの結果として自分自身に静かな満足感が湧いてくることだろうか。
その上で、想いの異なる人たちとともに活動する場合は、良いことをやっているとの自負心が、ともすれば独善的な言動となり、人の意見を聞き入れない姿勢にも写ることをあると、自戒を含めて心すべきと思うようになった。
「あなたはいつも楽しそう」と言われるが、心の充実感をもたらすその源泉が風致保存会の活動であったことを誇りに思うこの頃である。
始まった紅葉
始まった紅葉

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(14)

2016年5月28日
今年度の会員総会は役員改選の時期となった。
2017年度の事業計画、会計報告および2018年事業計画、事業予算計画などは、ちょっと意地悪な質問などが寄せられたが、それなりに粛々として採決され承認された。
そして今回の総会の最大関心事である理事選挙が行われた。
今回は前理事が全員退任し、立候補者はすべて初めて理事となる会員ばかりで、6名の信任投票。この4年激しい権力闘争が繰り広げられ、理事会としてほとんど用をなさなかった反省から、立候補した方の中には全面的な指導体制の変更を公約する激しい意見の方も居る。
そんな雰囲気では、今まで理事会をリードしていた理事長近辺の方々からは、この数か月名指しで反対票をいれるようにとの指示が流れているとのうわさが跋扈する中、理事会の最低定員数5名の確保ができるのかどうかと会場では結果を待つ緊張感が漂う。
そして開票結果は6名全員の信任となった。しかしながらきわどい判定であったと報告される。(やっぱり色々工作が行われたんだな!) 総会終了後、近くで飲み会が行われたが、ともかく良かったと安心感が漂う。
この時期に更なる混乱に輪をかけることは避けたいとの会員が大人の対応をしたことが良かったとの結論で有る。

当方もこれで理事を退任。荷が下りた感がするが、焼け野原となった現在の運営会議を見ると再建の道はそんな簡単なものにはならないだろうと心配が先に立つ。これも未練なのだろうか。。。。
自宅のノコギリ草
自宅のノコギリ草

茅ケ崎市「小和田地区まちぢから協議会」

車いすに乗って歩道を歩いてみる

2016年5月12日
当方が所属する交通安全部会では5月12日に辻堂駅前から東小和田交差点を経て、小和田通りを赤羽根中学校校まで、車いすに乗り実際に歩く体験会を実施しました。
当日は辻堂西口に自治会の役員などを含め15名が集合し、赤松通りの左右歩道に分かれ車いすに乗りながら、歩道の危険個所を点検しました。
車いすに乗ると目線が下がることにより、傍を走る車はより近くに感じるのがとても印象的でした。同じように重心が低い乳母車などでもお母さん方はご心配で、車道と歩道の分離が大事と痛感しました。
びっくりしたのが歩道の左右の傾斜で、車いすの当人が落ちないように踏ん張らなければならないほどの急傾斜となっている場所が多く存在することに驚きました。
茅ケ崎でも辻堂駅に近いこの地域は長い期間をかけて順次整備を進めてきた、赤松通りや小和田通りは道幅や歩道の高さが様々で、普通の方にはそれほど感じない歩道の細かい段差が、車いすではひと際障害になることをが実感。
そして最後の難関・赤羽根中学校前の急坂は車いすを3人がかりで引っ張るようにしました。これは防災面からの検討項目ではあるが。災害時を考えると 必要な人員が揃えられるかが課題だと感じます。
車いすを使わなくても、赤羽根中学校下の交差点近くは、大型ダンプの通行も多く、道路整備の途中とはいえ、事故が起きないよう万全の対策が必要だと再確認。
まちづくりには多くの視点から考えるべきと改めて思った。
歩道もこんな急傾斜
歩道もこんな急傾斜
急坂は3人で車いすを引っ張る
急坂は3人で車いすを引っ張る

茅ケ崎市「小和田地区まちぢから協議会」

地鎮祭にお招きを受ける

2016年3月19日
辻堂駅そばに大規模マンションと付属コミュニケーション施設「辻堂西口YU−ZUルーム」建設がいよいよはじまることとなり、1年近くかけ更地整備が完了したこの3月18日に地鎮祭が行われた。
辻堂駅近くでは大規模商業施設「テラスモール湘南」が藤沢市に所属し、駅西口側の茅ケ崎市は取り残された形になっていた。そんな中パナソニックの電池工場跡地であった場所2万5千平方メートルに352戸の大規模マンションと いくつかの建物を建てることとなった。 このマンションを建築することの条件として、敷地内に公園とコミュニケーション施設を作ることが約束され、我々地元自治会で組織された「小和田地区まちぢから協議会」が地元の代表となり内容の検討を続けてきた。

地鎮祭もこのくらいの規模になると、殺伐とした空き地に100人以上が入る大型テントが設営され、建築に伴うそうそうたる社長様方が揃う本格的神事と相成った。
当方と言えば10年ぶりであろうか会社時代のビジネス用背広をたどたどしく着用し、地元代表の一員として神妙に参加させていただいた。
式を取り仕切る近所の熊野神社神主さんが今日ばかりは神々しく見える。 祝詞奏上や鍬入れなどテレビでしかみたことがない神事を神妙に見入るばかりである。最後にお酒をいただいて無事終了。

「さあ、これから始まるぞ」と改めて気を入れ直した私メでありました。
地鎮祭で関係者記念撮影
地鎮祭で関係者記念撮影

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(13)

2016年2月29日
いつまでも何もできないでは済まないのは当然。そんな中2月3日に市担当課との連絡調整会議が開かれた。
さて、「来季の準備はどのように進んでいますか」市側からの問いかけにと当方側の理事長は、すかさずスタッフの代表でもあるN事務局長に答えるようにと振るではないか。突然振られた事務局長は「と言われても」と戸惑うばかり。
そして理事長はまるで事務局長がだらしないと攻め続けたのだった。
そんな中、担当課は「予算を増やしてまで期待したのに」といら立ちを示し、スタッフを増やすとの約束はどうなったか、ホームページの大幅更新の計画はどうなっているのかと迫った。
ついては2月下旬までの来季の具体的行動を出すようと指示が出た。
そもそも市側のNPOセンターの改革をしてほしいとの要望に対し、スタッフを含み大幅な人事改革をすると考えた理事長側と、「そんな言われは無い」と反論するスタッフ側の対立で、政策論争などにはいたっていない現実をどうするかの議論が再発する形となった。
具体的施策を考えてからとの当方の意見など、感情論でまったく相手にされず、 ともかくスタッフを応募しようとの理事長側の強硬姿勢で、最重点項目をスタッフ増員に向けて動き出すこととなった。

前後の関係を知っていただくため下の文を参照ください:彼岸花咲く(2015年9月27日)
さくら草咲く
さくら草咲く

茅ケ崎市「小和田地区まちぢから協議会」

平成28年最初の新年会は

2016年1月5日
新年は茅ケ崎市長を迎えて、小和田地区まちぢから協議会の新年会が開催された。参加人員は30名近くとなり、見知った人ばかりだったがお正月にふさわしいにぎやかな会合となった。

想えば一昨年の秋に茅ケ崎市の施策として自治会を地区ごとに束ねた「まちぢから協議会」が立ちあがり、我々は辻堂駅西口の6自治会が集結して「小和田地区まちぢから協議会」が発足した。
その中で、昨年は9月の「市長と語る会」では自治会からの市への要望をまとめたプレゼンテーションを担当し、10月に行われた地域の防災訓練ではたまたま当番自治会であった関係で総合司会を仰せつかった。
この際、司会を赤羽根中学校の生徒さんにお願いしたのであるが、かわいい子供たちの放送に会場がなごみ、とても喜ばれたのは嬉しい。
終わったあとで、自治会幹部から「我が町内会の面目がたった」と語ったが、重責を果たしたことに安心した。

行政には行政の文化とやり方が有る。そして市民側で地域の縁を基本として自治会が有り、また共通な想いをつなげる市民活動団体が活動している。
それらの異なるベースを融合して、まちぢから協議会運営を進めるのには、長年鎌倉市と「世界遺産登録推進協議会」でやりあった苦悩が良い結果となってほしいものだ。
市長を囲み協議会委員集
市長を囲み協議会委員集合

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(12)

2015年12月31日
半年ばかりざわついていたNPOセンタースタッフ再雇用問題はこの12月理事会にて、一応の決着となった。
それは平成28年1月の「広報かまくら」にて広く市民より新規スタッフを応募するとの方向で、理事会検討がなされてきたが、監事よりスタッフの勤務を規定する就業規則に違反する行為であり、再雇用を保証できない新規採用はまかりならんとの勧告が出て白紙撤回に追い込まれた。

来年度のNPOセンター運営に関し、市側から指定管理者業務仕様書が従来と大幅に変更された経緯より、センター運営をこの際大幅に変えたいとの意向が 理事長から提起された。
それなりに理事会でも検討されてきたが、先行してセンタースタッフを対象にレポート提出を条件として再雇用試験を行うとの説明が理事長より行われた。
その説明はスタッフとの意見交換とはならず一方的な通告となったために、理事会に対する風当たりが強く理事の間でも賛否が分かれてもいた。

従来スタッフ採用は長年の風習で理事長が主導して、それを理事会が追認してきた。となれば辞めさせるのも同じようにできると確信していたのであろう。またそのようにしてきた経緯はある。
理事会でもお友達内閣と呼ばれる女性3名を抱え、いざ議決すれば理事長の意向を通せる体制でここまで運営してきた。
しかしながら、スタッフの生活がかかる全員の再雇用となれば充分なる検討が必要でもあろう。
たとえば今回は従来8時間労働が、同じことをしても昼食時間を除いた7.25時間と変更されるのである。
いただいた市からの予算では意欲ある若者を採用できないとの理由から、苦肉の策ではあるが、押し通すこととしてきた。

結果として機能したのは内部の規約・規定であった。そしてその番人でもある 監事の勧告であった。
議論は様々であろう。また何が正しいかも意見は分かれる。 長年の慣習がここまでのモラル低下を招いた。
理事の一人として責任を感じるこの頃である。
夏ミカン
夏ミカン

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(11)

2015年11月1日
どこか政治的な指向が働いたのではないかと思えたのは2012年の会員が集まる全体会議でのことだった。
その当時の執行部批判となったこの会に、突然見知らぬKさんが出席し、当時の事務局長擁護の意見をまくしたてるのであった。
Kさんはそこで提起された理事会体制に関する検討委員会にも引き続き出席し、理事会の傍聴をしたいと理事会への不信を意見として出す始末。
突如この検討委員会には今までめったに現れることのなかった鎌倉広町の森市民の会のOさん、Mさんから、次期理事となったAさん、Hさんなど運営会議メンバーにはなじみのない方ばかりで、取り立ててKさんが異色だったわけでは無い。
その後理事会は新体制となり1年近くたったころ、Kさんが会費を払っていないとスタッフから報告を受けた。
ついては、Kさんに連絡できるAさんを経由して会費の納入をお願いしたが、 当方との電話のやりとりは「ごめんなさい」との謝りのことばでは無く、むしろどうして払わなくてはならないのかとの一方的な釈明ばかりであった。
その後、Kさんは護憲運動の会の一員として個人としてではなく運営会議賛助団体の中で参加していると聞いたが、 それ以降は、まったく運営会議の会議には参加をしていない。
同時期に行われた事務局長擁護の署名でも中心的な役割を果たしたとも聞いた。
手なれた手法をみると、なにか大きな手が動いているように感じるのだが。。。。
青紫の菊
青紫の菊

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(10)

2015年10月17日
市民の善意を活動に広げる手伝いをするのがNPOセンターの大きな使命でもあろう。しかし、現実に見聞きすることは私の感覚とは大きく違っている。

2012年の5月に当方が理事になってからそんな時間が立っていない時期に登録団体が主催する講演会が開かれ、関係者として立ち会った。
それは鎌倉市福祉センターの2階で世界遺産登録の応援を目的に鎌倉幕府に関する講演会だったのである。
そこで受付に居て講演会の事務局をしている女性が、「ちょうど良いので教えてくれませんか」と私を呼び止める。
それはこの春、鎌倉NPOセンターに居るD理事長はとんでもない人で、その人を止めさせようとの署名が回ってきたので署名に協力したのだが、貴方は関係者だから、実情を教えてくれませんかと語るのだった。
彼女とは世界遺産登録を推進する団体の仲間で、深沢での緑地草刈りの際の仲間でもあったから、当方をある程度は信用していただける方でもあった。
私は理事長にそのようなことはありません、逆に人望のある方ですと釈明をしたのだが、そうですかと驚くばかりであった。

誰がどんな目的で署名活動をしたのかが良く判らないが、悪意さえ感じる署名活動によって、実質上理事会が追い詰められたのが実態だろう。
秋らしいホトトギスの花
秋らしいホトトギスの花

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(9)

2015年10月11日
岩田さんの理事会復帰に関しては理事会で議論は白熱した。
論点は2つ。
一つは運営会議としての意思を出して良いのもなのか?との議論で、理事の一部からは、運営会議側から理事を止めるべきとの指示が有ったのではないかと疑問が呈され、岩田さんは不承不承そのことを受けたのだと語り、そもそも運営会議がそのような意見を出すのがおかしいと提起した。
もう一つは運営会議としては「団体として岩田さんの支援をしない」と決めたのだから、(運営会議が支援していると)市民に誤解を与えないために副理事長という要職を離れるべきとの考えるのが当然で、運営会議から言われなくても自主的に退任すべきとの意見であった。

今改めて考えると一筋ならではいかない問題を絡んでいるが、大騒ぎの渦中にいると、激しい意見だけが繰り返される。
それでは、本人を呼んで意見を聴いてみようということとなり、次月理事会に結論を先送りすることとした。
ところが、その次回理事会に招聘した後、岩田さんから理事再復帰を白紙に戻すとの連絡が入った。この結果を受けて県へ理事退任の報告を行ったのである。
春買ったガーベラも再び咲く
春買ったガーベラも再び咲く

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(8)

2015年10月8日
市長選と言えども綺麗ごとばかりでは済まされない。
市議選で戦っている最中、当方は鎌倉宮でのあじさいの定例手入れに出かけた。これは毎月2回神社の山あじさいを手入れするボランティア活動なのである。
そこにいつも市議さんのNさんが参加している。 作業終了後みんなで昼飯を食べようと食堂に入った。食後の話題は市長選の候補者の話で盛り上がる。Nさんは自民党に所属し、みんなの党に近い松尾市長を積極的に応援が出来づらく、自民党としては自由投票とすることとしたと胸の内を語る。
その席で私にNPOセンターの理事長とA副理事長がN市議を訪れ、ぜひ岩田さんを応援してくれと話されたと語る。理由は松尾現市長を積極的に支持しないのなら、対抗馬の岩田さんを支援してほしいとの口上であった。
自民党としてはさすがそこまでは考えませんと断ったと話すが、A副理事長とは今までも交流もあり、知らない仲では無いことから気軽に話をすることができると語る。
おそらく理事長には密かな行動だろうが、運営会議理事長の公職にあることを判っての話しで、A副理事長の後ろ盾があっての想いなのであろうか。 当方は唖然とするばかりだった。
ガザニア秋に再び咲く
ガザニア秋に再び咲く

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(7)

2015年10月6日
理事の中では岩田氏が鎌倉NPOセンターで活動していることを上手に使われたのではとの感想がぬぐい去れなかった。
本来、長年市民活動サークルに参加し、日常のボランティア活動に精を出し、 多くの市民からその存在が認められているのであれば、鎌倉NPOセンターとしても大いに応援をすべきかもしれない。
岩田氏は県が推進している認定NPO法人の推進に関与され、鎌倉のNPOセンターをその対象に働きかけた実績を引っ提げ、理事に選出された経緯がある。
よって、鎌倉での実績は2年にも満たない。センターにとっては突然の外人部隊だったのである。
しかも市長選で掲げた公約の中には東日本大震災で問題化した、原子力発電所の再稼働反対を前面に出し市長選を戦った。

鎌倉NPOセンターは市からの指定管理者として選任を受け、現在のその受託を行っている最中である。よって市からはこのセンターの運営費用として年間約900万円の受託費用をいただいている。
また、認定NPO法人として認定された条件の中には「特定の公職の候補者若しくは公職にある者又は政党を推進し、支持し、又はこれに反対すること」は行ってはならないと規定されている。

そんな環境下では選挙戦に入る時点で、とりあえず理事を辞任しておくことが常識と当方は考える。
柿色づく
柿色づく

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(6)

2015年10月4日
しかし、このことは次の事態が起こる前触れでもあった。
次年になり、今度は副理事長のIさん(岩田薫さん)が市長選に出ると知らされた。そして、現市長(松尾市長)との一騎打ちとなったのだ。
理事会では岩田さんへの対処を話し合うとしたが、理事会当日は今夜台風が関東地方を襲うと予想され風雨が激しく打ち付けていた。夕方まで鎌倉NPOセンターで打ち合わせの後(たまたま居合わせた)私と理事長で理事会開催をどうするか話しあっていたその時、岩田さんから電話が入り、市長選出馬となるので理事を辞任すると連絡が入った。
となればと理事会で打ち合わせが必要ではないのでと、理事各自に電話連絡後 理事会は流れることになった。

市長選の結果は善戦するも岩田さんは敗れ、これで一件落着かと思われたが、しばらく経って、岩田さんから理事に復帰したいと連絡が入った。
それは、市長選に出ることで、理事を辞めなければと考えたが、法律上はその必要は無いと話され、電話では話したが書面も出していないので、無かったことにしてくれとの話であった。
そして理事会はこのことで議論が伯仲したのである。
鮮やかなブルーサルビア
鮮やかなブルーサルビア

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(5)

2015年10月3日
理事会がそれなりに機能し始めたとき、突然鎌倉市の市議選に出馬する方が2名と報告された。しかもその2名とも運営会議の行事では日常の汗をかく活動に参加する人たちではないのだ。
嫌な予感はした。今回の新理事の中には理事長のお友達と語る、鎌倉市長選挙に現市長(松尾市長)の対抗馬として出馬した「渡辺光子」さんの選挙事務所で活動をしていたAさんが、突如理事長の推薦により副理事長に選任された。
市議選に出馬した理事2名は、我が運営会議の認定NPO法人取得に力を入れたIさんと、理事長の話では東北大震災の支援に鎌倉で活動している若手の一人として運営会議に参加したHさん。
理事会ではIさんから事前に県民活動サポートセンターに問い合わせた結果、このようなことがまったく問題ないからとあらかじめ先制攻撃を言われ、審議もされず出馬がなし崩しになされた。
そして選挙の結果は両名とも落選し、何事も無かったように理事会に復帰した。
会員からは法律論より運営会議会員としてのモラルを問う意見もあったが、強引に封印したとの当方の感想である。
色鮮やかなランタナ
色鮮やかなランタナ

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(4)

2015年10月2日
2012年の理事選挙の立候補は、旧理事会からは理事長を含めほとんどが出ず、1名のみが立ち、検討委員会から2名、NPOセンタースタッフの署名を推進したスタッフ1名、会員から1名、そして旧事務局長と彼女の推薦した若手1名、最後に私の計8名が選任された。 そして、旧事務局長が理事長に選ばれた。
顔触れをみると、実務面で活動していた人が少数で、初めて運営会議に参加した人もいる。だから理事持ち回りで書くこととした理事会議事録は人によっては見られたものではない。
運営を円滑にするため理事長の意見を強く反映する理事長のお友達(賛同者)を引き連れてきたのはいたしかたない。だからどう見ても恩賞としか見えないのだ。
理事会は副理事長を選び、理事長と副理事長で毎月の理事会の議題を決めるマネジメントとしたが、残念ながら理事長以外はNPOセンターの実務については経験が無い。となると理事長の意見だけがすべてとなる。
その理事会で異論を言おうとすると、議長でもある理事長は「私こそ正しい」とむきになって反論する。よって理事会は空転を繰り返すのみだった。
ひと時であっても事務局長として自分が否定された怨念とは恐ろしいものだ。 自分の思う通りにNPOセンターを動かしたい。それが信念でもあろうか。
玉すだれの花
玉すだれの花

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(3)

2015年10月1日
鎌倉はそんな軟な人たちでは無い。ここで終わればちょっとした内輪もめで終わったかもしれない。 これを機に怨念の復讐が始まったのである。
会員総会を控えた時期に、運営会議会員を対象に全員会議が開かれた。 これは、通常会員の半数さえ出席しない会員の意見交換の場であるが、今までは出たことがない方々が突然大勢出席したのであった。
「あれあれどうしたことだろう」と思っていると、にわかに会員となり初めて見る方と、鎌倉広町の森市民の会のOさんだけではなく更にMさんまで出てくるではないか。そして現理事会はとんでもないと激しい批判が発言された。
今までこのような会議に参加されたことが無く、どう見ても運営会議の現状を良く判ってはいるとも思えない方が、事務局長擁護の発言を繰り返す。

結局、理事会のあり方などを討議する検討委員会を設置することとした。
その会議を引っ張ったのは鎌倉広町の森市民の会の方々で、市民活動に精通していない現理事たちでは今後を託することはできないとの結論になった。
そして、その5月に行われた理事選挙で、この検討委員の中から理事が立候補したのである。
葉鶏頭の花が咲く
葉鶏頭の花が咲く

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録(2)

2015年9月30日
この事務局長勇退騒ぎは、意外なところから狼煙が上がった。NPOセンターの定例行事である、利用登録団体懇話会が終了後、和やかな懇親会が行われた。
そこに事務局長が会員となっている、鎌倉広町の森市民の会のOさんから、突如「事務局長が交代させられるだってなー」と発言があった。
公式には、このようなことは当の事務局長か理事会しか知らない話で、しかも確定情報でなく、理事会と事務局長の話の途上だったのである。
会場は一瞬凍りついたが、何の反応も無く無事懇親会は終了した。 これはそれに対してコメントを差し控えるとの大人の対応をしたということだろうか。

しばらく経って、今度は300名を超える現事務局長交代を反対する署名が理事会に提出されたのだった。この署名を今見ることができないでいるが、鎌倉市市民活動運営会議の正会員だけではなく、運営会議には関係ない方々が市民として意見を表明したと当方は認識している。

おかしな話である。運営会議の会員さえ、この事務局長の処遇に関しては、定まっていない時期に誰が漏らしたかもしれない情報で反対運動が展開されたのであった。
その結果、事務局長の人事は白紙撤回と結論づけられた。
千日紅もそろそろお終いかな
千日紅もそろそろお終いかな

鎌倉市市民活動センター運営会議

鎌倉NPOセンター血風録

2015年9月29日
そして、会員総会に当たる「全員会議」が9月19日に行われた。 その席で、次年度に向けて改めてこのスタッフ再見直しの説明が理事長から行われ、多くの会員からスタッフの問題ではなく、理事会そのものの問題ではないかと激しい意見が噴出したのである。
それは今がうまく行かないから、人を変えればうまく行くというのは虫が良すぎるのではないかとの指摘であった。

それから1週間程度過ぎただろうか。センターに用があり所用を終えると、スタッフから「全員会議ではどのようなことが話し合われたのか」と問われた。 彼女は会員でありながら会議には出なかったからである。
そして、フタッフの見直しと専任スタッフ採用の話が討議されたと答えた。 この件は理事長の長年の想いで、残念ながら現状の理事構成から賛否を決すると、その通りにならざるを得ないと話す。

4年前に当時の事務局長であった、現理事長を変えて人心一新をしようと理事会が決め、事務局長にその打診をしたが、当時のスタッフから反対の署名が提出され、理事会側のほとんどが退任に追い込まれた経緯があった。
そのスタッフに対し、今回の方針告知である。
因果は回るということだろうか。聞いてきたスタッフも署名に応じたということである。そんな重要なことだとは思わなかったとのコメントだが、そして歯車は急速に転げ落ちて行ったのだった。
我が家のベゴニアは元気一杯
我が家のベゴニアは元気一杯

鎌倉市市民活動センター運営会議

彼岸花咲く

2015年9月27日
この時期は赤い彼岸花が突如咲くからとても印象に残る。
それにしてもあまりにも毒々しいこの花を見ながら、我が鎌倉市市民活動センター運営会議の苦悩に頭を悩ますのは因果とも言えようか。 この8月我々の管理する鎌倉・大船NPOセンターの指定管理の来年度更新申込みの時期となった。
それに先立ち鎌倉市と来年度からの指定管理方針などの説明があり、理事全員がそれを聴いた。そこでは今まで大目に見ていたNPOセンターでの運営に関し、詳細な仕様が提示され、たとえば「情報誌やインターネット、SNSを活用した情報の提供に関すること」と、具体的な業務内容が提示さている。
これは、暗に藤沢などで行っているメールマガジンを意識したものでもある。
そして、市からははっきり他市に比べ遅れを取った運営体制を変えてもらいたいとの指摘が有った。
それを受けての2016年度指定管理申込みは8月31日市への提出に向けて 理事会では泥試合とも思える討議がなされた。
この際、運営スタッフを含め運営要員を一新して若い力に任せたいと語る理事長方と、人を変えても何ら解決にはならないと抵抗する陣営の真っ二つに分かれ、期限ぎりぎりで激しい論戦が繰り返された。
それでもともかく纏めようとの大人の対応は理事会の合意。
結局、理事長が基本骨子を記載して8月31日に市に提出となったのは、せめてもの対応。
そして、これを機にこの4年間の怨念が噴出したのだった。
我が家の庭に彼岸花咲く
我が家の庭に彼岸花咲く

鎌倉市市民活動センター運営会議

市民活動のマネジメントを思う

2015年7月26日
市民活動団体を束ねることが我が団体の使命の一つでもある。と言っても市からの要望を団体に流す程度で、情報のパイプ役として参加市民活動団体から 信頼されることが大事。 当方が主催するフェスティバルや登録団体懇話会に参加する手立てを行うプロデューサーと考えれば良いのだろう。
しかしながら、理事さんの中には市に意見を言いたいとか、市長に面談をする算段を担当課が設定すべきとかを主張する方々が必ずと言っていいほど出るのである。市民活動団体を束ねるのだから「我々は市民活動団体の代表でもある」との心情であろうか。

さて、政治での主張、たとえば憲法9条を守るための会は新聞を見る限り、「市民団体」と言い方をして微妙に「市民活動団体」と区別されている。
公益性を担保する市民活動の定義からちょっと離れているからであろうか。当然、団体側からは「世のため・人にためを考える公共的な活動です」と言うだろうが。。。。。。
団体の意見を代表して市側に伝えたくなるのも心情的にはよく判る。 その方々の所属団体も我が鎌倉では市民活動団体として(混同され?)登録されている。

その上で我が鎌倉市市民活動センターの代表メンバーは「市民」の代表と標榜できるものなのか?
ここでの勘違いが、ここ数年我々鎌倉市市民活動センター運営会議から市長選や市議選に(どう見ても意図的に)出馬する事態になったことである。
残念ながらその結果は全敗でもあるので、良識は保たれていると考えるが、 怖いのは、様々なボランティア活動には参加しないのだが、いつの間にか団体に参画し、その重要な位置に入り込むことが簡単にできるのが恐ろしい。
市民活動団体の代表や市民団体の代表を名目に、私こそ市民の代表と錯覚をする人がいるのが、我が運営会議の信頼を落とす原因にもなることを考えなくてはなるまい。
涼しさを呼ぶカンパニューラ
涼しさを呼ぶカンパニューラ

茅ケ崎市小和田地区まちぢから協議会

昔の公団住宅は今。。。。。。(2)

2015年7月22日
移り行く時代に合わせ大規模な改造計画が旧公団住宅管理会社とダイワハウス関連会社のコラボレーションで開始されている。すでにその近隣地区では別な事業者が近代的なマンションを販売し、若い人を中心に入居が進んでいた。
地区全体で着々とリニュアルが進んでいるのである。
今回住宅群の真ん中に市役所の出張所や図書館、幼稚園、生涯学習センター、地区ボランティアセンター、スポーツクラブなどが複合的に入る高層施設「ハマミーナ」が完成した。
突如現れた現代的な建物がこの地区の明るい未来を予感させるには充分で、茅ケ崎市では各公共施設の複合化により、利便性と管理費用の削減を意図して市内各地区で随時推進するとの姿勢である。
その「ハマミーナ」に隣接して市民活動サポートセンターの変形版である「まちスポ茅ケ崎」が開設された。 この施設にはサポートセンターの理事長でもあった益永さんがこの施設の代表者の一員になり、この地区の活性化を助ける目的で市から要請されたとも聞いた。
隣にカフェ施設も併設し、見知った若いメンバーがスタッフとなり、オープンスペースを使い地域の交流の場として使ってほしいと話す。
いやはやうらやましい限りである。
見上げる「ハマミーナ」 「まちスポ茅ケ崎」
見上げる「ハマミーナ」と「まちスポ茅ケ崎」

鎌倉市市民活動センター運営会議

市民活動のあり方を思う

2015年7月20日
この土曜日の利用団体懇談会にて、5月に行われた「かまくら市民活動の日フェスティバル」の感想と今後について話し合われた。
前年まで鎌倉駅前の「鎌倉生涯学習センター」で2〜3日間行われたこのイベントは市民の広い層の方に市民活動を知ってもらうための企画であるが、残念ながら仲間内の懇親の場としかならず、一般の方々の来場が年々減ってきたのだった。それならば今年は市民活動団体の懇親を目的に大船にある「鎌倉芸術館」での1日開催に切り替えた。
ちょっとやり方を変えてみようとの挑戦であったが、団体の多くからは市民向けに市民活動の参加を呼び掛ける従来のフェスティバルであってほしいとの意見が寄せられ、改めて原点回帰を迫られた感が有る。
さて、今回のフェスティバルでは参加団体によるワークショップが行われ、 我がグループでは自分たちの想いを一つのポスターにすることを目的にテーマに討論が行われた。
今一番世の中に訴えたいことは何かと問われ、急速な少子高齢化が進み地域のつながりが薄くなったことを嘆かれる方々が大多数だったことに驚く。
それは、今まで市民活動を意欲的にけん引してきた方々が、鎌倉で大きな希望を持って夢を実現化したいと語るのかと思えば、逆で若者がどんどん減り、自分の地域の活力がどんどん失われていく不安を語る姿でした。

いけいけドンドンの高度成長期を終え、市民活動の置かれた位置付けも高らかに市民をけん引する力として期待された時期から、いまや滑り止めの接着剤を切望されるこの頃になったと感慨深いものである。
ちなみに今回のワークショップで一番となったポスターのチャッチコピーは「人とのふれあいを大事にする」であった。
さわやかなあじさい
さわやかなあじさいは心がなごみます

鎌倉市市民活動センター運営会議

残念ながら末期症状です

2015年7月17日
鎌倉のNPOセンターは全国に先駆けて市民の力により公設・民営の市民活動センターとして発足し、もう20年近く当鎌倉市市民活動センター運営会議という団体(発起人達のあつまり)がその運営を担ってきた。
しかしながら、センターの運営は途中から指定管理制度の対象となり、競争入札によりどの団体でも応募できるようになったのである。
とは言っても長年の実績により、今まで2回の入札結果は我が運営会議に落ち着いていた。この夏に3回目の指定管理応募が開始されることとなり、次も同じように応募しようと理事会で決めた。
さて、このNPOセンターの管理状況の確認を行う会議が定期的に鎌倉市と運営会議理事との間で行われている。市側の責任者はどう言うわけか、毎年お偉方が入れ替わり、ちょっと対応に苦慮する一面もある。
そして昨年春の就任のとき、我々に対し暖かい言葉として「このセンター運営は指定管理の対象としたのが良かったのかを考えることもある」と、とても安い費用で受託している現状に同情的なお話をしてくれた。
この夏の次回指定管理への準備を行う中で、理事の中から「このNPOセンターは我々が作ったのだから、もう一度市側に入札方式としないで次期運営を担わせることができないか相談に行きたい」と発言をし、なんと正副理事長が頭を揃えて市に出かけて行った。なお、残念ながらこの件は理事会での了解はされていない。その結果は出向いた理事からは報告されたのではないが、その次週に行われた市との定例会議で市側からの当運営会議への姿勢としてはっきり表れた。
NPOセンターの設立からだいぶ時間が経過し、その間市民活動と言われる環境が大きく変わってきた。設立に関する努力は認めるとしても、鎌倉市以外の 市民活動センターの動きを見ると昨今大きく変わってきている。 ついては、市から委託された仕様書に基づいてセンターの運営を確実にこなして欲しいとのご指摘。
これは今まで「このNPOセンターは我々運営会議が管理・運営する」と言う姿勢を変え、市の方針に基づいて行動すべきと諌めたのであった。
つまり、今度も特別扱いしないで入札方式で行うと答えた。
事前に事務局長が「そんなことはいけません」と正副理事長を制止したのだが、「素人には何が分かる」と突撃した結果は見事に討ち死にしたのです。
馬鹿だなあ!
うなだれるおじさん
うなだれるおじさん

茅ケ崎市小和田地区まちぢから協議会

昔の公団住宅は今。。。。。。(1)

2015年7月16日
思えば我々の年代では公団住宅があこがれの世代でもあった。
茅ケ崎の海岸に近い浜見平団地も大人気の場所で、当方も抽選に外れたと認識している。全世帯4000世帯近くの巨大公団住宅は、さすがに寄る歳なみには勝てず、再開発されることとなった。そして昨今その中心地区に「ハマミーナ」なる複合施設が完成した。
当方が関係する辻堂駅前にできるコミュニティー施設建設の検討課題として、とりあえず現地の見学に行った。
団地の中心にはささやかな商店街が鎮座している。祝い50周年と書かれた浜見平商店街は平日のお昼時間とはいえ、じいさん・ばあさんばかりがゆったりと動く閑散とした人通りでしか有りませんでした。
そうです、我々の同世代かそのちょっと上の人たちが喜び勇んで入居していたわけですから、それだけでも平均年齢は70歳を超えることとなります。 お昼をと思いその1軒に入りスパゲティーを頼んだのですが、店内には腰を曲げたおばあさんや、杖をついたお爺さんばかりでした。だから話は「あそこのおじいちゃんはどうしたのだろう」とか「そう言えば病院でも逢わないね」などと年寄りのコミュニケーションの場となっていました。
思わず暗い気持ちだけがふつふつと湧き上がる浜見平でありました。
これが浜見平団地だ 浜見平商店街
50年を超えた浜見平団地

茅ケ崎市小和田地区まちぢから協議会

通学路の見守り活動について

2015年7月15日
まちぢから協議会での資料作成を行うために、市内の様々な現場写真を撮りに行った。その中で「いいなあ!」と強く心に残ったのが、小学校への通学時にその通学路に旗を持って立つおじさん、おばさんなどの姿でした。
これらの方々は地元の自治会・町内会で活躍する元気なおじさんで、多くの方々はその会の幹部の方々でもあります。 今年の7月上旬は毎日雨模様で、雨ガッパを着ながらの子ども相手には本当に頭が下がります。子どもたちには横断歩道でいつも声をかけ、ときには注意もしているのですが、近所のおじさん・おばさんとして子どもたちにはとても信頼され、まるで自分の孫のようにいとおしむ光景を見ると、これこそ市民活動の原点とも感じました。
この見守り活動は市民活動団体では無く、自治会活動の一環として位置付けられていますが、地域を守るという一点では同一な精神を持っています。
市民活動とは何かを考えさせられるこの頃です。
通学路の見守り 通学路の見守り
通学路の見守り

茅ケ崎市新宿自治会

10年を過ぎた市民活動を振り返る・3(地元自治会活動)

2015年1月26日
よく「どうして鎌倉まで行って活動するのか」と聞かれる。そして、鎌倉風致保存会の中でも、「地元茅ケ崎で活動すれば良いのに」とさえ言われたこともある。
そんな中、地元の自治会活動に誘われてから、自宅そばの「千の川」支流を暗渠にしたあとに作られた公園で花壇の整備を細々と初めた。
残念ながらアジサイなどの木々が植えられただけで、荒れ気味の公園を草花の咲く明るいスペースに衣替えしようとの想いである。
いつもは、地元の老人会が1カ月に1回剪定作業をしているのだが、長さ50メートルに達する中央に遊歩道が有るそれなりの大きさを持った公園の手入れは不十分となるのはいたしかた無いだろう。
一人でこつこつと雑草を抜き、木の剪定を強めに進めながらそろそろ2年となろうとしている。
自分で自治会に了承をもらっての作業であるが、最近は地元の方々にも「すっかり明るくなった」と喜ばれるようになった。
自分としては、鎌倉での草刈り作業の延長ではあるが、今までの経験が生かされた花壇整備だけに、それほど苦痛にもならない。
10年の鎌倉での市民活動経験を経て、地元のために助力できることを嬉しく思う。
近所の公園
近所の公園

鎌倉市市民活動センター運営会議

10年を過ぎた市民活動を振り返る・2(鎌倉NPOセンター)

2015年1月15日
わりあい最近のことになるが、「どうしてこのNPOセンター運営に関与することになったのですか」と聞かれた。 そういえば強い信念が有っての入会動機では無かった。
もう7〜8年前になろうか、鎌倉風致保存会の草刈り仲間から、彼が主体的に関与していた「市民活動フェスティバル」を手伝ってくれないかと依頼が有った。 当時、なんでも議論する方々より、とりあえず汗をかくほうを大事にする鎌倉風致保存会がこの行事の主体的地位を保っていた。 「へえ〜風致保存会もさまざまなことを行っているんだ」と感慨深かったのだが、いつのまにかその主流メンバーの一人として現在にいたっている。

市民活動とは文字通り市民の活動なのであるが、世間では残念ながらプラカードを掲げて市内を行進し反対の意思を示すひとたちとの烙印も多い。 これを通称市民運動と言うのだが、街の美化運動をしたり、まちの防犯活動に協力したりする通称ボランティア活動をする公共性の高い活動を市民活動と言われている。 しかし、プラカードおじさんが「俺だって市民、いや国家のために良いことをしているのだ」と言い出せば、これも公共性が高い活動と考えることもできる。 何を持っての公共性なのかと正せば議論は百出するであろう。 そして、鎌倉は多くの知識人が集まっている関係で、このような議論がとても活発に行われる。
だから、「とりあえずまずは動いてみようよ」などと軟弱な指向は通らない。 何を行うにも船頭ばかりの議論が多く、結果何もすることができないまち、それが鎌倉なのであった。
近年、そのNPOセンターの運営を行う「鎌倉市市民活動センター」の理事となったが、こんな議論ばかりが丁々発止とやりとりされる姿を見ると絶望感さえ感じる。
この地は源頼朝以来血で血を洗う権力闘争が繰り返された誇り高い武家文化の発祥の地であった。
ある人は(議論の)相手をたたき倒せなければ気が済まないとの激しい気質を有する街であると語る。
まして、当方は鎌倉市民では無い。異論など出そうものなら「鎌倉の人でも無いくせに」との反発も強い。だから昨今はさすが嫌気がさしてきた。 そんな姿を我が女房殿は心配し、「よその町のことに関与するのはおやめなさい」と話すのだった。
私の心情は、“見るべきものはすべて見た”とのちょっと生意気な心境なのである。
広報誌「パートナーズ」
広報誌「パートナーズ」

鎌倉風致保存会

10年を過ぎた市民活動を振り返る(鎌倉風致保存会)

2015年1月14日
それにしても、一筋の想いを持って活動に参加していたことを改めて誇りにさえ思う。
なにを置いても毎週の土曜日は自宅から自転車で鎌倉の地で出かけていた。当地から江の島まで30分、それから海沿いに更に30分かけて鎌倉にたどり着く。海沿いのサイクリングは快適そのものである。
9時半から11時半まで草刈り作業をした後、同じ道を再び自転車で帰るのだ。
草刈り作業は鎌倉の史跡跡地が主で、鶴岡八幡宮そばの御谷、北条常盤亭跡、東勝寺跡、建長寺回春院などで、草刈り機を振り回し雑草と格闘する。
冬でも汗びっしょりになるのに、夏はことのほか辛い作業となる。それでも充実した時間であった。「お疲れさん」と言う言葉を後にさわやかに別れた。
今から考えれば60歳ではそれなりのパワーが有ったのだろうか。
そして10年、残念ながら真夏の太陽の下では草刈り作業が続かなくなってきた。
また、“自転車で鎌倉”はそんな元気も無く、昨今は電車での移動となったがどうも腰が重い。
でも元気の基、鎌倉風致保存会の草刈り作業は可能な限り参加したいと思う。
50周年記念誌
50周年記念誌
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鎌倉文化人会議

鎌倉芸術祭参加“古民家コンサートクラシックライブ
古武道演技

2014年10月11日
むっかし、むっかし、鼻たらして竹棒を振り回していた頃、そして赤胴鈴之介なんかを夢中で読んでいた頃、チャンバラは少年達の最大の楽しみでした。
大きくなったおじさんは、そんなもんは昔の夢と遠い世界に忘れてしまったのです。 ところが、この古武道が鎌倉の地で受け継がれていると言うではありませんか。
うそぉ、大人をからかうんじゃないと半信半疑で、その実演を見ることとなりました。柳生新陰流、宮本武蔵の2刀流とマンガの世界は本当だったのです。
それは、いかにも剣術使いのお兄さんと、映画女優さんかと思われる美人剣士が、槍と木刀を使いこなしながら模範演技を見せてくれました。
でも、ちびっこ剣士の演技がとてもかわいかったな。
かようなことになったのは鎌倉文化人会議のイベントとして、地元の文化を取り上げていきたいとの企画で取り上げた次第。
当方、この発起人の中に組み込まれ、側面協力を仰せつかりました。 それにしても、鎌倉の地の奥深さを感じた日となりました。
時が止まった武道演武
時が止まった武道演武

鎌倉宮の山紫陽花を愛でる会

「鎌倉宮の山紫陽花を愛でる会」の懇親会

2014年6月14日
6月10日の定例手入れを今回は止めて、半年間の紫陽花手入れの成果をみることと、合わせて葛原岡神社の山紫陽花の状況も見学しようと懇親会が開かれた。参加者は15名程度で日ごろ鎌倉宮での仲間たちだった。
まだ、手入れが始まったばかりのこの会では、鎌倉宮に植えた紫陽花の花付き具合が気になるものの、すでに植えられている山紫陽花の花付きは昨年夏の猛暑の影響で花付きが悪いのだと説明を受ける。
自宅の普通の紫陽花でも花が付かなくて苦労をしたことを覚えているので、これは陽が足りないなどと意見が飛び交うのを聞きながらこれからが大変だと感じたのだった。
その後車で葛原岡神社に場所を移し、同様の活動をしている「葛の会」の会員による植樹の説明を受けながら、数年を経過した山紫陽花の生育状況を見回った。
近年そのような積極的なお宮整備の結果、観光客の増加を果たしたと宮司さんから説明を受ける。 それにしても広大な神社敷地を定年過ぎのおじさんパワーによってきれいにしているのだ。その中には今まで銀座のお姉さんを相手に交際費で接待を繰り返していたのに、ここでは作業後の1本のビールがなによりの和んだ瞬間を見出すと語る方々もいらっしゃるとのこと。 我が鎌倉宮の方々も人生に余裕のただよう方々で、それぞれの大らかな日々をお過ごしと推察する。 お昼からはお酒も入った懇親会でみな楽しそうな自己紹介で会が盛り上がった。 我々の周りには、こんな卓越した人生を送っていらっしゃる方々が、こんなに多くいることに改めて感激。良き日、良き仲間たちの懇親会であった。
自宅で咲いた山紫陽花
自宅で咲いた山紫陽花

鎌倉市市民活動センター運営会議

今年はどんな年になるだろうか?

2014年1月4日
鎌倉の市民活動はどこかおかしくなってしまった。
昨今、成熟した活動からその後をどのように進めていくのかとの大きな課題に見当違いな方を向いてしまったように感じる。
24年の12月に茅ヶ崎市民活動サポートセンターで「夜カフェ」と言われるイベントが行われた。イベントそのものは家に眠っている外国の硬貨を持ち寄ることで寄付につなげようとの主旨だったが、テーブルを囲むメンバーは我々と同世代のおじさんばかり。話は市民活動の在り方や世相批判が主な論客が揃っていた。
団塊世代を含む熟年層は、小さなことでも世の中のためになることを手助けしたいと言う気持ちを持っている。それがボランティア活動につながっていくのだが、実際は手軽に相談をできる場所が無い。
その受け皿が我がNPOセンターのはずであるが、どうみても当会員の多くが、茅ヶ崎と同じような論客に囲まれている。
これでは一般市民は怖くて来られないだろうな!
ごくごく普通な人たちの集まり、それがNPOセンターの基本であろう。 そんな居心地の良い市民活動ができる環境を整えたいと思う。
穏やかな茅ケ崎海岸
穏やかな茅ケ崎海岸

北鎌倉の景観を後世に伝える基金

さよなら なだいなださん

2013年12月18日
私がボランティア活動を初めたのは、台峯の保全活動に参加したのが出発点であった。そこからもう10年近くは経った。 この12月8日に北鎌倉の光照寺で恒例の「会員の集い」が開催された。
いつも穏やかな姿でお話しするなだいなださんはもう姿を見ることができないことを改めて想う。 参加したての時、なんかの拍子にこの台峯の保存活動は近くを通る予定がある都市計画道路の反対運動が抱き合わせになっているのだと聞いたことが有る。 しかし、緑の保全活動ばかりが話題になっていたこの会がそんな人たちの集まりとはどうしても思えない。自然を愛する方たちの純粋な同好会にしか見えなかったのである。
昨今、東日本大震災を契機に鎌倉の道路事情を改善するため、改めてこの都市計画道路の話しが浮上したと、今回の会で話題になった。 参加した会のメンバーも大きく変わり、どう見ても緑の保全活動に縁のない、地域の方々も混じり、会は道路計画の反対運動が大きくクローズアップしてきたことを実感する。
いよいよ、ついに爪が出てきたなと私の心は嫌な感じがした。 緑の保全を隠れ蓑として、ついに本心が現れたのだ。 それは、この会からの卒業を決意した瞬間でもあった。
さよなら、なだいなださん。。。。
老人党宣言
老人党宣言

鎌倉世界遺産登録推進協議会

ついに鎌倉の世界遺産登録活動が終わった

2013年12月14日
11月30日の夜、鎌倉生涯学習センターにて鎌倉世界遺産登録推進協議会の総会が開かれた。
あわただしく時期が決定され、年に一度しか開かれないはずの総会は最高意思決定手段として早期に区切りをつけたい市側と、協議会有志(私も含め4,5名)の改組の上存続を望む一団とのせめぎ合いだったのだ。
理事会を受けての総会では、市長からとりあえず、「武家の古都」としてのコンセプトでの活動完了を受けて、いったん会を終了の上、新しく次を考えると報告された。言葉は刺激が少なくなるよう役目を終えたと話されたが、その場で大反対が出る訳でもなく、ホンの20分程度で終了。
次の日、報道は会の解散とはっきり書かれたのである。
土曜に夜決定で次の日は日曜と言うのは、混乱を回避するのは良く考えられたストーリー。
早速、月曜(12月1日)に今後の対応をどうするかを協議会主要メンバーで相談したいと私から市に電話をすると、めったに出てこない担当次長が出てきて、11月一杯で協議会が解散したのだから、一切の対応はできないと話すではないか。 思わず、やられたと思ったのは私だけでは無かったのである。
毎日新聞記事
毎日新聞記事

鎌倉世界遺産登録推進協議会

静かなり鎌倉世界遺産推進協議会今年度(平成23年度)総会

2013年8月9日
登録延期が決まった鎌倉の世界遺産登録に関し、本年度の事業計画が総会にて了承された。予算は前年度の半分となり、既に春の行事等で使ってしまった経費に広報誌などの既決行事予算が計上されたのみであった。 今後の展開に関しては、これから皆さまで考えていきたいとの松尾市長のコメント。会場からは何人かの刺激的な意見が有ったが、予算執行責任を持つ行政としては、これもいたしかたないと拍手で了承されたのは当然の結果。
私としては5月末に行ったドイツの世界遺産地を見ながら、「武家の古都」としたコンセプトが失敗だったと思う。ヨーロッパ各地の「古都」と書かれた世界遺産登録地区は、建物も屋根の色も統一された、いかにも昔そのものが感じられる情景が当たり前なのであった。 残念ながら、鎌倉の駅前に立っても古都の佇まいはまったく感じられない。
それは、ドイツを見てから初めて感じた実感だった。「井の中の蛙」と言うことだったのだろう。
理事の宮崎緑さん
理事の宮崎緑さん

鎌倉世界遺産登録推進協議会

鎌倉の世界遺産登録は成らず

2013年5月1日
結果を知ったのは5月1日のNHKニュース(午前6時)
それは富士山が世界遺産となったと報道があった。(鎌倉はどうなったかなと思っていると)そしてそのニュースには鎌倉が残念ながら不登録との結果と語る。
その後、TVでは富士山ばかりが報道され、地元の喜びが大きく伝えられる。 鎌倉に関しては、登録に値せずとの厳しい結果で、ここまで言われればあきらめもつく。
鎌倉の関係者はだれしも世界遺産登録結果が不合格になるとは思っていなかっただけに、携帯にいくつかの連絡が入ったものの声も無い。
とりあえず5月3日の小田原北条まつりでのPR活動中止と5月12日の大船まつりでのPR活動中止を連絡し合いながら、昼近く鎌倉市役所に出かける。
するとFさんとNさんが正面から歩いてくる。大谷副市長に状況を聞いた直後とか。 近くの蕎麦屋でビールを傾けながら慰め合う。我々3人は登録活動の中心に居ただけに言葉も少ない。
夕方の「富士山おめでとう」報道が心に突き刺さる1日となりました。
5月1日新聞紙面
5月1日新聞紙面

鎌倉風致保存会

中学生ボランティアに参加する

2013年2月27日
例年この卒業時期には鎌倉の(公立)全中学校の3年生を対象に、卒業記念行事として草刈りを行う「中学生ボランティア」が鎌倉風致保存会と共同で行われる。
いつもの熟年層とは違い、若々しい人たちとの共同作業は楽しいものだ。
大船にある岩瀬中学校とは六国見山の山頂近く斜面で笹刈り、第2中学校とは学校裏の尾根筋の笹刈り、玉縄中学校とは、ちょっと離れている「鎌倉中央公園」での笹刈りとなった。
それぞれ50名から100名を超える大軍団が山林の手入れに参加してくれるため、あっという間にきれいな草原に変身するのがすごい。
めったに持つことも無い大型ののこぎりや草刈りばさみを恐る恐る使いながら、それでも作業を終わった後には「楽しかった」と嬉しそうに話す子もいる。
いくつかの先生方は「こんな楽しそうな姿は学校内では見なかった」とびっくりしている様子。 都心に近い鎌倉の良さは学校の敷地に隣接する山林が授業の対象となるなんてうらやましい限りである。参加したこの子どもたちに郷土を愛する心が少しでも育まれることを期待したい。
ボランティアの様子
ボランティアの様子

鎌倉世界遺産登録推進協議会

縁があって京都国際会館に出かける

2012年11月4日
鎌倉の世界遺産登録活動も終盤となり、そのパブリシティー活動の一環として、 11月4日に京都の地で行われた”世界遺産条約40周年及び日本の条約批准20周年記念「市民シンポジウム」”に参加した。
会場は京都の台所と言われる錦小路にある「コープイン京都」ホールで、基調講演のあと、鞆の浦の開発阻止活動報告、平泉の登録までの 経緯と現状の報告、そして鎌倉からは神奈川県の枡渕さんが世界遺産登録内容に関する説明、奈良からは平城京での舗装反対の活動、 京都では岡崎地区の宅地造成反対活動など生々しい動きが報告された。 ちょっと重い会議も終わり、その打ち上げは先斗町にある粋な小料理屋さんでの宴が行われた。 地元の人だからこそ気軽に入れる(我々は怖くて入れない)このようなお店でとてもリーズナブルなお値段で京都ならではの料理を楽しむ。 (我々なら1万円程度は取られるだろうな)
そして、もう1つの目的である京都国際会館での国際会議は日本政府の主催だから、そんな簡単には入れないのだが、 世界遺産登録推進協議会のお仲間である方のご紹介で、参加証を発行していただくこととなった。(うれしい。。。。) 6日に行われたその会議名は「世界遺産条約採択40周年記念最終会合」と言うユネスコが関与する国際会議で、 各国の関与する首脳が集まる場だから、当方がその会場に気軽に入れるわけでもなく、遠い4階からその模様を外野席からながめる事となる。
会議では関係官庁から次官らのあいさつ文を読み上げるだけでも30分以上かかり、ことの重大さを再認識したが、 イリーナ・ボコバ ユネスコ事務局長の話には登録寸前の鎌倉では一言一句が気になる。残念ながらそのまま判るわけでもなく 同時通訳のレシーバーで聞く事となったが、私もえらくなったように錯覚したのだった。
ともかく、こんな場違いの所へ行けただけでも感慨深い。棚から牡丹餅とはこのようなことを言うのであろうか。。。
国際会議のパンフレット
国際会議のパンフレット
国際会議場の会場内部

国際会議場内部
国際会議の会場全景
国際会議場全景

鎌倉世界遺産登録推進協議会

鎌倉世界遺産登録推進協議会ホームページリニュアル

2012年9月21日
そもそも、鎌倉市では我々の鎌倉世界遺産登録推進協議会ホームページが既に作成してあった。
それは、元原稿を市の世界遺産担当課で用意し、湘南工科大学の好意でホームページとしてデザインを含め 完成させていた。湘南工科大学では、別途デジタルフィールドミュージーアム構想が鎌倉市と共同で進行して いた関係上、余技で作っていただいたとの事情もある。
更新が次々に起こり、次々にページが追加されると、内部の関連情報との整合性をキチンと管理していかないと とても見づらい画面になるのはいたしかたない。
ついては、我々協議会委員が、これでは困ると言い出したのは、4,5年前。
市側にホームページの専門家がいる訳でもなく、どこに問題があるのですか?と迷惑顔に話す。
それでは、「こうすれば良いのではないかとの対案を作ることとなり、私のつたない作成技術の「ホームページビルダー」で 対案を作ったが、その程度では受け入れられないとごねられる。
驚くことに、その対案ができ、市の担当者から部長に上がるまで半年かかり、部長は平然とそんな話は上がらなかったから知らないと話すではないか。 バカヤローと思いながら、ちょっとふてくされたけど、今度は本格的タグでの作成作業を一から行う。
やっと、タグで作った試作案ができてから、検討期間が一年、そして最後は鎌倉シチズンネットさんがきれいにお化粧してくれて、 この九月から、この鎌倉世界遺産登録推進協議会のホームページがリニュアルされたのである。しかし、その時期は鎌倉の世界遺産登録に向けての 最終章の時期までかかったことになる。
おかげで、当方のホームページの作成技術が格段に向上したのは嬉しい限りである。 しかし、協議会活動の一環として、無料でホームペ−ジ原案を作りながら、IT技術を知らない市の職員相手に格闘した日々は虚しさだけが残る。 私のお役人さん不信は、こんな現実を体験した結果だからである。
汗と涙の結晶は下記の通りです。
http://www.kamakura-wh.org/
協議会ホームページ表紙
協議会ホームページ表紙

鎌倉風致保存会

ちょっと場違いな「花会」へ行く

2012年3月31日
鎌倉風致保存会での長年の仲間で、お花の大先生でも有る松坂千遊さんのお花の発表会に行った。鎌倉の良き文化を身近に味わえるチャンスは本当に嬉しい。
円覚寺の塔頭「松嶺院」は開高建さんや田中絹代さんが眠る有名寺院で、そのお堂一杯に並べられた、大ぶりの生け花には圧倒される。松坂さんはその「花雅流」の代表として、最奥に堂々と生けられていた。 生け花は大きな何もない空間に、それだけが主張する世界を見せるときに一番輝くのではないだろうか? そして個人的にはろうそくにゆらゆら輝く場で見たいと思う。
今回、保存会のみどりのボランティア活動に来ていただいた、宮内さんがお弟子さんとして出していた。久しぶりに有ったので、ふと何気ない話しとなり、この秋にはご結婚をされると聞いた。松坂さんも宮内さんも素敵な和服姿で、それも印象的だったな。。。。
素晴らしい生け花と咲き誇る女性の美しさ、それを包み込む塔頭の和空間。 おじさんは出されたお茶に戸惑いながら、心落ち着かない一時を過ごしたのでした。
松坂さんの作品
松坂さんの作品
和服姿の松坂さん
和服姿の松坂さん
宮内さんとその作品
宮内さんとその作品
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鎌倉市市民活動センター運営会議

相模湾アカデミー「温故知新展」に参加して

2012年1月21日
相模湾沿岸地域の小田原、二宮、大磯、平塚、茅ケ崎、藤沢、鎌倉の各市町から街歩きをする団体が集まって合同展示会が小田原の清閑亭で開催された。 乾燥注意報が出っぱなしの関東地方で狙ったように搬入日(20日)開催日(21、22日)は大量の雨に見舞われた。その上雪が降っても不思議ではない寒さで、典型的な日本家屋の清閑亭はちょっと辛い日々ではありました。 清閑亭は福岡の黒田藩(旧)藩主・黒田長成公の小田原別邸で大邸宅ではないが、日本家屋の美しさを随所に見ることが出来る。その中の1部屋に鎌倉から持ってきた大判の写真を展示した。別の部屋には部屋ごとに参加された市が用意した写真やパネルが並ぶのだ。 決して静かなタチでは無い私目は初参加のプレシャーをもろともせず、来客の応対に駆けずり回ったのでありました。そして参加された他の団体さんと、とても親しい仲になることが出来ました。だからとても嬉しかったな。。。。
小田原清閑亭外観
小田原清閑亭外観
鎌倉の間での写真展示
鎌倉の間での写真展示

茅ケ崎サポートクラブ

玉縄桜を茅ケ崎に植える

2011年12月11日
「玉縄桜をひろめる会」のご協力を得て、茅ケ崎養護学校に玉縄さくらの苗を植える。今年は陽気が変でいつまでも温かい日が続いたため、苗が休眠せず、 植樹がのびのびになってしまった。また、その前に下見を行った日は、寒風吹きすさぶ校庭でびしょびしょの中での確認作業であった。しかし、当日は「玉縄桜をひろめる会」と地元の「花と共に暮らす会」が参加し、苗の数より人の方が多いくらいの盛況。
何年か経って、この広い校庭に早咲きの玉縄桜が美しい花が咲くことを期待したい。
玉縄桜の植樹
玉縄桜の植樹
玉縄桜を広める会の方々
玉縄桜を広める会の方々

鎌倉世界遺産登録推進協議会

玉縄まつり

2011年11月12日
鎌倉世界遺産登録推進協議会のお仲間でも有る「玉縄城址まちづくり会議」の 荒井さんが我が鎌倉世界遺産登録推進協議会ブースの隣に ブースを構える。
この人が武家の時代に生きたら、勇猛果敢な強者になるだろうと思っていたら 何とその武者姿に変身するではないか!
どこにいらっしゃったか弁慶さんを調達し、おまけに静御前まで揃える奮闘ぶり。 玉縄まつりにひときわ花を添えたのでした。
ちなみに静御前の県議「早稲田さん」からは、「あなたは何の団体で出ているの」とご質問が飛ぶ。 一昨年までは鎌倉市市民活動センター運営会議のブースに立っていたのですが。 そんなご質問を受ける私はカメレオンのように姿を変えるのでした。 それにしても11月なのに日陰が恋しい晴天。異常な天候はいつまで続くのか?
玉縄祭り
荒井さん(すてきに)変身

鎌倉世界遺産登録推進協議会

ドナルド・キーンさんにサインをもらう

2011年10月29日
鎌倉世界遺産登録推進協議会で日本に帰化したドナルド・キーンさんの講演会を行った。協議会の理事でも有る高木さんとのドナルド・キーンさんが旧知の仲だったので、忙しいスケジュールの中鎌倉への訪問が実施できたのだった。
私がドナルド・キーンさんを知ったのはもう半世紀前になろうか?
文学青年では無かったが、日本文学全集全80巻を読んだ。その中の解説にキーンさんが参加していた。全80巻は再読破をしてほとんど処分してしまったが、奇跡的に谷崎潤一郎さんの巻が自宅の本棚に残り、その本を持ってキーンさんとの懇談会に臨んだ。
鎌倉の高徳院で行われた「キーンさんを囲む会」で私に話の順番が回ってきた際、その話をしてキーンさんとお話をする。キーンさんは懐かしそうにその本を見て、ささっとサインをしていただきた。
同席された方々から「家宝」が出来ましたねと話すのだった。
キーンさんのサイン本
キーンさんのサイン本

鎌倉風致保存会

里山ふれあい祭り

2011年10月8日
今年で3回目となる「里山ふれあい祭り」が鎌倉風致保存会の発祥の地でもある御谷(おやつ)にて開催された。
いつもは年配ばかりが目立つ草刈り作業ではあるが、この時ばかりはヤングママ・パパ達とその子供たちで一杯になる。
原っぱでの遊び場には、竹馬や剣だま、輪投げなどが並べられ、大木にはブランコが設置された。 当方は半世紀ぶりに剣だまに挑戦。昔はうまかったんだけどなー!
インタビュー役の村田さんの取材を以下に記す。
・火おこし (小3) 男子 第一小学校
 お母さんと一緒に来ました。保存会のホームページを見ました。火おこしをお母さんに手伝ってもらいましたが、なかなか火がつかず、2回目に成功、「昔の人は大変だったね」の感想でした。
友達と学校で配られたチラシを見て来ました。最初は飛びませんでしたが、手伝ってもらって飛びました。難しいです。
・巣 箱 (小1) 男子 御成小学校
 お母さんと来ました。お母さんに手伝ってもらい、完成しましたが、ほとんどお母さんが作りました。家の松の木に置きます。小鳥が入ると嬉しいです。
学校で配られたチラシを見ました。のこぎりを使うのは初めてです。時間はかかりましたが、全部一人で切りました。
・ツリーテラス  (小3) 男子 御成小学校 
お母さんと一緒に来ました。高い所から滑り降り、お母さんはひやひやでした。「保存会の催しがなければ、このようなことは出来ませんので、楽しくて貴重な経験です」とお母さんの感想でした。
・バンブークーヘン  (小4) 女子 御成小学校
お母さんとお友達と一緒です。竹を回しましたが、以外に力が必要で、くたびれました。甘くて美味しいです。
・竹馬乗り (小5) 女子 御成小学校
お父さんと一緒に来ました。 とても上手に乗っていました。お父さんに聞いたら、「この子はおてんばで、いつもハラハラしています」とのお話しでした。
里山ふれあい祭り
バンブークーヘン作りに熱中

若宮大路グリーン・クリーン運動実行委員会

若宮大路に花を植える

2011年5月29日
若宮大路の清掃作業にはたくさんの市民や近所の店員さんが出席し、我が鎌倉風致保存会の(ハードな)草刈り活動とはちょっと雰囲気が違う。 昨年のことだったが、郵便局前で花を植えていると、おばあさんが杖をつきながら植え込みの傍の雑草を抜いているのではないか? 前かがみのちょっと苦しい姿勢を見かねて、「無理をなさらないでくださいね」 と声をかけると「こんなことしかできませんが」と恐縮されていた。
市民の参加を積極的に推進する実行委員会の方々は我々と同年輩で、顔見知りの人が多いのだが、生き生きとしていて、お話しても気持ちが良い。 こんな多くの市民により、鎌倉の街は守られているのだ。そんな一員として参加出来たのが嬉しい。
若宮大路清掃
若宮大路清掃(神奈川新聞から)

鎌倉市市民活動センター運営会議

かまくら市民活動の日フェスティバル

2011年5月20日〜22日
かまくら市民活動の日フェスティバルも今年で13回目。例年行事となり手慣れた感じが有るが、毎年70団体近くが集結する鎌倉の力には感心させられる。 今回特に注目したのは「北鎌倉湧水ネットワーク」、幅広い活動を行っている北鎌倉の野口さんが円覚寺裏の六国見山で林の整備を始めたこと。広町、台峯、六国見山と山の手入れをするグループが独自に活動をしながら、鎌倉を取り巻く山林の保全活動にまた一歩仲間が増えた。 建長寺の奥で我が鎌倉風致保存会も杉の伐採作業を行っているのだが、このような大勢のボランティア活動によって、鎌倉の緑が保全されているのだ。 野口さんガンバレ!!!!
フェスティバル会場
フェスティバル会場
北鎌倉湧水ネットワーク
北鎌倉湧水ネットワーク(展示パネル)

鎌倉市市民活動センター運営会議

悪戦苦闘のホームページ講座

2011年2月
思えばホームページの学習は5年近く継続しているだろうか? この平成23年の1月末で、やっと、やっと全編タグでの作成が完成した。 そもそもホームページの作成にかかわったのは、鎌倉風致保存会の会員幹事会での話からである。ホームページの充実を話題にした途端、言い出した私に作成担当が回ってきたのは、市民活動団体ならごくごく常識の話。 それから慣れないパソコン修業を繰り返し、やっとホームページビルダーでのホームページがさくさくと出来るようになった途端、そんな素人作業では困りますと外野から球が飛んできた。 その悪魔の声のようなご指摘をいただいた鎌倉市市民活動センター運営会議のホームページ作成講座に恐る恐る参加することにしたのであった。その後はその先生である西澤さんのご指導で涙ながらの修行を繰り返し、出来の悪い子ではあるが、私のサイトをタグに切り替えたのである。 パソコンの先生は一般的に唯我独尊の方が多く、知りたい答えを聴く前にその先生の知識をご披露いただくことになり、肝心の回答を知る前に疲れてしまう。 だから私は「パソコンの先生のお話を聞くのも立派なボランティア」と皮肉る。 ところが西澤さんはちょっと違う。豊富な事例と資料によって(しかも自作で作っているとの話)出来の悪い私でも筋道を教えてくれる。だから地獄で仏に逢ったようです。 仏の西澤さん
仏の西澤さん

いざかまくらトラスト

深沢で草刈りの応援

2010年11月14日
ちょっと横目に見ながら応援している団体「いざかまくらトラスト」から鎌倉の深沢にある市有地の草刈り作業の応援をご案内いただけた。場所は深沢中学の南側にある小路に沿った傾斜地で50u程度の小さな場所。この団体の主旨でもある『猫の額ほどの緑地を守ろう』というコンセプトを目の前で見るよう。草刈りには近所の女性が駆けつけてくれ、男性2名を加え7〜8名での手作業。2時間程度ですっかりきれいになりました。 日頃は草刈り機をぶんまわし、みるみるうちに草をなぎ倒すことの多いボランティア作業を行っている私メには、新鮮な経験でも有りました。 自分たちの身近な緑地をご近所の力で守り続ける姿勢を少しでも手助け出来たことをうれしく思います。 きれいになった緑地で記念撮影
きれいになった緑地で記念撮影

ちがさきサポートクラブ

校庭へ芝生を張る

2010年6月
神奈川県立茅ケ崎養護学校の校庭へ西洋芝の植え付けを行うので参加しませんか?と市民活動仲間からお誘いを受ける。手伝うなら知力より体力の私には、蛇に睨まれたカエルのように、「はいはい」と参加者の一人として駆け付けたのでありました。6月19日の行われた最初の植え付けにはたくさんの方々が参加し、あっと言う間に終わってしまった。その上、養護学校の先生方がピザなどを食べきれないほど用意いただき、そんなたいしたことをしたわけでもないから、どうも居心地が悪い。 しかし、その後は芝生の成長と雑草の成長の追いかけっこ。この猛暑の夏の中朝からの雑草取りはともかくしんどい。8時過ぎからの作業とは言え、校庭の地表は30度をすぐ越えてしまう。だから1時間程度しか作業ができないのだ。。。 このような植物の植え付けは、植えることよりその後のフォローが一番大変なのは判っているはず。植え付け時にはたくさんの応援が有ったにもかかわらず、 その後は数えるほどの参加者しか居ないのが残念だった。 サポートクラブ チラシ
サポートクラブ チラシ

鎌倉風致保存会

追憶 片岡正策さん

2010年5月
風致保存会でのボランティア仲間で作業後の楽しみ(ちょっと一杯)も一緒だった、片岡さんがこの5月に帰らぬ人となった。 確か、1月末だったと思うが、風致保存会の幹事会終了後、大船のいつもの店で二人で飲んだその次の日に体調を崩し入院となった。その前の週は元気に草刈り作業をしてしたのだから当人も病人とは思わなかったであろう。湘南鎌倉病院に見舞いに行ってもこっちのほうが、よほど病人のよう。。。。
4月末、自宅に戻っていたときには近くの喫茶店で軽食を楽しみ、明日から病院に戻ると話した数日後病院を訪れたのが最後の会話となった。 5月8日(土)の午前中に建長寺の中の回春院で草刈りをしていると奥様から私に携帯が入ったらしいが、電波が届かず、その日の夕方お亡くなりになったのである。 次の日改めて奥様からこのことを知り、大船まつりでの手伝いを午前中に切り上げご自宅に伺った。ベッドの上の彼はまるでただ眠っているようにしか見えない。ただそっと御顔に手を当ててみるとびっくりするように冷たくなっていた。そこでは茫然とするばかりで涙も出ない。
大船祭りの実行委員でもある彼は、その直前まで祭りのパレードがうまくいくかを心配し続けたが、それを自分の旅立ちの葬送曲としたのであろうか。急な旅立ちはいかにも彼らしい。享年69歳であった。
片岡正策さん
片岡正策さん

鎌倉風致保存会

玉縄桜(たまなわざくら)を十二所果樹園に植える。

2010年3月6日
鎌倉風致保存会のトラスト地である十二所果樹園は年々整備が進み、伸び放題だった梅林だけではなく、笹などによっておおわれている傾斜地もずいぶんきれいになった。 こんな中、この3月に2回目の植樹が行われた。今回は鎌倉の市民活動の仲間でも有る、「玉縄桜を広める会」から苗木2本をいただき、展望台近くの尾根筋に植えることにした。 不思議なことにこの2回とも植樹は雨模様となり、足元の悪い中での植え付け作業はちょっと大変。この位雨が降れば絶対根付くだろうと慰める。
風通しも良く、お日さまの良く当たる南斜面にほかの木とも交じっての植樹で有るが、数年後には近くを通るハイカーにも楽しめるようになると思う。
植樹の様子
植樹の様子(写真の人は廣瀬さん)

鎌倉市市民活動センター運営会議

かまくらファンド審査会

2009年11月3日
鎌倉市市民活動センター運営会議では、毎年市内の市民活動に対する応援の一環として ファンド金の支援をしている。金額は20万円を上限とし、応募の中から4団体に5万円を渡すことが恒例。
そのファンド審査会が11月3日に行われた。この審査会は運営会議・財政部会の晴れの1日では有るが、準備には半年間を要するのだ。09年は応募が5団体だからプレゼンテーションの技量が試される。話好きと言うのとプレゼンテーションがうまいとは必ずしも重ならず、自己陶酔の中であっと言う間に時間が過ぎる光景をよく見る。 それと活動内容のすばらしさと熱意が加われれば満点ですね。。。
念のため、全員で財政部会・会員は3名とはいえ、それぞれ口八丁、手八丁のすご腕ばかりで、司会、進行、裏役のどこに回っても場を盛り上げるのは感心する。 役者揃いの部員では、何をやってもこなしていくのであろうか? それとも火事場の馬鹿力なのだろうか? 普段の言動からは考えられないあっと驚く技量にはいつも感心ばかりしている。 今年度のファンド受給団体は以下の通り。
  • 鎌倉ガーディアンズ
  • 青空自主保育 でんでんむし
  • 玉縄歴史の会
  • 游風(ゆうふう)
  • ファンド審査会光景
    ファンド審査会光景
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    茅ケ崎の市民活動仲間

    岡本太郎さんもビックリ 丘みつこさん

    2009年8月20日
    細かい事情は別として、箱根に有る丘みつこさんのアトリエで行われた陶芸展に(突然)行くことになった。茅ケ崎での市民活動仲間からのお誘いで、場所は箱根の芦ノ湖畔。丘さんが陶芸を習っている先生を茅ケ崎の仲間が知っているからとの理由で、棚から牡丹餅のうれしいお誘い。
    丘さんの作った陶器は茶碗やお皿と言った普通のデザインが少なく、1メートル以上も有るエネルギッシュな作品群は彼女のイメージとは大違いの迫力を感じる。ちょっと縄文式土器の感あり。 折しも丘さんご自身もいらっしゃり快く対応してくれる。羨ましいくらいスマートでやっぱり目立つ。やっぱり普通の人では無い。
    有名人を見ると鎌倉の行事での参加を考える癖が有る私は、どんな場合に来ていただけるかと彼女に聞いてみた。突然の馬の骨のおじさんに対して、とても親切なお答えをいただいた。そんな彼女も素敵でした。
    アトリエ全景 丘みつこさん 丘さんの作品
    アトリエ全景
    丘みつこさん
    丘さんの作品

    鎌倉世界遺産登録推進協議会

    鎌倉の女(ひと)異聞

    2009年2月8日
    鎌倉観光協会での年初の集いに鎌倉世界遺産登録推進協議会の一員として参加した。場所は鶴岡八幡宮の参集殿。 200名を超える会員などでごった返す華やかな会場にどこかで見たような人は参加されていた。その人はダークトーンの気味な服装ではあったが、歌手の原田悠里さんその人でした。普通ならあでやかな和服姿でさっそうと登場するはずであるが、簡単な紹介は有ったが特別に歌を歌うことは無く、混雑する人並みに中でどちらかと言えばポツンとしていた。なお、彼女は「鎌倉の女(ひと)」を発売したことで参加している。 鎌倉ではちょっとした有名人では鼻にも掛けられないらしい。そんな姿を見つけ、声を掛けさせていただいた。原田さんにとってはあぶないおじさんが付け回すがごとくに感じたのだろうか?それとも地獄に仏と映っただろうか? 観光協会として、少しでも市外の方をもてなすのが大事なのだから、もう少し大騒ぎしてあげても良いのではないかと残念に思った。 原田悠里さん
    原田悠里さん

    北鎌倉の景観を後世に伝える基金

    “なだいなだ”さん

    2009年1月11日
    なださんに初めてお会いしたのはもう5年も前になるが「北鎌倉の景観を後世に伝える基金」という市民活動団体の定例イベントに参加した時だった。
    この会は毎月地元の「台峯」を歩いて回ることによって、その素晴らしさを実感し、保全活動に協力してほしいとの趣旨であった。 なださんはこの会の理事長として何を置いてもこれだけは毎月参加され、また集合場所の山之内公会堂では最初に一言お話をいただいた。
    どちらかと言うと小さな声ながら、おだやかな口調の中にも政治の在り方など辛口の内容にもかかわらず、ユーモアを交えた話し口で、ふと引き込まれる話ぶりはすばらしく毎回楽しみにしていた。 ちまたで行われる街頭演説は旧全学連のアジ演説のように大声、激高したどなり声が普通と思うが、人の心に沁み込むような語り口にはこのような方法もあることを知らされた。
    その後「台峯」の保全が決まりなださんは代表も降り、今は1年に数回しかお会いすることが無くなったが、来られるたびにお話されることを楽しみにしている。今回フランスから帰って間もない1月11日に鎌倉にて「北鎌倉の景観を後世に伝える基金」の新年会が開かれ、お元気な姿を見せてくれた。 会の象徴としていつまでも見守って欲しい。
    なだいなだ
    なだいなださん

    総会風景
    総会風景

    鎌倉風致保存会

    早乙女貢さんの思い出

    2007年3月
    早乙女さんは鎌倉の市内を颯爽と気流し姿で歩いていらした。
    2006年夏、私の所属する鎌倉風致保存会の広報誌に早乙女さんのインタビューを載せることになり、建長寺内の塔頭「回春院」にて対談を行った。
    強面の外観とは裏腹に、私の子どものころは体が弱く、徴兵検査の身体検査でははねられてしまったのだが、26,7歳ぐらいから人並みの体になって、その後は50年近く病院など行ったことが無く、病気など一切せず、皆さんには悪いくらいどこも悪くないと明るく話すのでした。
    更には、作家仲間との交流の話やルーマニアへの外遊記などの話におよび、ルーマニアの若い女性はだれも「りかちゃん人形」のように可愛いのだが、その後信じられないくらい見事な体格に変わっていくのが残念だともユーモアたっぷりに話す。
    インタビューの目的は鎌倉の自然・文化の素晴らしさを語っていただくはずだったが、どこまで行ってもその兆しなど見えてこない。1時間半以上たったころであろうか、ふと話題が切れた一瞬に横合いから私から「ところで鎌倉の.。。。」の口を挟み、やっと今回のインタビューの内容に戻すことができた。 私はひたすら路線変更のタイミングを図っていたのであった。その緊張感を忘れられない。
    その後、私も鎌倉の世界遺産登録推進協議会のメンバーになると、すでに理事として活躍しておられ、鎌倉が世界遺産にならなかったら恥ずかしくて外を歩けないと市側に発破をかけていた。その最中この1月にお亡くなりになってしまった。 今回、「かまくら散華」の制作にあたり、そのタトウ文に鎌倉ペンクラブ会長として早乙女さんの文を書いてもらう手筈でいたが、ほんの少しのタイミングでかなわなかった。 この春出来上がる「かまくら散華」を持ってご遺族を訪ねたいと思っている。
    早乙女さんインタビュー
    早乙女さんインタビュー
    風致保存会会報

    風致保存会会報

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